第9話 決断

 月草さんと連絡を取るようになってから、一週間後。私は雪乃に別れ話を切り出した。


 好きな人ができた、四年前にネットで知り合った人だと文面で告げる。既読と同時に、電話が鳴った。


 一息ついてから、通話ボタンを押す。交際を申し出た本人が恋を終わらせる。数奇な運命だと、冷めた目で自分を見つめていた。


 繋ぎの役割ができたんだね。電話の後に、雪乃からメッセージが来た。私は素直に思ったことを文字にする。


『私にとって初めてできた彼女だよ。繋ぎとは言ってほしくない』


 我ながら都合良すぎないか。私は吐き捨てるように呟く。別れるきっかけになった、月草さんの言葉を思い出した。


『羽間さんの誠実な言葉に惹かれたんです』


 社交辞令だと思った。顔も声も知らない相手に、礼を尽くすのは当然だ。だけど、ネットで知り合ってから恋心を抱いていたと告白され、雪乃への気持ちが揺らいでしまった。


 博士課程修了まで五年待つと約束した彼女より、恋人がいると知りながら想い続けてくれた相手を好いた。だが、月草さんとの恋は三ヶ月も持たなかった。


「これからも慧と一緒にいたい」


 ビデオ通話の月草さんの表情が、雪乃の笑顔と重なった。

 ずっと一緒にいようね。雪乃に何度も囁いた言葉が、鎖のように心を捕らえる。


 スマホの予測変換には、雪乃のやりとりに使った言葉が並ぶ。愛してる。いつもありがとう。大好き。あなたの彼女で良かった。


 自分の決断を後悔し始めていることは、月草さんに話せなかった。彼女を振った方が苦しむなんて、虫が良すぎる。


「慧、今日は十二時まで話そう」


 仕事終わりの彼を癒せるなら、喜んで二時間の通話に応えたい。教員採用試験の過去問題を閉じ、労いの言葉を掛ける。


 来月に控えた筆記試験の話はしている。できるだけ、試験勉強に集中したい。だが、私の声を聞いて喜ぶ彼の望みを断れなかった。


 雪乃は元気にしているかな。湧き上がる疑問に、見ないふりをする。


 友達だったころには戻れない。消えかけた恋の炎に、別の木をくべた。立ち上がる煙は黒く、後悔の念だけが燻る。脳裏に浮かぶ雪乃の笑顔が消えてくれない。思い出は鮮明に残っていた。


 ――二人の相性は八十パーセントなのね。足りないところは、お互いが補えるから心配しないで。


 雪乃と付き合った後、あの馴染みの占い師に相性を見てもらったことがある。交際を的中させた恩人は、雪乃のホロスコープを作って感嘆の声を漏らす。


 ――雪乃ちゃんの性別を男に設定しても、去年の十月に結ばれる運命は変わらないのね。こんなことってある?


 占星術に詳しくない私と雪乃は、顔を見合わさせる。そして「三月、四月、五月は喧嘩別れしないよう要注意」という助言を、胸に刻み込んだ。


 あのときは想像できなかった。雪乃の幸せを、気の迷いで壊すことになろうとは。


 私は、彼女を手放した自分を呪う。月草さんに告白され、普通の恋愛ができると舞い上がったことも。


 そもそも普通の恋愛とは何だ。

 月草さんには尊敬の念を抱いていたが、自分から交際を望んだことはない。自分が惹かれたものは、男という性別。子を成すための生殖機能ではないのか。


 私は答えを導いた。

 月草さんへの思いは恋ではない。大学院修了まで雪乃を待たせることへの、罪悪感から逃げたかったのだ。


 雪乃は良い子すぎた。休みが取れると私に会いに来て、手料理を振舞ってくれた。私を痩せすぎと注意し、作り置きのおかずを冷蔵庫に入れた。付き合う前はグレーのパーカーを毎日着ていたが、パステルカラーの服を選ぶようになった。


 理想の彼女になろうと努力していた雪乃は、誰よりも愛おしかった。私にはもったいないと思ってしまうくらい、健気で支えたくなるヒロインだった。それゆえに、博士課程を修了した後の未来、非常勤のまま四十代まで過ごす現実に、彼女を巻き込ませたくなかった。


 その悩みを雪乃に伝えることができていたら、私と彼女の関係性は続いていたかもしれない。だが、叶わない可能性を思い描いても、虚しいだけだ。

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