第23話:私はあなたに怯え過ぎていたのかもしれない
「…」
「…」
会話のないまま駅に着いてしまった。そのまま電車に乗る。ガタンゴトンという電車の音、微かな人のざわめき声、それらよりもうるさい私の心臓の音。隣にいる彼女に聞こえてしまいそうなほどに。彼女の顔を横目で盗み見る。ほんのりと赤い。目が合うと逸らされてしまう。
「…次だっけ」
「…えぇ」
家の最寄駅が近づく。明日明後日は土日。約束をしないと彼女とは会えない。
「…海菜、明日、暇?」
「…ごめん、バイト。明後日は?」
「…私がバイト」
「…そっか」
「…えぇ」
月曜日まで会えないことが確定してしまった。
次の駅のアナウンスが流れてしまう。
「…どこまで着いて行っていい?」
「…じゃあ、地上に出るまで」
「…分かった」
あのまま、海菜と一緒にいたかった。けれど、流石に2日連続で門限を破るわけにはいかない。
「…海菜、今日はありがとう。私の我儘に付き合ってくれて」
「…ううん。こちらこそありがとう。楽しかったよ。…狐、出来上がったらもらってね」
彼女からカバンを受け取り、駅を出る。時折チラチラと振り返るたび、手を振る彼女が視界に入った。見えなくなるまでそこにいる気なのだろうか。一度だけ振り返って手を振り返してから、振り返らずにまっすぐ家に戻る。
「ただいま」
鍵は空いているのに、返事はない。スープの匂いがするし、靴はある。いるはずだ。もう一度「ただいま」と声をかけながらリビングの扉を開ける。ソファで本を読んでいた母が慌てて本を隠した。
「お、お帰り。今日は早いのね?」
「うん。…何読んでたの?」
指摘すると、母は気まずそうに背中に隠した本を見せてくれた。タイトルは<娘の恋人は女の子>
「…それ、ノンフィクション?」
「…えぇ」
「…そう」
昔の母なら絶対に手に取らないタイトルだ。私のことを理解したいと思っていると、期待して良いのだろうか。
「…百合香、例の女の子のことは…本気なのよね?」
恐る恐る、母が問いかける。
「…うん。好きよ。…良い人よ。お母さんも会えばわかる。…性別以外はきっと、お母さんが私の恋人に求める条件を満たしてる」
「…そう」
「…ねぇお母さん、私のこと好き?」
「…えぇ。愛しているわ」
「…うん。私もお母さんが好きよ。…でも、嫌いなところもたくさんある。好きなところより、嫌いなところの方が多いかもしれない。でも、お母さんが私を大事にしてくれているのは分かるから…分かってしまうから…嫌いになれないの」
「…百合香…」
俯き「ごめんなさい」と小さく呟く。身体を震わせ、もう一度。その言葉を繰り返すたびに小さくなっていく身体を抱き寄せる。
「…私ね、お母さんに言われて彼と別れたこと後悔してた。次はお母さんに反対されないような人を好きになろうと思ってた。でも、出来なかった。多分彼女と別れても、次もまた私はお母さんの理想から外れた人を好きになるわ。…私、優しい人が好きみたい。頭の良さとか、性別とか、関係なく」
「っ…彼女と一緒に居て、辛い想いしてない?女同士なんて気持ち悪いとか、言われたりしてない?」
「…大丈夫よ。時代は変わってる。お母さんの時より世間は冷たくないわ。私と彼女が付き合うってなった時、クラスのみんなは拍手してくれたのよ。『逆にまだ付き合ってなかったの?』なんて言う子もいたわ。私達、お揃いのアクセサリーをつけていなくたってそう見えちゃうみたい」
「着替える時に何か言われたりしない?」
「何も言われないわ。彼女は気を使って、先生から許可をもらって別の部屋で着替えてるけど、それに対して文句を言う人も居ない。私はクラスの女子と一緒に着替えてるけど誰も何も言わないわ」
「…そう」
「…えぇ」
「…そうなのね」
「…えぇ。元々彼女『私は男性は恋愛対象にならない』って堂々と公言してるの。…言えない人に、勇気を与えたいんですって。隠さなきゃいけないことだと思わせないために。…それでね、お母さん」
彼女からもらったノートを母に渡す。
「これは…?」
「LGBTって分かるわよね?それについて彼女がまとめてくれたノートよ。LGBTの四つ以外のことも書いてあるの」
「LGBT以外…」
「えぇ。今はLGBTQとか、LGBTsとか、LGBTQ+とか、色々な呼び方があるみたい。中には人に対して恋愛感情を抱かない人もいるんですって。私もまだ全部は読んでないけれど、お母さんに先に読ませてあげる」
「…綺麗な字ね」
ノートをめくり、母が呟く。複雑そうな顔をしているが、そこに嫌悪はあまり感じられない。
「…百合香は…これなの?パン…セクシャル?」
「…パン?バイじゃなくて?」
ノートを覗くと、たしかにパンセクシャルと書いてある。その上にはバイセクシャルの記述も。
どうやらパンセクシャルは全性愛者、バイセクシャルは両性愛者と訳すらしく、誤植ではなく、二つは別の単語のようだ。
それにしても、パンセクシャルの文字の両サイドに食パンのイラストを描くというお茶目な一面に和んでしまう。彼女からノートを見せてもらったことがあるが、ところどころこういった可愛らしい落書きがある。
「…そうね…難しいけど、私はどちらかといえばパンセクシャルの方が近いのかも」
私は彼女が女性だったから好きになったわけではなく、彼女だったから好きになった。だからきっと、男性でも好きになっていた。
ふと、彼女が『伝わりやすいから同性愛者を使う』と言っていたことを思い出す。今なら彼女の気持ちがわかる気がする。
「バイでもパンでもどっちでもいいわ。お母さんの好きに解釈して。私が今付き合っている人が女性だってことが理解出来ればそれで良い」
「…彼女、どんな人?」
「優しい人よ。…いつか、お母さんにも会ってほしい」
「…会うのは…まだやめておく。…この間、家に行った時に怖がらせてしまっただろうから」
「…そうね。いつかで構わないわ。…彼女との交際、認めてくれる?」
母の答えを待つ。数秒の沈黙の後母は恐る恐る口を開き「私が反対したって無駄なんでしょう?」と、私を見ないまま震える声で答えた。
「えぇ。今回は、別れないわ。自分が、もしくは彼女が別れたいと思わない限りは」
「…そう」
「…えぇ」
再び沈黙が流れる。母は言葉を選ぶように口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。急かさず、その口から言葉が出るのを待つ。ようやく紡がれた「あなたには…」という言葉に相槌を打ち、続きを待つ。一度私を見て、そして再び逸らして俯いたまま、独り言のように続きを紡ぎ始めた。
「…あなたには後悔しない選択をしてほしい。…信じてもらえないかもしれないけど、私はずっと、そう思っていたわ。…結果私はあなたに干渉しすぎてしまった。…今なら…分かるわ」
「…やっと気づいたのね。良かった」
「…気づかせてくれてありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、お望み通り、後悔しない選択をするわね」
「えぇ」
「…うん。ありがとう」
母はもっと、頭の硬い人だと思っていた。彼女の件はもっと時間がかかると思っていた。私は母のことを恐れすぎていた。
彼の件も、勇気を出して逆らえばいずれは認めてもらえていたかもしれない。今更な結果論だが。
「…ごめんなさい。本に没頭していてご飯まだ作っていないの。今すぐ作るから」
「手伝わせて」
「いいわ。座って待って……ううん。やっぱり、手伝ってもらおうかしら。スープお願いね」
「うん」
母と並んで料理をするのはいつぶりだろうか。凄く久々な気がする。
「…ねぇお母さん」
「…なぁに?」
「…今度、友達の家に泊まりに行っていい?」
母の手がぴたりと止まる。
「…彼女の家じゃないでしょうね?」
「友達。いつも一緒に登校してる子たちよ」
「…出て行く時はちゃんと戸締まりするのよ。ガスの元栓も切って、カーテンも閉めておいてね。あと、必ず私に一言連絡を入れること。一つでも守れなかったら二度と外泊させないから」
「うん。ありがとう」
別に、友人の家に泊まると嘘をついて彼女の家に泊まろうなんて考えているわけではない。ただ、以前はるちゃんが夏美ちゃんの家に泊まりに行っているのを見て、羨ましくなっただけだ。
そういえば、テスト明けに林間学習があるが…海菜は一体どこで寝泊りするのだろうか。班の女子と同じテント?番号順に行くなら私と彼女は同じ班になるが、彼女の隣で眠れる気がしない。もちろん、班は基本女子三人、男子二人もしくは三人、出席番号が後ろの方は女子六人で、一班五〜六人に分けられるため、海菜と二人きりの部屋で寝ることはないが…。ないのだが…。悶々としてしまう。
「あ、お風呂沸いたわね。先入ってらっしゃい。あとはお母さんがやるわ」
「…うん」
風呂と食事を済ませて彼女に電話をかける。風呂に入っている間も、食事中も、林間学校のことが頭から離れず、話したいことは他にもあったのにその件を一番最初に切り出してしまう。
「あぁ、安全のために、私だけ特別に一人でテントに寝かせるわけにはいかないって。まぁ、夜中に一人で抜け出してどっか行かれても困っちゃうもんねぇ」
「私はそんなことしないけど」と彼女は笑いながら言う。普段の言動を見ていると説得力が無い。
「ふふ。安心していいよ。私と君と満ちゃんで一組だから」
「…それが問題なのよ」
「えー?何?襲われるとか思ってる?」
「…あなたはそんなことしないでしょう」
「あはは。我慢出来なくなっちゃうのは百合香の方か」
「…心外だわ」
「ごめん。冗談。小学生の頃も、中学生の頃も、普通にクラスの女子と同じ部屋だったから今更何も思わないよ。君と二人きりならともかく、満ちゃんも居るし。変な気なんて起きないよ。大丈夫。てか、ずっとそんなこと考えてたの?百合香、むっつりだね」
「…あなたに言われたくない」
「私はオープンスケベだよ」
「自分で言うのね…」
「ふふ。それで、それだけのために電話してきたの?」
「あぁ、そうだ。お母さんが私たちのこと認めてくれた」
「普通そっちを先に報告するでしょ」と彼女はくすくす笑う。しかし、まるで最初から分かっていたような反応だ。
「…これも計算通り?」
「ううん。なんか、君の声が明るい気がしたから、良い報告があるのかなって。…あ、でも、ストラップはこのまま使っても良いかなって思ってる。リリカのネックレスとして」
「…そういう使い方?」
「ふふ。あまりにも似合ってたから、このままでも良いなと思って。百合香も、私の作る狐くんにかけてあげて。そうそう、この間のデートの時につけてたイヤリングのペアがあるんだ。君にあげるよ。イルカのやつよりシンプルだから合わせやすいと思う。月曜日持っていくね」
「ありがとう」
「うん。…それにしてもお母さん、意外とあっさり認めてくれたんだね」
「…えぇ。私もちょっと、拍子抜けした」
そういえば母が読んでいたあの本は図書館のものではなかった。買ったのだろうか。わざわざ。いや、その割には新品には見えなかった。中古の本は母はあまり好まない。となると…。ふと、部屋の外から微かに聞こえる話し声に気づく。この家には母と私しかいない。テレビの音にしては、一人の声しか聞こえないし、他の音もない。
「…海菜、ちょっと席外すわね。すぐ戻る」
「はぁい」
母の電話の相手は恐らく…
「…本、ありがとう。優人さん。…半分くらい読んだわ」
やはり。父だ。あの本も父の物だったようだ。
「…えぇ。…もう私が反対したって、変わらないみたいだから。…うん。…え?あなたの知り合いの娘なの?…前から知ってたってこと?…そう。…えっ、葵の先輩の従姉妹?何よそれ…どんな繋がりよ…」
母の声が少しずつ明るくなっていく。やはり、父を味方につけたのは正解だったようだ。部屋に戻り、彼女との通話を再開する。
「海菜、お待たせ」
「ん。お帰り」
「<娘の恋人は女の子>ってタイトルの本知ってる?」
「あぁ、うん。部屋にあるよ。タイトル通りのエッセイでしょ?」
「お母さんが持ってたの。お父さんから渡されたみたい」
「そっか。…お父さんにお礼言っておかないとだね」
「えぇ。…私とお父さんを会わせてくれてありがとう」
「ふふ。たまたまだよ」
ふぁ…とあくびをする彼女。時間を確認する。9時半。部屋の外からノックの音とともに聞こえてきた「仕事行ってくるわね」という母の声に返事をする。
「…今日は色々あって疲れちゃった」
「もう寝る?」
「寝ようかな…あ、狐くんねぇ、今、頭だけできてきたよ。このまま君の誕生日プレゼントになるかなって思ったけど、意外とすぐ出来ちゃうかも。誕生日プレゼントは別で考えるよ」
「…楽しみにしてる」
「うん。…じゃあ、おやすみ。百合香」
「おやすみなさい」
通話が切れる。私も色々あって疲れた。ベッドに転がり、目を閉じる。
そこから眠りに入るまではさほど時間はかからなかった。
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