第54話 終わりを告げて



 事故となれば人が集まってくる。

 そんな中、詩絵は平然とした顔で無関係を装いその場を離れた。飲み屋街へと。

 電話をしている運転手の声と、呻き声をあげて苦しむ娥孟萬嗣。それらを置いて僕も詩絵と一緒に行く。


 僕は出入りした経験のない場所。スナックとかキャバクラとか、何が違うのかよくわからない。

 屋外の階段から各店に入るビルの中、それぞれのドアに色々な書体で看板がついている。

 普通に社会人をやっていたらこういう場所で飲むものなのだろうか。


 詩絵が入った扉には血の痕が残っていた。

 大きさからして娥孟の手だと思う。



「詩絵、これは」

「少し待って下さい。きっと……」


 店の中のすぐにある別の扉。トイレと英語で書かれていた。

 緊張の連続だったのだろう。さすがに一緒に入るわけには……と思ったら、すぐに顔を出した。


「ありました。これで拭きます」

「洗剤?」

「酸性の洗剤なら血液反応がある程度は消せます。何もしないよりはいいでしょう」


 一緒に手にしていた布巾で血痕を拭う。丹念に、跡が残らないように。


「本格的な捜査が入れば無意味です。別にここに娥孟が入ったことを知られても問題はありませんが」

「ここで、娥孟と?」

「……想定外でした」



 少し暗い顔になって首を振り、そういえばと言うように店内を見回した。

 何かを探すように。


「……いませんね」

「誰のこと?」

「私が娥孟と鉢合わせた時、たまたま常連客の人が入ってきたんです。それで逃げ出せました」


 鉢合わせた。想定外の事態で。

 こんな場所で娥孟と詩絵が接近したと聞いて、胸の中に嫌な気持ちが広がる。


「……すみません。本当に、想定していませんでした」


 感情が顔に出たのだろう。謝罪の言葉を口にしながら首を振る。

 危ないことをしないでほしいと頼んだ。なのにこんなに危険な事態になってしまって。



「何もなくて……詩絵が無事でよかった」

「……はい」


 ドア周りを拭き終えた詩絵が、がちりと鍵を閉めた。

 もう娥孟のような人間が入ってこないように。


「あ……僕も、指紋とか残さない方がいいかな?」

「雑多な人間が出入りする場所ですから、それほど気にしなくてもいいですよ。血痕はさすがに目立ちますから」

「そう」



 逃げ出した時なのだろうが、店内が荒れていた。

 倒れていた椅子やテーブルを直して、割れたグラスをとりあえずゴミ箱に放り込んでしまう。

 落ちていた詩絵の鞄を拾い、ソファに座り込んでしまった彼女の傍に置いた。

 ほっとしたら気が抜けたのだろう。項垂れる詩絵の肩をそっと撫でてから周りを見回してみる。


 薄暗い店内。

 控え目な光量の小さな照明が天井と壁に散らばっている。

 今は点けていないがギラギラした銀の球状の照明器具も。これがミラーボールというやつなのか。


 カウンターの前には固定されたスリムな椅子がいくつか。

 奥のガラス棚にたくさんのお酒が並んでいるけれど、知識がないので中身はわからない。



「……ごめんなさい」

「謝らなくていい」

「娥孟を利用するつもりでした。焦りすぎたと思いますが、この時間に来るとは考えませんでした」


 スナックなのだから夜に訪れるのが自然。

 今は救急車のサイレンや集まってきた人たちで騒がしいけれど、本来ならこんな時間に人気が多い場所ではない。


「膝が逆に曲がって巻き込まれていた。車と木に挟まれて引きずられていたから骨折だけじゃない」

「……その前に既に怪我をしていました。たぶん軽い脳震盪か何かで、近づくエンジン音に気付いていなかったんだと思います」

「そうだったんだ」


 この店のドアを開ける段階で出血していた。詩絵を追い詰め、追いかけて。

 万全の状態だったら詩絵は逃げ切れなかったかもしれない。僕はきっと暴力で叩き潰されていた。

 幸運だったのだろう。



「詩絵」

「……」

「娥孟はもういい。あの怪我なら当分は寝たきりだろうし、治っても足腰が弱る。その間に僕はあいつに負けないくらいに鍛えるから」


 僕の復讐の為に、もうこんな危険な目に遭わせるのは嫌だ。

 時間があるのなら僕が強くなればいい。彼女らを守る為になら必死で。

 ちゃんと話しておこう。俯いたままの詩絵に。


「次にあいつが何かしてくるなら、その時は僕が必ずどうにかする。信じてほしい」

「……司綿のことは、信じます」

「僕の復讐はもうこれで終わりだよ。もういいんだ」


 終わりにする。

 こんなことはこれで終わりに。

 それが正しいことだと思うから。



「卑金のことは、たぶん僕らにはどうにもできない。警察にもマスコミにも顔が利くような権力者だし、背背が死んだ今はもうあんなのどうでもいい」

「……」

「僕の為に、君がこんな怖い思いをするのはもう嫌なんだ。だからもう」


 さっき詩絵が言っていた。焦りすぎたと。

 復讐を果たすために彼女なりに考えた方法だというのはわかる。

 正面からではどうにもできない卑金に対して、娥孟の暴力をぶつけようとしたのではないか。卑金はこの店に出入りすることもあるから。

 その為の下準備をするつもりが、ここで娥孟と鉢合わせた。


「司綿の復讐は……」

「十分だよ、もういい」


 出所した僕に道を示してくれた詩絵に、半端な形で終わらせようというのは気が引けた。

 だけど、それで詩絵が不幸になるのでは意味がない。



「……わかりました」


 俯いていた詩絵が顔を上げて、ゆっくりと頷く。

 それから、今まで見たことのないような大人びた笑みを浮かべる。艶やかに色付いた華のような。


「……」

「司綿」


 言葉が出てこなかった僕に向けて手を伸ばした。

 細く小さな指で、僕の襟を握りしめて。



「……もう、終わりにします」

「……」

「司綿」


 誰もいない薄暗い店内。

 柔らかなソファに座ったまま僕を引き寄せて、抱き合って。

 僕の耳の後ろで、詩絵の息が深く吐かれた。おしまい、と言うように。


「詩絵、僕は……」

「ここには私たちだけです」


 わざわざ確認するように言って、僕と顔を合わせる。

 そのまま黙って僕を見つめたまま。



「……大好きだよ、詩絵」

「はい」

「愛している。君を、心から」

「はい、私もそうです」


 求められている言葉。そう感じたのは間違いではなかったらしい。

 心から満足した笑みを浮かべて頷き、彼女の方から唇を重ねてくる。

 僕も少しは察しが良くなったのか。



「愛しています、司綿」

「すごく嬉しいよ」

「世界で一番、あなただけ……」

「うん」


 酒場で男女が交わす会話とすれば、場違いでもないだろう。

 酔ったように愛を囁く。


「誰よりも、愛している。君を」

「……はい」


 誰もいないから。

 二人きりだから。

 僕はきっと、詩絵の艶笑に酔ってしまったのだろう。

 こんな顔を見せる詩絵は初めてだったから。



  ◆   ◇   ◆



 家に戻った僕は、なんだか悪いことをしたような気がした。

 何も知らずに夕食の準備をしてくれている舞彩の背中を見て、何とも言えない罪悪感。

 こんな隠し事をしたことがなかったから。


 その夜、僕は舞彩の顔を真っ直ぐに見られなかった。

 見ていたなら、もっと早く異変に気づけただろうに。



  ◆   ◇   ◆

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