第44話 膨らんで流れて_1



 浮抄ふしょう淇欠きけつにも非番の日がある。当たり前だが。

 刑事の通常勤務は日勤だが昨日は遅くなった。普通の会社でも残業があるように。


 昼間に本庁の近くの歓楽街で傷害沙汰があったとか。犯人はいまだ不明、逃走中。警戒を怠らないように、などと。

 近隣の防犯カメラの荒い映像では大柄な男だという情報だが、それだけで警戒しろと言われても。


 普段から歓楽街に出入りしている人間ならすぐに身元が割れるかと思うのだが、一致する人間がいないらしい。

 よそ者だとしたら既に近くにいない可能性も高い。


 頭を打った被害者の意識は混濁しているものの生命維持に問題はないとのころ。事件の時の記憶だとか脳への影響は意識が戻ってからでなければわからない。

 前歯二本と鼻が折れ、肋骨にもヒビだとか。

 チューブを着けての呼吸も苦しいだろう。ラブホテルの裏路地というから、被害者の方にも後ろめたいことがあっても不思議はない。


 昨日はそれで、現場から遠ざかる方向に運転の荒い車等がないか中心に県警全域でパトロール。

 動揺した人間は怪しい行動をしてしまう。

 犯罪に慣れた人間だと普段通りに振る舞ったりする。暴行も日常の中にあるようなタイプ。前科があれば追いやすくなるが。

 特に成果はなく、現場遺留物の鑑定待ち。緊急性が薄れたので今日は予定通り休む。



 そんなことよりも。

 夜遅くに私信が入った。

 フィットークのメッセージ機能で、また話を聞いてほしいと。

 夜は都合が悪いらしく日中がいいとか。家に誰かいると話しにくいのかもしれない。


 ちょうど休みなのだから今日なら大丈夫だ。

 彼女――エーコと名乗った少女からの連絡待ち。


 連絡が来るまでネット動画でも見るかと、PCを立ち上げたところでフィットークの通知が入る。

 起動しかけのPC。データ移行が面倒で古い機種のままなので、起動にもシャットダウンにも少し時間がかかってしまう。そのままにしてアプリに応答した。



「浮抄だ」

『ごめんな、さい……エーコ、です』

「大丈夫だ。今日は休みだからな」


 特に用事もない休日。

 浮抄を頼ってくる若い女とのコミュニケーションに時間を割いて、何も問題はない。


『あの……浮抄さんって、警察署の近く……ですか?』

「まあそうだな。近くのアパートで独り暮らしだ」

『行っても……迷惑、ですか?』

「い……いや待て。迷惑ということはないが」


 唐突な距離感に驚かされた。

 人付き合いの苦手なタイプだとは思うが、若い女が男の部屋に来るなんておかしいと思わないのか。


『ご、ごめんなさい……家にいるの、怖くて……』

「それは……その男が家にいるのか?」

『今は、いない……です』


 怯えているのだろう。

 そしてどうやら他に友人や頼れる相手がいないらしい。

 浮抄は前回、エーコの話をゆっくり聞いた。ただそれだけでエーコの中では浮抄との距離が急激に縮まったのかもしれない。

 メンヘラやストーカーといった種類の人間だとありがちな。少し言葉を交わしただけで特別な感情を抱いてしまうことが。



「迷惑というのではないが、あれだ。男一人のアパートにというのは……あまりよくないだろう」

『……ごめんなさい』

「謝らなくていい。頼られて悪い気分じゃないからな」


 思わず落ち着かなくて、窓から外を見回してしまう。

 なんだかもうすぐ傍に来ているんじゃないかと。そんなわけもないのだが。


「エーコ、君はいくつだ?」

『じゅうはち……』


 フィットークの良いところ。会話の記録が残せる。

 アプリ内に自動で録音されるのを個別に保存もできる。放っておけば一週間ほどで消えるが。


 十八。なら問題ない。

 実際にそんな年齢に見えたし、本人もそう言う。浮抄が疑う必要はない。


 なぜだか急に部屋の中が気になり、スマホを頬と肩で挟んで溢れかけていたゴミ箱のゴミを押し込む。

 脱ぎっぱなしになっていた下着を拾い、洗濯機に運びながら会話を続けた。



「男ってのは誰でも下心があったりするもんだ。簡単に信用するもんじゃない」

『……はい』

「君は、その……トラウマがあるだろう。色々と」


 とりあえず真っ当な大人らしい言葉を並べながら、休日だからついでにちらかった部屋の片づけを。

 この後の話がどう転がってもいいように。


「俺だって男だからな。あまり信用されすぎると、君を傷つけることになるかもしれん」

『あの……やっぱり迷惑……』

「違う、そうじゃあない。君を心配して言っているんだ、エーコ」


 相談を受ける大人としての言動を心がけつつ、しかしせっかく繋がった糸を切らないよう手繰り寄せる。

 本気で浮抄に好意を寄せてくれるのならもったいない。

 洗濯機近くに落ちていたタオルで洗面台の鏡を拭く。掃除などしていなかったからずいぶんと曇っていた。


「おそらく君は、男に対して恐怖心があるだろう。男に限らず他人に対して」

『……うん』

「前にも少し聞いたが、例の男のようにだな。その……君を性的な対象として見る男だっているわけだ」


 トラウマを思い出しかねないジャブを打つ。

 さぐりの言葉。


『……あたしだって』

「?」

『好きな人と、なら……いやじゃない……』


 返ってきた言葉は悪くない反応だった。

 前向きな。


 曇りを拭った鏡を見ると、無精髭の自分が映っている。

 そこそこのダンディズムというか。エーコは父親を知らないようだから、頼れる中年男に憧れのようなものがあるのかもしれない。



『好きな人となら、してみたい……と、思う』

「……なにを?」


 聞くまでもないが、思わず聞いてしまった。

 少女の口から、少女の欲求を言葉にさせたい。

 フィットークで記録に残せるとかではなくて、言わせたいと思った。


『ちゃんと……キスしたり、その……恥ずかしいところに、キスしてもらったり……』


 喉が鳴る。

 洗面台から水を出しコップをゆすぎ、水を汲んで一口飲む。


『普通の恋人みたいに……』

「普通の……そうだな」

『……あたし、変かな? 変なこと』

「そんなことはない」


 もったいない。もったいない。

 この流れを断ち切ってしまうのはあまりにもったいない。


「変なんかじゃない。誰だってそうだ、三大欲求なんだからな。エーコがそう思うのだって普通だと思うぞ」

『ほんと?』

「もちろんだ。俺だって――」


 ブブ、と。

 小さくスマホが通知を鳴らす。

 画面を見れば同僚からの着信だった。今はそれどころではないので、画面上に出た通知の拒否を押した。


『……浮抄さんも、そうなの?』

「エーコみたいな可愛い子が相手なら仕方ないだろう。もちろん、嫌がることをするつもりはないが」



 この娘は過去に母親の恋人に悪戯をされたのだとか。

 レイプまでではないが、母のいない時に裸にされたことがあると話していた。

 それ以上のことも、浮抄にはまだ話せていないがされているのかもしれない。

 成熟しきっていない体をいじられたり、舌を這わされたり。


 その記憶があるから、嫌いな相手ではなく好きな相手とそうした経験をしたいと思うのかも。

 過去の記憶を塗り替えたい、だとか。

 あるいは、その感触が忘れられない。だとか。

 頭の中で妄想が膨らむ。色々と膨らむ。


『いいと、思う……って言ったら、迷惑……ですか?』

「……まさか」


 心に傷を負った少女。年齢はもう成人だとしても。

 今も母親の彼氏に怯え、浮抄を頼り、身を寄せたいと言う。

 迷惑でなければ。


 迷惑だなんてあり得ない。

 ぼさぼさ頭で化粧っ気のない娘だったが、素材は悪くなかった。何より若い。

 そんな娘、エーコがここに来たいと言うのなら。

 もう少し片付けなければ。久しぶりに掃除機もかけないと。



  ◆   ◇   ◆

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