第53話 終着
がちゃり、と。
絶望を告げるようにドアが閉じる音がした。
そう感じた。目の前が真っ暗になるような。
だけど――
「マァマ、今日はお店やるのかい?」
扉が開いた。
娥孟の背中で、抜けたような声と共に。
「ずっと休んでたから心配して……おんやぁ?」
娥孟は鍵を掛けなかった。
そういう発想がなかったのかもしれない。それともあちこち傷や打ち身があって頭がはっきりしていなかったのか。
誰かが店に出入りしているのを見かけて訪ねてきたのは、特に誰ということもない初老の男性。
「ママはいないのかな?」
「見りゃあわかんだろ、ジジイ」
振り返り追い払おうとする娥孟だが、その顔を見た相手が首をかしげた。
一歩二歩、入り口から娥孟に歩み寄って気遣うように手を伸ばす。
「取り込み中……って、あんたひどい怪我をしてるじゃないか」
「るっせぇ、放って――」
今しかなかった。
恐怖で硬直していた詩絵の足が、抜けたような声を耳にして解けた。
娥孟が男性に気を取られた隙にその脇を駆け抜けて、まだ閉じていなかった扉を押しのけて外に飛び出す。
詩絵の後ろ髪を娥孟の手が掠めたのを感じたが、立ち止まっていられない。
「おい、待てやこらぁ!」
テーブルやらが倒れる音と娥孟の怒声を聞きながら階段を駆け下りて、道路に飛び出す。
怪我をしている娥孟と、詩絵の足。
「逃げんなてめぇ、用があんだよ!」
「っ!」
後ろから迫ってくる気配がどんどん近づいてきて、とにかく逃げる。
時間が悪い。平日午前中の飲み屋街なんて誰もいない。さっきの男性は本当にただの偶然。
交差点を曲がるところで膝が震えて、さらに速度が落ちた。
ダメだ。逃げきれない。
逃げ切れないのなら、もう。
この身を犠牲にしてでも娥孟を利用するしかない。この男の暴力を利用すれば――
◆ ◇ ◆
娥孟を殺す。
そう決めたとしても何をすればいいのか。
真剣に考えた。人を殺す手段を。
考えてみて、案外とたくさんの手段があることに気づく。
刃物を使うにしても、鈍器を使うにしても。混ぜれば猛毒になる刺激物だって手に入る。密室ならストーブだって凶器になりうる。
背背が死んだ時のように水に落とすのも有効だ。酔っている状態ならなお確実に。
手段はいい。後回しで。
それより重要なのは状況。どういうシチュエーションで、どんな場所で娥孟に接触できるか。
背背のように港で一対一になれるのならいいが、そんな状況を作れるとは思えない。
そもそも娥孟がどこにいるのかと思い当たるのは、楽口が暴行を受けたこの歓楽街だった。
詩絵の母親、干溜埜埜の店がある場所。
この辺りにいるのかもしれない。
そう考えて、まず自分の足で向かってみようと思ったのだ。舞彩の自転車を借りて。
以前に来た時に道を覚えるよう詩絵に言われていた。
出所してから数か月、体を鍛えていたのが幸いだった。自転車で隣の市まで行くというのは結構な体力が必要だったから。
これだけ長く自転車を漕いだのは、逮捕されたあの夜以来だと思い出す。
最悪な記憶だったはずなのに、なぜだかそんなに嫌な気分ではなかった。
二時間以上かかってやっと目的の場所に辿り着いた。
あの交差点を見てと言われた場所に。
この奥に埜埜の店があり、もう少し先にあるマンションが住居なのだろう。部屋番号までは知らないが他に高級マンションなどなさそうだから。
自転車を降りて大きく息を吐いた。
額の汗を拭うと、一月の冷たい空気が熱くなった体を冷やす。
動いている間は気にならなかったが、これでは体が冷えてしまうか。
「……」
息を吸って、もう一度吐いて。
進もうとした僕の耳を荒々しい怒声が叩いた。
「逃げんなてめぇ! 用があんだよ!」
人気のない歓楽街に太く低い声が響き渡り、その僕の目の前に飛び出してきたのは――
「っ!」
今にも転びそうな様で飛び出してきて、そのまま背中を見せて走り去る。
見間違えるはずがない。詩絵が。
「ぶち殺すぞオラァ!」
続けて飛び出してきた肉の塊。
僕より二回りは大きな男が、血を流しながら詩絵を捕まえようとして。
「がもうばんじぃぁ!」
怒鳴った。
娥孟の地響きのような怒声に負けないくらいの声を、腹の底から轟かせるつもりで。
詩絵を追っていた娥孟が、数歩進んでから立ち止まり、大きな肩越しに覗き込むように振り返った。
さながら巨大な類人猿のよう。
「あァぁ?」
唸り声と共に、血走った目で僕を捉える。
見定めて、値踏みするように上から下まで眺めて、ぺっと唾を吐いた。
「知らねえ顔だが、なぁ? 呼び捨てにされるような仲だったか?」
「……」
値踏みしていたのではなく記憶を探していたのか。
面識のない僕が娥孟を呼んだ。明らかに敵意のある声で。
ごきゅり、と。
娥孟が首を回すと骨がきしむ音が聞こえた気がした。
間接が鳴る音は自分の耳には大きく聞こえても、実際に周りにまで伝わるものではないのだけれど。
僕よりかなり大柄で分厚い筋肉の娥孟の挙動は相手に恐怖心を抱かせる。まして僕は今、娥孟を敵に回しているのだから。
殴られるだろう。
どれだけ体を鍛えたと言ってもたかだか数か月のことで、暴力に慣れ親しんできた娥孟と戦えるわけがない。
今日は下調べのつもりだった。武器を持っているわけもない。仮に職質でもされれば困るのだから刃物など持ち歩けない。
詩絵の姿は見えなくなっていた。
それでいい。
正面から娥孟と対峙するなんて全く予定していなかったけれど、これでいい。
詩絵が逃げられたなら、僕がここで娥孟に殴り殺されたって。
「お前なんかの好きにさせない。もう、何も」
「なに気取ってんだか知らねえがまあいい。お前もセンセイの子飼いってんなら、店で話を聞かせてもらおうか」
センセイ?
それこそ何を言ってるのかわからないが、娥孟はもう一度大きく首を回した。
あちこち怪我をしている。打ち身で首の筋でも痛めているのか。詩絵がやったのか?
殴られながらでもこいつの目玉に指を突き刺してやれば、僕の力でもどうにか出来るかもしれない。
そんな甘い相手かわからないけれど。
「お楽しみを逃がしちまったんだ。てめぇの体でどんだけ――」
娥孟が踏み出した。
交差点を挟んで睨み合っていた僕に向けて、急に踏み込んできたのは威嚇の為もあったのだと思う。
交差点を挟んで、僕は立ち止まっていた。
娥孟だってつい先ほどまで、カーブミラーには立ち止まって首を回している姿が映っていた。
一時停止したスポーツカーが、その加速を見せつけるようにコーナーに走り出したのと同じタイミングで。
「くる、ま――」
ギュルキュキュゥゥッ!
嫌な音を立てながら、白いスポーツカーの前輪と脇の街路樹の間に娥孟の巨体が巻き込まれるのを見た。
最後の言葉は、理解はできるのだけれど、なんだか拍子抜けするほど間抜けな単語だったなと思う。
◆ ◇ ◆
店から走り抜けて、道を曲がって、また次を曲がったところで崩れ落ちた。
膝が笑って転んでしまい、立ち上がれない。
そのままうずくまっていたのだけれど。
顔を上げるのが怖かった。
すぐ後ろに娥孟がいるのではないかと思って、怖くて。
自分がこんなにあの男を恐れていたなんて知らなかった。前回、ホテルの窓から見た時には平気だったのだもの。
娥孟の手の届かないところから撮影していた時は、何とも思わなかった。
手の届くところにいて。
まるで猛獣の檻に入ってしまったように身が竦み、心が恐怖に支配された。
偶然の第三者が入ってきてくれなければ、あのまま――
「……つか、わ……?」
声が聞こえた気がした。
詩絵を助けてくれる司綿の声が。
そう、つい今ほど娥孟のさらに後ろから。
「司綿……?」
はっと顔を上げる。
転んだままの姿勢から顔を上げて、誰もいない。娥孟も、司綿も。
なぜ追ってこないのかと考えれば、だからそれは司綿が娥孟を呼び止めたから。
彼は娥孟を殺すと決意していた。娥孟を見て、まさか正面から?
「司綿!」
無謀だ。仮に何か武器を持っていたとしても、争いごとに非凡な才能を持つ娥孟相手に正面から挑むなんて、無茶どころではない。
司綿が殺されてしまう。
詩絵を守って、司綿が。また。
「司綿、だめ――」
先ほどまで逃げ出すことでいっぱいだったはずなのに、今来た道を戻った。
駆け抜けた交差点に戻ろうとして、その詩絵の目の前で娥孟が車に轢かれた。
巻き込まれながら街路樹に挟まれて削られる娥孟。
そんなものよりも。
車と娥孟が抜けた後の交差点の向こう側に。
真冬なのに汗だくで、戦ったわけでもないはずなのに荒い呼吸を繰り返す姿を見た。
「……司綿」
「詩絵」
事故を起こした車をちらりと見てから、交差点を渡って詩絵の傍に来てくれる。
怖い顔をしていたけれど、すぐ近くに来たら安心したのか大きく息を吐いて、それからいつもみたいに笑いかけてくれた。
「もう、大丈夫だ」
「……はい」
いつかみたいに、優しい笑顔で。
◆ ◇ ◆
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