第31話 揺れる和水さんと流れる鼻血②


 その後、点は動かずに攻守交替となった。


 女子も向こうの先生に怒られたようで、さっきまでのように露骨に応援をしている子はいない。


 応援がなくなったからかなんとなくやる気が減って見えるクラスメイトたち。


 守備も適当に割り振られて、僕はショートに入った。


 運動とは体育以外無縁の人生を送って来たから仕方ないと思うのだけど、ショートはどこにいればいいのかいまいち分からない。


 こんな難しそうなポジションが……いや、どこだろうと務まる気がしなかったけれど、今更何かを言えるような空気でもなく、とりあえずグローブをつけてそれらしい位置に立っておくことにした。


 僕が上手くできなくても初めから誰も期待なんてしてないし、他の人が上手くカバーしてくれるはずだ。


 そんな考えで気の抜けきっていた僕は、相手の打者より女子の方を見ることに一生懸命だった。


 短距離を走る女の子は、一言で言うとよかった。


 激しい運動でいろいろと揺れるからだ。


 しかも、運がいいことに次は和水さんが走るらしかった。


 位置につく和水さんが見える。


 僕は生唾を飲み込んで運命の時を待った。


 先生の合図が聞こえ、その瞬間に走り出す和水さん。


 走っている和水さんの姿は、一言でいえば素晴らしいとしか言いようがなかった。


 揺れる。


 何がとは言わないがとにかく揺れる。


 ぽよんぽよん、なんて生易しいものじゃない。


 上下に激しくブルンブルンッと揺れる様はもう……とにかく素晴らしかった。


 僕の視界に入っている男子も皆和水さんに見惚れているようだ。


 当然僕もそれは一緒で、揺れる和水さんに見惚れているうちに興奮してきた僕は、漫画みたいに鼻血でも出そうな気がしていた。



「……あ」


 遠くで声が聞こえた。その瞬間だった、



「うぐっ!?」


 顔面が潰れた。


 比喩ではなく、何かが凄勢いで飛んできて僕の顔面にめり込んだ。


 衝撃で身体が後ろに倒れていく。


 スローモーションで視界が傾いていき、自分が倒れている最中だと分かるのに、それでも自分ではどうすることもできない。


 仰向けに倒れている途中の僕の視界には、真っ青な青空と、飛び散る鮮血、土埃で汚くなったボールが見えていた。




 一瞬視界が暗転し、次に目を開けると上から体育の先生が僕を覗き込んでいるところで、周りには守備についていたクラスメイトたちも集まって来てくれていた。


「意識あるか?」

「……あ、全然あります」


 一瞬自分の状況に混乱するも、すぐに揺れるオッパイに見惚れていてボールを顔面で受けたことを思い出した。


 最低すぎる理由に自分でも情けなくなる。


「それはよかったが、鼻血が酷いな」

「す、すみません」


 反射的に手を鼻に当てると、指が血で真っ赤になった。


 和水さんの胸を見ながら鼻血が出そうだと思っていたけれど、違う原因で本当に鼻血を出してしまうとは……。


 僕は慌てて持っていたポケットティッシュを取り出して鼻にあてた。


 ティッシュは一瞬で真っ赤に染まったけれど、なんとかジャージは汚さずに済みそうだった。


「お、ティッシュ持ってるなんて用意がいいな」

「あはは、一応いつも持ってるので」

「しかし随分綺麗に入ったな。これは保健室行った方がいいかもな」

「そ、そうですね……」


 僕としても別に無理をしてまでやりたいほど、体育の授業が好きなわけでもない。ここは大人しく保健室に行って見てもらおうと思った。


「ぷふっ、ティッシュって、準備良すぎだろ。鼻血出す気満々かw」

「ちょっ、やめろって、これ以上笑わせんなよww」

「しっかしダセェな、涙目じゃん。女子も見てるのに最悪だろあれ」

「いやいや、逆にラッキーだろ。だってあいつのことなんて誰も見てないからw」

「あぁ~確かに~、言えてるなww」


 離れたところにいる隣のクラスの連中が笑っているのが聞こえてくる。


 いつもなら、僕はこんなくだらないことは聞こえないふりをした。


 だってあんな感じで人を馬鹿にしてくるような低レベルの人たちと言い争っても、高レベルの僕には何の得にもならないからだ。


 あの人たちとは違って僕はもう大人だから、ちょっと馬鹿にされたくらいで怒ったりなんてしない。笑って許してあげるくらい僕は心が広い。


 だから今も別に怒ってはいない。


 ただ、誰も僕を見ていないという言葉にだけは思うところがあった。



「和水さんは! 僕を見てくれてたぞ!!」


遠くで笑っている奴らに向かって、僕は堂々と宣言はしない!


 ……心の中でだけ叫ぶ。


「じゃあ保健室まで一人で行けるか?」

「……いえ、大丈夫です。このまま続けられます」


 僕がそう返すと、体育の先生が驚いた顔をした。


 まぁ言った僕自身が驚いているから無理もない。


 僕はティッシュを丸めて鼻に詰め、血が流れてこないのを確認してから立ち上がった。


「保健室には行かなくても平気です」


 これがいったい何の強がりなのか、僕自身にも分からない。


 馬鹿にされたり下に見られたりすることなんて僕にとっては日常茶飯事で、そんなことにはもう慣れたつもりだった。


 ただそれでも、今日だけはなんとなく反抗してみたくなった。


 僕は和水さんから見てもらえている。


 他の誰もが見てもらえない、あの和水さんから僕だけは見えてもらえている。


 そんなある種の優越感が、僕を少しだけ強気にさせてくれたのかもしれない。


 別に何か言い返すつもりはないし、体育で張り合うつもりもない。


 ただ、僕にはお前たちが知らないところもあると、それだけは示しておきたかった。


 だから僕はまだやれると、固い決意を込めて力強く先生に頷いて見せた。


「いや、保健室行きなよ」

「え? あれ、ダメですか?」

「だって倒れて頭打ったかもしれないじゃん」

「いえ、鼻血だけですから平気です」

「何でそんなに拒否するの? そんなに体育好きじゃなかったでしょ?」

「まぁ、そうなんですけど」


 なんとか粘っていると先生は打席にだけ立つことを認めてくれた。


 けれど、大事をとって守備からは追い出されてることになり、僕は大人しくベンチに戻った。


 守備の間暇になり、特に応援する意味もないし、とりあえず女子の方を見てみる。


 顔面にボールが当たるって結構な大事故だと思うのに、あまりこちらに注目している様子はなかった。


 そんな女性陣の中で、一人だけ僕を見てくれている人がいた。


 他でもない和水さんだ。


 なんともいえない微妙な顔でこちらを見ている和水さん。


 彼女が何を思って僕を見ているのかは分からない。


 もしかしたら隣のクラスの奴らと同じように僕を馬鹿にしているかもしれない。


 けど、僕は勝手にそうじゃないと思い込む。


 僕だけに優しい和水さんは、きっと心配して見てくれているとそう思い込む。


 本当のところは分からない。


 けれど実際に和水さんは僕を見てくれている。


 それだけでも、さっき僕を馬鹿にしてきた奴らをちょっと見返してやることができたような気がした。

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