「少しは落ち着いた?」


 常磐色ときわいろの眼差しがニニを優しく見つめていた。なにもかもを見透かしたような表情のダンタリオンを見上げ、ニニは目を瞬かせた。主人ムシューの顔にかすかな違和感を覚えたせいだ。もうすっかり見慣れているはずなのに、いまはじめて見るような、あるいは、記憶となにかが違っているような。

 わたしのあるじはこんな顔をしていたんだったかしら?


「……主人ムシュー

「どうした、ニニ?」


 穏やかなダンタリオンの声を聞くなり、記憶の断片はふたたびニニの奥深くへと沈んでいってしまう。息がかかるほど近くにあるような気がするのに、どれだけ手を伸ばしても届かない泉の底のぴかぴか光る小石みたいに。


「大丈夫です」


 黙ったままでいるのは失礼だと思い、ニニはかろうじてそう返事をした。

 ダンタリオンの使い魔となったニニにはふたつの変化が起きていた。

 ひとつは瞳と髪の色。ごくありふれた焦茶色こげちゃいろをしていた双眸そうぼうが銀の混じる山吹色に、同じく焦茶色だった髪は混じりけのない亜麻色に変わっていた。主人ムシューによれば、魔界の空気に耐えられる身体からだになったあかしであるらしい。

 もうひとつは主人ムシューに対し、敬愛の念を抱くようになっていたことである。契約を交わす前はぞんざいだった言葉遣いは自然とあらたまり、彼に対する態度も丁寧になった。


 いずれの変化もニニの意志によるところではなく契約により強制されたものだったが、彼女自身はそうした変化を心地よいものととらえていた。どちらかといえばダンタリオンのほうが、そうした使い魔の態度に不慣れなものを感じているらしい。いまだにあるじとして振る舞うことに違和感があるようなのだ。


「そう ? それなら、果実水も飲み終わったようだし、そろそろ仕事に戻ろうか」


 ニニの手から空っぽになった瓶を取り上げた悪魔は、すっかり軽くなったクッキーの包みとともにそれを空中へとしまう。ニニは夢から覚めたような顔をして、ダンタリオンの指先を見つめていた。


「……主人ムシューはわたしに腹が立たないんですか」

「腹を立てる ? 僕が ? ニニに ?」

「だってわたし、主人ムシューに失礼なことばっかり言って ……」


 ダンタリオンは声を出さずに笑った。軽やかに立ち上がり、まだ腰を下ろしたままのニニと向かいあう。


「ニニの言うことは人間ならきっとだれでも感じることだよね。いまみたいにそれは

違うなと思えばそう言うし、二度めは言わないでくれるとありがたいとは思うけど、べつに腹を立てたりはしない」


 気をつけます、とニニは言った。


「これからも言いたいことを言えばいいと僕は思うよ。そうでないと、お互いの常識とか価値観の違いがいつまでっても埋まらないだろう。ニニは僕の使い魔だけど、契約者でもある。ベルフェゴールが言うほど、主従関係に縛られることはないさ」


 屋敷に住むもうひとりの悪魔の名を聞いたとたん、ニニは思いきり顔をしかめた。せめて外に出ているときくらい、あの居候のことは思い出したくない。

 さ、行こう、とダンタリオンは笑いを含んだ声で言った。彼にはニニの気持ちなど、なにもかもお見通しなのかもしれない。


「昼までには屋敷に戻りたいからね」


 ニニはようやく立ち上がり、月光草の入った籠をひとつ両手で抱えた。そして、やはり籠を手にするあるじと連れ立って歩きはじめる。


「……このあたりは沼が少ないんですね」


 ニニがようやく見つけた新しい話題をダンタリオンは拒まなかった。


「そうだね。僕らの屋敷の周りと同じように湿原のほとりであることは間違いないけど、ここまで来ると、目に見える沼は少なくなるかもしれない」


 代わりに草が深くなって泥濘ぬかるみがわかりづらくなる、と彼は言った。


「足許にはじゅうぶん気をつけるんだよ」


 はい、とニニはまさに泥に靴をとられながら答えた。浮き上がった草の地下茎につまづいて、よろけた先に泥だまりがあったのだ。

 ダンタリオンの言うとおり、草はだんだん背丈が高くなり、場所によってはニニの胸元に届くほど生いしげっていた。歩きづらいことこのうえないが、そんなことを口にすれば、この過保護な悪魔はニニを担いで歩くこともいとわないだろう。この歳でだれかに担がれて歩くなんて冗談じゃない。

 主人ムシューの手を借りることなく体勢を立て直し、ニニはまた歩き出す。

 ダンタリオンが草を踏む音、ニニが草をかきわける音、風が草原を揺らす音。

 そこに混じるかすかな悲鳴。


  ――悲鳴?


 ニニは足を止め、顔を上げてあるじを見た。ダンタリオンはわずかに眉をひそめ、煩わしそうな表情をしている。


主人ムシュー……」

「大丈夫だよ」


 彼はそっけなく言うが、少しも大丈夫ではないような気がする。いまやニニの耳には、はあはあという荒っぽい息遣いや、ぐるぐるという低いうなり声までもが届いているのだ。小さな悲鳴は断続的に続いていて、ガサガサと草を揺らす音も途切れることがない。


「な、なんなんですか、あれ」

「フェンリルだろう」


 ダンタリオンはこともなげに言った。


「フェ、フェンリル?」

おおかみみたいなものだ。ちょっと大きいけど」


 狼、とニニは悲鳴をあげた。山間やまあいの村で育ったニニにとって、狼は恐怖の対象だ。死にひんした夜、ネリとともに逃げこんだ小屋をやつらに取り囲まれ、寒さから逃れられなかった記憶とあいまって、死の象徴のようにさえ感じられる。

 そんなニニを見て、ダンタリオンはあからさまに、しまった、という顔をした。


「大丈夫だよ。あれらは僕には近づいてこない。魔界の獣は己の分をよくわきまえている」


 だが、主人ムシューの言葉はニニにとってなんの慰めにもならなかった。

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