1-17 「イヴェット!」
「ノアさん~会計お願い~」
呼ばれた方を振り返ると、そこにはイヴェットとアンリが立っていた。作業を中断し、会計台へと向かう。
「素敵なお店だしもっとゆっくりしたいから、また今度来るね! 今日は有り難う、ごちそうさま美味しかったよ~っ」
アンリと支払いのやり取りをしている際、会計台の横でイヴェットが満たされた笑みを浮かべて言う。
「アンリさん、私先外出てるよ。ハンギング見てるー」
「うん、分かった」
最後に一度こちらに手を振ってからイヴェットは外に出た。会計台からはガラス扉越しに少女がハンギングを眺めているのがよく見えた。
釣り銭を渡し終えた時。
通りを一台の箱馬車が横切るのがガラス扉越しに見えた。一瞬見ただけだがその馬車がおかしい事にはすぐ気が付いた。
昨日見た馬車と同じく、その馬車も扉が開いていたのだ。
──嫌な予感がした。
「イヴェット!」
会計を中断し、驚いているアンリの横を抜け慌てて扉を開けた。開いた馬車には手にハンカチを持ち両手を広げている帽子を被った男性が立っている。
「うん? どうしっ──!」
緑色の瞳をこちらに向けようとしたイヴェットを、馬車に乗った男性が背後から抱きしめ、手馴れた動作で口にハンカチを当てる。ビクッ! と肩を強張らせたイヴェットはすぐに脱力し、そのまま座席に押し退けられる。
店から飛び出たノアが見たのはそこまでだった。
為す術もなく離れていく馬車の扉がぴしゃりと閉められる音が微かに届いた。
「イヴェットちゃん!」
アンリもすぐに店から出てきたがもう馬車が通り過ぎた後だった。颯爽と馬車が角を曲がり、後方から舌打ちが聞こえてくる。
悔しいが人の足で追い掛けられる物ではない。人通りが多い場所とは言え、今道を歩いている人はいなかった。
やられた。
朝だから。人通りが多い道だから。ほんの少しの間だったから。
言い訳にしてはいけない理由が重なり、すっかり油断していた。
「え、ちょっと、ノア君何かあったの?」
異変に気が付いたのか、白いエプロンを着けたヴァージニアが店の外に出てくる。
「やられた……っ! 店長、電話だ! 警察に電話してくれ!」
堰を切ったように口を動かし、声を荒げる。昨日は通報を後回しにしたが、イヴェットを連れた馬車も工業区の方に向かっていた。今は通報の価値が十分あると思った。
「電話? 警察? え? あの女の子は?」
「やられた! 連れ去られたんだよ、今、目の前でっ!」
「えっ!?」
早口でまくし立てるとヴァージニアが手を口に当てて驚く。左右を確認するが、どこにもイヴェットの姿がないと分かると緑色の瞳を見開いていく。
「分かったわ……! 今電話してくる!」
ヴァージニアは強張った表情で頷く。向きを変え、足音を立てて店に戻っていった。
アンリはこれからどうするのか聞こうと顔を向けると、作業服の青年は神妙な表情で手を耳に当てて考え込んでいる。こんな時に何をしてるんだと苛立ちがこみ上げてくる。
「おい、あんたどうすんだよ。ボーッと突っ立ってる場合じゃないだろ!」
「……」
声を張って話し掛けるが無視された。店に戻りヴァージニアと電話を代わった方がいいのか、と考えていると、アンリが忌々しそうに毒づいた。
「くっそ……。ねえ君今日暇なんでしょ。だったら今からちょっと、工業区まで来てくれない? イヴェットちゃん、助けるよ」
「へ? 工業区?」
心でも読まれたかのような誘いに、口を半開きにして聞き返す。ノアが知っている範囲、工業区に馬車が向かったことはまだ情報公開されていない。それをどうしてアンリが知っているのだろうか。
しかし本心の読めない青年だけに、こうもハッキリ言われると心が動いた。きっと何か考えているのだろう。
「良いから、来るの? 来ないの?」
「っ、行くっつの!」
一瞬悩んだが事は一刻を争う。まずはイヴェットを助けないといけない。返すとアンリがホッとしたように口端を上げる。
「じゃあちょっと辻馬車拾って来るから、君はお母さんに詳細伝えておいで!」
そう言い残して、アンリは辻馬車が頻繁に行き交っている大通りへと向かっていった。母親ではない、と内心訂正を入れながらノアは店内に戻る。
つい数分前と何一つ変わっていない店内で、ヴァージニアが受話器に向かって強張った声を上げていた。客もそわそわと目が泳いでいて落ち着きがない。
「店長、店長、悪い! イヴェットは工業区に連れてかれたっぽいから、ちょっと工業区行ってくるわ、警察にそう言っておいて」
ギャルソンエプロンを外しつつ言う。
「え? 工業区?」
通話を一時中断したヴァージニアが混乱した表情で尋ねてくる。悪ぃ、と苦笑いを浮かべて店を出た。
店を飛び出しアンリの姿を探したが見当たらなかった。代わりに公園の蒸気時計から蒸気が噴出しては霧散していく様が見える。と、すぐに左から馬車が走ってきた。扉が空いた馬車を見て一瞬ぎょっとしたが、アンリが乗っているのが見え肩の力を抜く。
「乗って!」
「おう! っあ、わわっ! ってぇ!」
減速する箱馬車に飛び移ったが、馬車は動いている物ということを失念していた。よろめいて座席に顔から突っ込みかける。
誰の支えも無くなった扉が緩やかに閉まっていく音が届いた。自分を気遣うことなくアンリは御者に声を掛ける。
「運転手さん、工業区に行く前にエルキルス教会に寄ってくれません?」
「おい……なんで教会に寄るんだよ?」
座席に腕を掛け立ち上がるノアを横目に、淡々とした調子でアンリが返す。
「君は嫌かもしれないけどユスティンにも手伝って貰う。警察が来るとしても探す人は一人でも多い方が良いからね。それにこんな大切なこと、言わないとあいつに殺される」
切羽詰まった状況なのにアンリは冗談交じりに笑い、座席に座って足を組む。まるでイヴェットが当分無事だと知っているかのようだった。
釈然としない気持ちを抱えたが、時が時だし、言葉の割に横顔が険しかったアンリに何も言えず、ノアは黙って橋に視線を向けた。
***
「あーこの事件いつになったら終わるんだよ!!」
寝る間も惜しんでエルキルス駅に聞き込みに行ったが、女性の身元に繋がる所まで捜査は進まなかった。
リチェ・ヴィーティは誰もいない刑事課の部屋でテスト勉強を投げ出す少年のような声を上げ、デスクに突っ伏しふて寝を決め込む。まだ乾ききっていないインクの臭いが鼻を掠めた。
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