第1話‐② 呼ばれたなら

 薫と別れたあと、俺はいつもの場所に向かった。展望台になっている丘の柵が途切れているところを進む、人が入ってこないような崖際。邪魔な木もなく町中を見渡せる、一番眺めがいいお気に入りの場所だ。

 悩みがあっても、なくても。よくここに来ていた。崖から半歩、足を出してはひっこめ、ぶらぶらと揺らしながら思考を流す。

 俺は恵まれていると思う。環境的にも肉体的にも。様々な部活の助っ人をする息子を優しく後押ししてくれる母親がいて、親身に案じてくれる友人がいて、お礼だと言って世話を焼いてくれるクラスメイト達がいて、何かと気にかけてくれる商店街のおっちゃん達がいる。頭はそんなに良くないが、なにごともなく健康な体ももらって不自由なことはない。間違いない、これ以上望むことはないほど俺は恵まれている。


 だから・・・俺は・・こんなことを考える俺には何か理由があるのだろう。

 おかしなことを考える理由が。俺にもわからない理由が。


 幾度となく考え、答えにたどり着かない問いにふけっていると、

ふわりと揺れた風が形をとった。


 目の前には崖。人が立てるはずのない空に、人型の人が浮いていた。翼はなく頭上に輪もなく、だいぶ体積は小さいが人好きのする青年の顔をもつ人がそこにはいた。身に着ける薄緑の和服は知識がない雫にも人知外の美しさを放っている。

「なっ・・!あ、危ないぞそんなとこにいたら!はやくこっちに来るんだ!」

 咄嗟にそんなことを叫んでいてしまった。いや、自分でも馬鹿げたことを言っているとは思っている。人は突然空中に現れないし浮きもしない。

 そんな俺を見て、彼は目を丸くしてからやはり親しみやすい笑顔を浮かべて喋りだした。

「流石だね。こんな異常事態でも真っ先に他人の心配をするんだ。けれど心配しないで、私は落ちたりしないから。私は君たちが神と呼ぶもの。風と人々の縁をとりもつ神、松風彦という。よろしくね」

 本当に言葉が見つからなかった。肩にも乗せられそうな小さな青年は何もない空間に立ちながら神を名乗っている。常識が理解を拒んでいる。しかしこちらの理性が言葉を思い出す前に神はさらなる混乱を畳みかけてきた。

「君の心を乱しているのは重々承知の上だが、こちらも緊急事態でね。先に用件を伝えさせてもらうよ」

 一呼吸。

「君には今から違う世界に行ってある少女を救ってほしい」


 手に戻りかけた言葉をつかみ損ねた。

違う世界?なんだそれは?少女を救う?それを神が頼む?俺になぜ?神の実在?どうやって浮いている?


・・一度・・・かもしれな・・・・でも・・君しか・・・・・・

 神はなにか言葉を続けていたが疑問と衝撃が耳を塞いで中まで浸透してこない。

その時、神の後ろの光が目に入った。目のような穴のような、これも理解できるものではなかったが不思議と意識が引き寄せられる。自分も景色も、時間さえもその光に向かって落ちて行っているような感覚が染み入ってくる。


 引き延ばされた一瞬のなかでなにかが聞こえた気がした。耳はいまだに神の声を拒絶している。それでもその弱々しい声が心をつかんで離さない。

何を言っているんだ。俺に何を伝えたいんだ。頼む・・教えてくれ。

神経のすべてを光に預け、謎の声に手を伸ばす。

そしてついにか細い少女の声が届いた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・たすけて。


カッと目を見開き全身に力が戻る。意識は肉体に戻る。神を正面に捉える。

「わかった!この光の向こうに助けを求める女の子がいるんだな!」

 急に覚醒した雫に松風彦は面くらってしまった。

「えっああそうだよ。だから・・ちょっと⁉」

最後まで聞くことなく雫は光に飛び込んだ。足場のない中空に浮く光に。


「おおおおお!待ってろ!今行くぞ!」


 雄叫びと共に消えていく雫を松風彦は茫然と見送ってしまった。

「えぇ、本当に人かい雫君?話もちゃんと聞かずに飛び込むとは。神代の神さま方でもそんな無茶、いやするかあの方々は。・・・まあいい、こちらに不都合はないし。安心してくれ、我々の名にかけて君も死なせはしない」


凛と襟を正しながら、自らも光と向き合う。ここから続く苦難の道に想いを馳せながら、松風彦も足を進め消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ふたりが死を別つまで 菊湯 博稠 @in-itsuka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ