正位置


 黒滝雄二さんが語る奇妙な話は、姉である鞠子さんが狐に憑かれたことから始まる。


 現在三十代の雄二さんと鞠子さんは三陸地方の小さな町で生まれ育った。家は代々、便利屋を兼ねた工務店を営んでいる。地元では既に雄二さんが「四代目」とあだ名されているが、三代目の父はもちろんのこと、先代の祖父もまだまだ現役だ。


 雄二さんと鞠子さんは歳が近いこともあり、昔から仲の良い姉弟だった。

 姉弟が小さい頃は、両親と四人で工務店の二階部分に住んでいた。四畳半の空間にキッチンと冷蔵庫、洗濯機やテレビがあり、今となってはどうやって布団を敷いていたのかわからぬほど狭かった。


 工務店の近くには母の生家があったが、母の家族は随分前に関東へ移り住んでおり、長年空き家となっていた。

 雄二さんが小学校へ上がる頃のこと。その家を増改築し、父方の祖父母と同居することになった。

「まるで突然物置から豪邸に引っ越したようだった」と、雄二さんは振り返る。広くて新しい家が嬉しくて、姉とともにいたく感激したらしい。


 来るぞ来るぞと言われていた宮城県沖地震に備え、様々な工夫を凝らした頑丈な家だったが、二〇一三年の東日本大震災では床下浸水の被害に遭ってしまう。

 その後さらにリフォームを重ね、すっかりモダンな外観となった二階建ての一軒家。震災から十年以上経過したが、家族の誰一人欠けることなく、今も六人でその家に暮らしている。


 雄二さんは高校卒業以来ずっと家業を手伝っているが、鞠子さんは美容専門学校進学の道を選び、卒業後は県内のブライダル専門ヘアサロンへ就職した。

 物腰の柔らかさから気弱に見られがちだが、鞠子さんは昔から社交的な性格だ。雄二さんから見ても、鞠子さんは美容師の仕事を心底楽しんでいるように見えた。


 そんな鞠子さんの生活が一変したのは、ある年の秋頃である。

 その日、鞠子さんは妙に無口だった。

 雄二さんは鞠子さんの変化にすぐ気づいたが、仕事で疲れているのだろう、と最初は気にしなかった。

 しかし鞠子さんは、貴重な休日の昼間だというのに、何をするでもなく、無言でリビングのソファに座ったまま微動だにしない。寝ているのだろうかと顔を覗き込むと、鞠子さんの目は大きく見開かれていた。

「姉ちゃん」

 呼びかけながら手を振ってみる。

「寝てるの?」

「おーい、起きてる?」

「大丈夫か。鞠ちゃーん」


 何度声をかけても反応が薄い。不安になった雄二さんは、風呂掃除をしていた母親を呼びに行ったが、その間に鞠子さんは自室に戻ってしまい、結局その日は出てこなかった。


 翌日、鞠子さんはいつもと同じ、朝六時にリビングへ現れた。昨日とは一転、こんどは神経質そうに目玉をぎょろぎょろと動かし、何かを気にするかのように落ち着かない。

 そのときは鞠子さんが「ちょっと体の具合が悪い」と言ったので、家族は納得し、あまり気に留めなかった。


 が、たった数日後にはもう、鞠子さんはパジャマ姿のまま裸足で外へ飛び出したり、深夜に大きな叫び声を上げながら家の周囲を走り回るなどして、雄二さんたちを驚愕させた。奇行は日増しにエスカレートし、ひとときも治まる様子がなかった。


 これは明らかにおかしい。

 雄二さんは脳の病気を疑った。大学病院に連れて行けば検査をして貰えるだろうか、それとも救急センターが良いだろうか、それはさすがに尚早か。

 動揺でまとまらない頭であれこれ考えていると、両親から「精密検査を受けるまで、一ヶ月は予約待ち」と告げられてしまった。

 病院に電話をしたのは母である。いざ相談するとなると、娘の異常な行動を話すことがまるでのようで、急に恥ずかしくなってしまった。事態をぼかして伝えたため、緊急を要さない患者と見なされたのだろう。


 雄二さんは母が取り付けた検査予約日を待たず、比較的近所にある脳外科医院へ強引に姉を引きずっていったが、結果は異状なし。


 脳外科での検査を終え、二、三日が経った日のことである。


 二十二時を過ぎた頃、リビングで煙草をふかしていた父親のもとに、近所の人から着信があった。

「もしもし。おう、どうした」

 聞くや否や、父はどしどしと階段を駆けあがる。しばらく慌てた様子の足音が家中に響いていたが、再びリビングに戻ってきた父の顔は真っ青だった。

 リビングで様子を伺っていた雄二さんが、おそるおそるどうしたのか問うと、父は胸を抑えながら、掠れた声で「鞠ちゃん」と言う。


「漁協の人が、車でトンネルの近くを走ってたら、途中の山道で鞠ちゃんみたいな女の人が立ってたって。部屋にいなかったから、たぶん鞠ちゃんだよ。とりあえず車に乗せてもらって、連れて来てもらうことになった」


 雄二さんは仰天した。一体、いつの間に姉は家を出たのか。

 祖父母はとっくに寝ていたし、家族は誰も鞠子さんがいなくなったことに気づいていなかった。

 出て行った先で、たまたま誰にも見つからなかったらと思うと、ぞっとしてしまう。


 このとき、奇妙な点は他にもあった。雄二さんは姉が二十時頃に二階の自室へ入ったのをしっかりと確認していた。それからは玄関に通じる廊下や階段が見えるよう、リビングの扉はずっと開け放していたのに。

 誰も、玄関へ向かう鞠子さんの姿を見ていない。トントンと、よく音の響く階段を降りてくる足音さえ聞かなかった。


 鞠子さんが発見された場所は、家から三キロ以上も離れている。徘徊する範囲がどんどん広くなっていた。

 裸足で走り回って真っ黒になった鞠子さんの足を見て、家族はまた青ざめた。ふくらはぎの上にまで付着した海老茶色は、土埃ばかりでなく、血を擦った色だとわかる。裸足の皮膚を散々切って、ほとばしるほど血が出て痛かったろうに、構いもせずなお走り続けたのだろう。


 今日までの雄二さんは、変貌した姉に戸惑い、苛つきながらも、それ以上に哀れだと感じていた。

 だが姉は、きっと可哀想な異常者などではない。

 もっと狂気を帯びた、得体の知れぬ恐ろしいものに変貌してしまったのだ。そんな直感があった。姉を想う滋味を帯びた感情が、一気に緊張へと変わった瞬間だった。


「狐に憑かれたせいだ」

 誰が最初にそう言ったのか定かではない。けれど、この頃からそういうことになった。鞠子さんは狐に憑かれておかしくなってしまったのだ。


 鞠子さんの変わり様はあまりに急で、何かあったのかと家族が尋ねる機会もないほどだった。

 しかしながら、鞠子さん本人もこのとき、少なからず危機感をおぼえていたようである。このままでは自分の身が危ないと踏んだのか、こんどは部屋の中に引きこもり、そこからまったく出なくなってしまった。無理やり有休で繋いでいた仕事ももちろん辞めた。


 ごく狭いコミュニティのことである。狐に憑かれた鞠子さんの奇行の数々は、とっくに町中の人々へと知れ渡っていた。

 しかしどんな奇妙なことでも人は慣れるらしい。半年ほどそんな状態が続くと、近所で雄二さんと鉢合わせた人々は「いまどき二、三年程度の引きこもりなんて珍しくないってよ。よろしくねえ」などと呑気なことを言う。


 実際、鞠子さんの状態は半年前よりだいぶ落ち着いていた。

 最初こそ、食事も摂らず自室で餓死するのではないか、今まさに自死を試みているのではないかと家族は心配したが、幸いそれは杞憂に終わった。

 引きこもって二、三ヶ月も経つと、鞠子さんは食事のために一階へ降りてこれるようになっていた。

 それからは徐々に口数が増えて、春先には、美容師をしていた頃の朗らかな面影を取り戻しつつあった。


 桜が散り、東北もようやく暖かくなってきた頃、両親と祖父母が慌ただしく家を出て行った。知人の危篤か、あるいは通夜の準備だったかで、とにかく急用であったらしい。その夜は雄二さんと鞠子さんの二人きりで、珍しく静かな夕餉となった。

 それが心地良かったのか、鞠子さんは初めて「自分が何をしてるのかわからない」と、狐に憑かれている状態について雄二さんにこぼし始めた。


「なんであんな変なことをしてたのか、自分でもわかんなくて。色々やらかしてた時のことはもう忘れたし、きっとその最中も頭真っ白で、何もわかってなかったんじゃないかな。でも、あんまり当時のことを思い出そうとしたらさ、また何かやっちゃいそうで、怖いから。この話はもうナシね」


 雄二さんはそれで構わなかった。猫のように知らぬ間に家を飛び出てそれきり、という結果でなければ文句なしだ。


 夏が過ぎ、転機となったのは九月。鞠子さんが狐に憑かれてから、そろそろ一年が経とうという頃である。

 雄二さんの工務店に、高校時代からの友人である谷さんが訪ねて来た。要領が良くちゃっかりした性格の谷さんは、よく息抜きや昼休憩と称して職場を抜け出す。こうして雄二さんのもとへ現れることも珍しくない。


「よう、鞠さん元気?」

「うん、変わりない。元気にニートしてる」


 この頃には家族も含め、皆かつての鞠子さんの奇行などすっかりどうでもよくなっていた。とはいえ、鞠子さんと親しかった人々が、完全に狐のことを忘れていたわけではない。「ちょっと聞いてほしいんだけど」と話を切り出した谷さんは、鞠子さんの学生時代の元恋人であった。


 仙台の美術専門学校へ進学した谷さんは、その後も仙台に暮らしていた。震災を機に、勤めていた会社を辞めて実家へ戻り、同じく地元へ出戻った知人とデザイン事務所を起ち上げたのが五年前である。

「この前、うちの新しいオフィスにオバケが出るって話をしたよな。あの話の続きなんだけど」


 彼らの事務所は当初、近隣のT市にあった。T市内の駅から仙台駅までは、電車でおよそ三十分。雄二さんたちが暮らす町と比べて便利なロケーションで、人口も多い。

 しかし十年の間に復興が進み、被災して大幅に人口が減った地元の町にも、以前より居住できる建物が増えてきた。社内で話し合った結果、そろそろT市から地元へ戻り、復興支援への貢献をしたいということでまとまり、黒滝工務店からそう遠くないマンションへ事務所を移転してきたのだ。


 ただ残念なことに、幽霊が出ることで有名な物件だとは知らずに借りてしまった。谷さんの話では、事務所では毎日のようにモノがひとりでに動いたり、大人数の足音や、子どもの笑い声などが聞こえるそうだ。


「それで、職場の後輩がいよいよ我慢できなくなって、山形から霊媒師を連れて来たんだけどさ。その人がマジだったんだよ。マジで出なくなった。おれはもともと幽霊は見えないから、百パーセントかはわからないけど、でもとにかくポルターガイストはマジで全部なくなった! もう快適で快適で」

「良かったじゃん。わざわざそれを言いに来たのか」


 雄二さんが失笑すると、そうじゃなくて、と谷さんは食い気味に雄二さんを睨んだ。


「あまりにも効果てきめんだったから、感激しちゃって。折角だから、その霊媒師に話したんだ、鞠さんのこと。そしたらさ、ちょっと心当たりのあるアドバイスをくれたから、それだけ伝えたくて。あとでまた連絡するから、騙されたと思って試してみろよ。あと、お祓いなんかは要らないから、報酬も要らねえってさ」


 そうまくしたてて、谷さんは忙しなく事務所へ戻っていった。


 谷さんから件のメッセージが届いたのは、その日の夕方である。雄二さんの仕事終わりの時間を見計らって寄越したのだろう。

 雄二さんは工務店から帰宅するため、自家用車を置いている駐車場へ歩いている最中だったが、すぐに踵を返した。


 ――自宅で彼からのメッセージを開いたら、姉に憑いた狐に見つかるのではないか?

 馬鹿馬鹿しい妄想かもしれない。とはいえ、雄二さんには何が原因でこうなったのか、何が良くて何が悪いのか。何年もわからずに姉を助けられなかったのだから、念には念を入れなければ。

 雄二さんは店の裏手に回り、靴を脱いで二階へと上がった。かつては住居だったが、現在は休憩や仮眠、稀に客間としても使っている。

 黄色に褪せた畳の上に腰を下ろし、雄二さんはそっと谷さんからのメッセージを開く。


『冷蔵庫の横にある〇〇〇〇のお札が逆向き。正しく貼り直せ』


 ――あぁ、そういうことか。

 雄二さんは「はあー」と大きな溜息をつき、安堵に胸を撫でおろしながら顔を上げた。

 目の前に広がる天井が、うっすらと黄ばんでいる。そこには一面、びっしりと御札、御札、御札。壁も扉も、隙間がないほど様々な御札で敷き詰められていた。


 理由など気にしたこともないが、昔から雄二さんの家の中はどこもかしかも御札だらけだ。リビングもキッチンも脱衣所もトイレも家族の寝室も仏間も玄関も、おびただしい数の御札で埋め尽くされている。そういえば昔、谷さんから「お札屋敷」と呼ばれたことがあった。

 家族が特定の宗教に熱心というわけではないし、他所より信心深いというふうでもない。なのに、なぜか昔から黒滝家は「お札屋敷」なのだ。家族の誰かがどこかで御札を貰ってきては、あちこちの壁や柱や天井、ドアなどに貼る。

 そうして、家の中の御札や御神札は年々増えていった。


 帰宅後、雄二さんがLINEの指示通りにキッチンを覗いてみると、霊媒師が指定した「〇〇〇〇」の御札が確かにあった。

 何と書いてあるのか非常に読みづらいく、誰が貼ったのかわからぬものの、向きを間違えるのも仕方ないように思える。スマートフォンの画面上に並ぶ〇〇〇〇の文字列は整っていて読み易いが、いったいどういう意味の言葉で、何のご利益があるのものなのかは見当もつかない。


 結果、霊媒師の指摘は正しかったようである。御札の向きを逆さに貼り直した直後から、鞠子さんは嘘のように以前の明るさと元気を取り戻した。いずれは美容師に復職したいと語り、現在は家業を手伝いながら体力を取り戻している最中だ。


 問題の御札も、誰がどこで貰ってきたのかはうやむやのまま、今も冷蔵庫の横に貼られているらしい。


「でも、どうして姉が狐に憑かれたという話になったのかはわからないんです。みんな不思議なほど狐憑きという言葉を真に受けて信じていたけど、誰が言い出したんだろう。姉も不思議がってますよ」

 思い出しておかしくなったのか、雄二さんは笑いながら話を締めくくった。

 黒滝家の御札は、今も増え続けているそうである。








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【短篇集】六花奇譚 平蕾知初雪 @tsulalakilikili

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