第32話 海に沈む日_1



 一月六日。

 港の仕事始めという名目での三時から始まる新年会。その前から酒が入っていた男衆もいる。


 曇天から薄っすらと雪がちらつき、風はほとんど感じない。夜半から風が強くなると言う予報。

 雪よりも強風の方が身に染みるので、新年会をするには好天だったと言えよう。この様子なら今年の漁は恵まれるとかそんな風に。


 最初は今年の豊漁を祈願してだとかそんな挨拶もあったが、すぐに他愛もないバカ話に変わっていった。

 家庭の愚痴。仕事の愚痴。

 過去の失敗談や最近の政治の話……をすると、卑金先生は別だけど、という枕詞まくらことばが付く。

 そんなに気にすることもないと背背は思うが。


 外で話をしながら、少し飽いたら防波堤から釣り竿を投げたりした。

 背背は釣りが趣味ではないが、誰かが用意してくれればやらないこともない。



 冬の港で何が釣れるものかと思ったら、意外と強い引きがあって驚いた。

 根っこに引っかかったわけではない。手に伝わってくるのは生き物が暴れる感触。


 釣り上げた魚はアイナメだったらしい。魚の専門家が言うのだからそうだろう。

 足がはやい――つまり傷みやすい、鮮度が落ちやすい魚。

 せっかくだからとその場で捌いて刺身で食った。

 新鮮だからなのか、自分で釣った魚だからなのか。今まで食べたどんな刺身よりうまいと感じた。また酒が進むのも仕方がない。


 陽が落ちてきて、倉庫の中に用意された宴席に移動する。

 ビール箱でかさ上げした上に畳を敷いた簡易な宴席。

 漁師たちからすれば背背は来賓なわけで、もてなされる酒は悪くない。




 すっかり暗くなった頃、少し酔い覚ましにと外に出たところで見つけた。

 火を焚いていたドラム缶を片付けたり、パイプ椅子をトラックの荷台に乗せたりしている男。


 他にも何人かのスタッフが作業しているが、それらとほとんど会話することもなく黙々と。

 物静かというか、暗い。陰鬱な雰囲気。



 似ている。

 背背の記憶に残る母親と顔形が似ているわけではないのだが、暗くぼんやり光る豆電球のような印象が近い。


 今にもぷつりと切れてしまうのではないか。

 ここで風が吹けば。

 そんな雰囲気の男。


 出所していくらも経たないだろう元受刑者。始角司綿しかくしめん

 相手は背背のことなど知る由もないが、背背は彼を知っている。



 ここの新年会の為に、机や椅子をレンタルして設営していた。

 その手配を受けていた楽口秋基たのぐちあきもとから連絡があった。新年の挨拶と共に、始角が出所しているという話を。



 ――そうだ背背さん。あいつ出所してたって知ってました? 前に話した始角ってやつ。

 ――始角……しかくしめん、だとか?

 ――あっはっは、しかくしめんって最高。そうそうそいつです。


 何がおかしいのか、楽口は酒でも入っているのかと思うテンションで笑っていた。

 別に背背が間違えたわけでもないのに。

 そういえば母親は『あの子』としか言わなかったなと思い出す。子供の名が冗談のようなのを恥じていたのか、犯罪者の名を他人に聞かれるのを恐れたのか。



 少し前にも思い出す機会があった事件だ。

 本人を見てみたいと思った背背が楽口に依頼した。ここの仕事に来させられないか、と。

 急な話になってしまうが働き口もない無職の男。すぐに了承の返事があったという。数千円の安賃金で。


 別のスタッフに言われるままに片付けとゴミ拾いなど。

 パイプ椅子を片付ける始角は素手だ。ちらつく雪で冷えた銀色のパイプに触れるのを見ているだけで痛そうでぞくりとする。

 当の本人は無感情に、無感動に。ただ作業を済ませるだけ。


 パイプ椅子や机などを積んだトラックを別のスタッフが運んでいくのを見送ると、さすがに寒いのか両手を口に当てて白い息を吐いた。

 みすぼらしい姿。



 仕事を終えて帰るのかと思ったが、そうでもない。

 ふらふらと、夜の海に向けて歩き出した。


 まさか、入水自殺?


 背背の期待がつい高まってしまうが、それは違った。

 さきほど釣りをした堤防。脇に防波ブロックがしがみつくように並べられた細いコンクリートの道を歩いて海の方に。


 雪がちらつく夜の海。

 風情はある。彼がそういうものを好むかどうかは知らないが。

 始角の動向を窺っているうちに背背は建物の影に隠れていた。誰かが背背を呼びに来ても見つけられなかっただろう。



「……」


 母親の死に様は聞いているはず。

 海ではなかったが、冷たい水底に身を投げた。


 出所したのは最近だと聞いている。十数年の刑務所暮らしの後だ。世界はまるで違って見えるだろう。

 シャバに放り出され、何をするにも不安がつきまとう。

 冷たい水面を目にして母のことを考えても不思議はない。むしろまともな人間ならそれが普通だ。


 つい、後を追ってしまった。

 始角が飛び込むのなら見てみたいと思ったこともある。

 二人きりで話す好機とも言える。


 向こうは背背のことなど知らない。

 背背は知っている。若かった彼がこの社会で袋叩きにされたことも、母や家族のことで己を苛んでいるだろうことも。

 母親や楽口から聞く限り、気弱で真面目くらいが取り柄の男らしい。取り調べや裁判の様子もそんな感じだったとか。


 出所後に自殺をするケースも珍しくはないのだと、犯罪心理学などの授業で聞いた。

 しばらく社会で過ごしてから、馴染めない自分に絶望して死を選ぶとか。

 始角司綿もそういう時期なのかもしれない。


 なら、最後の一押しを。

 そんな欲が出たのは仕方がない。背背は過去にその楽しみを知ったのだから。



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