虎文字の威を借る

天宮さくら

虎文字の威を借る

 虎にはたくさんのことわざがある。

不入虎穴不得虎子こけつにいらずんばこじをえず」は危険をおかさないと大きな成果は手に入らないたとえ。

画虎類狗とらをえがきていぬにるいす」は素質のない人間が才能のある人間の真似をしても見苦しいことのたとえ。

養虎遺患とらをやしないうれいをのこす」は敵を生かしておいたためにそれが後々の災いの種になることのたとえ。

 虎はとても勉強になる文字だと思う。昔から虎は強く、恐れられていた。だからこれだけいろいろな言葉が現在まで残っている。その言葉はどれも複雑な意味があって、一つずつ丁寧に読み解くことで知識が深まっていく。

 そして今の俺に一番必要なことわざは、これだと思う。

「虎のる狐」。

 俺は今、自分をより強く、そして大きく見せたいのだ。



 バス停に直結している駅ビルの地下で、俺は今、人を待っている。待っている人の名前は萱原かやはらみずきさん。津田女子高等学校に通う一年生だ。

 みずきさんは明るくて優しい人だ。にこりと笑うとえくぼが浮かび上がる。さいな話題でも楽しそうに笑ってくれる。とてもいい人で、魅力的な人だ。

 初めてみずきさんに出会った時は彼女の明るい茶髪に少し怯えた。俺の周りに髪を染めている女子は少ないから、どうしても気になってしまうのだ。けれど、今では茶色の髪は彼女らしいと思っている。みずきさんには明るい髪色がよく似合う。

 彼女の通う女子校では髪を染めることが校則で禁止されていないのかもしれない。以前、彼女の友達だと紹介された人もまた、髪を茶色く染めていた。そのことに少し驚いたけれど、自分をしっかりと持っている彼女は素敵だと思った。

 みずきさんが通う学校の制服は男から見ても可愛らしいデザインだと思う。白のシャツに、胸元には可愛らしい赤色のリボン。リボンと同じ色のスカートに、それを綺麗にまとめ上げる上着。みずきさんのキャラクターからすると少々堅苦しい色味の制服に思えるけれど、それでも着ている彼女を見ると可愛いと思う。

 そう、俺はみずきさんにれている。

 今日は人生で初めてみずきさんをデートにさそった。誘ったと言ってもこの地下で待ち合わせをしただけにすぎない。彼女に無理を言っていつもよりも少し早くバス停に来てくれるよう頼んだのだ。

 みずきさんに見てもらいたいものがここにはあるから。

 俺はみずきさんがあらわれるのがいつになるのか気になって、ずっと落ち着かないでいる。思わず貧乏ゆすりをしたくなる。だから気持ちを落ち着けるためにも周囲の様子を観察することにした。

 今、駅ビルの地下では展示会を開催している。見事な「虎」の一文字を習字で書いた作品を小学校ごとに分類し、並べて展示されているのだ。

 かきめだ。今年の干支は「寅」。だから「虎」の一文字が題材に選ばれた。

 ずらりと並べられたボードに習字が貼り付けられて展示されている光景は圧巻あっかんだ。だからここには「虎」文字が壁のように延々と続いている。作品の一つずつにどの学校のどの学生が書いたのか説明書きが添えられている。

 観察していると、自分の子供の作品を見ようと親子連れでやってきた人が多いことに気づいた。小さな説明書きを一つずつ見ていって、探していた作品を見つけた時には嬉しそうにはしゃいでいる。中には記念撮影をする人もいた。

 彼らの動作を見て俺は自信をつける。

 ───大丈夫。きっと彼女は俺を見直してくれるに違いない。

 なぜならここには大量の「虎」がある。これを背景にすれば、自然と俺の威厳も高まるはずだ。

「虎の威を借る狐」。今の俺はまだ狐。けれど、それならそれで努力する。いつかは立派な虎になってみずきさんを迎えに行くのだ。



 俺とみずきさんの出会いはバスだった。俺は塾の帰りで、みずきさんは学校が終わった後の帰り。同じバスに乗ることが何度かあって、互いの存在は前々から認識していた。

 けれど知っているだけで声をかけたりしたことはなかった。だってみずきさんはとても明るい茶髪をしている。それが少し不良の人みたいで、俺には怖く思えたのだ。

 それに加えて、声をかけたところで話すことは何もなかった。共通点は同じバスに乗る人。それだけだったのだから。

 知っているけど赤の他人。その距離が半年ほど続いた。変わったのは十一月。あの日はとても冷たい雨が降っていた。

 俺はいつものように塾を終えて、いつもと同じようにバスを待っていた。バス停は駅ビルの隣にあるだけあってとても広いし整備もきちんとされている。屋根も設置されているから雨が降っていても傘をささなくて大丈夫。激しい雨でなければ濡れずに済んだ。

 みずきさんとの関係が深まった日の朝は快晴だった。天気予報でも「今日は一日中晴天に恵まれます」と紹介されていて、実際午前中は良い天気だった。

 だから誰もが油断していた。

 昼が過ぎ、徐々じょじょに雲行きが怪しくなった。太陽を防ぐようにして雲がわき上がり、気がついたら空一面雲だらけになっていた。

 ───これはひとあめ降るかもしれない。

 警戒していたら本当に降り始めた。夕方四時過ぎてから小雨がポツポツと落ちてきて、塾を終える頃には大雨になっていた。

 他の塾生たちはみんな雨に打たれながら走って帰っていった。けれど俺は違う。いつももしもの時のために折り畳み傘を持ち歩くようにしていたのだ。だからこの日も折り畳み傘を使って雨を避けつつバス停へとたどり着いた。

 みずきさんはびしょ濡れでバス停にやって来た。

「あっちゃ〜。まさか降られるとは思わなかったよ」

 みずきさんはそんなことをつぶやきながら小さなハンカチで体についた水滴をぬぐっていた。

 ───タオルを貸そうかな。

 体をハンカチで吹いているみずきさんを見て、少しだけそう思った。けれど俺は動かなかった。赤の他人から「タオル貸します」なんて声をかけられたら気色悪いと思われるに違いない。もしかしたら冷たくあしらわれるかも。そうと思うと勇気を出して声をかける必要を感じなかった。

 みずきさんがバス停に来て十分後、目的のバスがやって来た。

 順番にバスに乗り込み、発車する。

 この日は突然の雨で乗客が多かった。普段バスを利用しない人が雨のせいで乗車していたのだ。おかげでいつもならすんなりと座れるはずなのに、どこにも席がない。俺は通路に立って、必死に手すりにすがりついた。そして一刻も早く自宅に着くのを待った。

 道路はいつもより混雑していた。突然の雨できゅうきょ車を走らせている人が多かったのだと思う。何度も赤信号に引っかかり、そのたびにバスはブレーキを踏んで揺れた。そのたびに隣の人と接触した。

 その隣の人が、みずきさんだった。

「ごめんね。私、びしょ濡れで」

 触れるたびに謝られた。だから俺はそのたびに首を横に振った。

「大丈夫です。気にしないでください」

 俺がそう返事するたび、みずきさんはにっこりと笑ってくれた。

 その笑顔に思わず心がときめいてしまった。同級生の女子が表現するなら「キュンとしちゃった」だ。

 あれ以来、俺はみずきさんのことが気になり始めた。



 みずきさんときちんと自己紹介をしたのは雨の一件があった翌週のことだった。その日の天気は朝から少しぐずついていた。けれど夕方には日差しが少し差し込んでいた。俺はいつものようにバスを待ち、少し遅れてみずきさんがやって来た。

「ふぅ。間に合ってよかった」

 俺の隣に立ってみずきさんがそう言った。独り言だったけれど、俺の耳にはきちんと届いた。

 だからほんの少しだけ勇気を振り絞ってみた。

「……あの、間に合わない時があるのですか?」

 俺の問いにみずきさんは一瞬驚いた表情をしたけれど、俺が声をかけたことを認識するとにこっと笑ってくれた。

 その笑顔に、ドキドキという表現がふさわしいくらい、心がはずんだ。

 バスがやって来た。俺はみずきさんと並んでバスに乗った。この日は席がきちんといていて、俺とみずきさんは並んで一番後ろの座席に座った。

 バスが発進するとき、肩がみずきさんに触れた。

「私、陸上部なんだ。放課後走ってるとね、つい時間を忘れちゃって」

「バスに乗り遅れる?」

 俺の確認にみずきさんは頷いた。

「時計を見てさ、やっばー、乗り遅れる、とあせってダッシュして。でもさ、部活のあとだからすでに走り疲れてるの。だからいつもギリギリになっちゃう」

 そう言ってみずきさんはいたずらっ子のように笑った。つられて俺も笑ってしまった。

 しばらくの間、二人で顔を見合わせて笑い合った。なんてことない会話なのに不思議と面白く感じられたのだ。そんな体験は初めてだった。

 落ち着いたところでみずきさんがそういえば、と言った。

「自己紹介がまだだったね。私は萱原かやはらみずき。津田女子高等学校の一年生。君は?」

 ──そうか、この人は萱原みずきさんと言うんだな。

 俺は彼女の名前を頭の中にしっかりとインプットした。

「俺はやまりく凛城りんじょう小学校の六年生です」

 俺の挨拶を聞いてみずきさんは優しくほほんでくれた。

 あの一件依頼、俺はみずきさんと同じバスに乗れる時は積極的に声をかけるようにしている。声をかけるといっても挨拶だけで、特別に何かを話したりはしない。そんな俺の行動をみずきさんは嫌がることなくいつも笑顔で応対してくれる。

 それが純粋に嬉しかった。



 今年の冬休みの宿題として出たかきめのお題は「虎」。俺はこの宿題を真剣に取り組むことにした。学校の図書館で借りた本に書いてあった「虎」がつくことわざ。その知識が俺の頭を占めていたのだ。

 ────虎はカッコいい生き物だ。ことわざでたとえられるくらい、昔の人は虎を恐れていた。

 つまり虎は強さそのものなのだ。

 強さの象徴がライオンや象じゃなくて虎というのがいいと思う。ライオンは見た目がカッコいいし、象は図体ずうたいがでかい。でも虎はどうだろう? 密林に馴染む見た目で、狙った獲物は逃がさない。

 俺は虎になりたいと思った。

 ゆっくりと筆を走らせ「虎」の一文字を書いた。けれど気にわなくてそれを捨てる。もう一度集中して書いてみた。それでも納得できなくて、もう一度。

 何度も繰り返しながら、俺は虎のように強くなりたいと強く願った。その理由はもちろん、みずきさんだ。

 みずきさんの見た目は不良っぽくて少し怖いけれど、中身はとても素敵な人だ。可愛らしい笑みを見せてくれるし、俺みたいな知り合ったばかりの人間でも親切に対応してくれる。根が優しい人なのだと思う。

 ただ問題があった。みずきさんは俺が小学生だからなのか、俺のことを少し子供扱いするのだ。

 確かに俺は小学生だ。小学生だけれども、俺は六年生で、来年は中学生になる。みずきさんと四つしか年齢は違わない。それなのに俺を子供扱いするのは間違っている。そう思う。

 ただ、俺の身長はみずきさんよりもかなり小さい。体格が小さい人間を大人おとな扱いしろというのは少々無理があるのは理解している。

 だからこそ、今の俺には「虎の威を借る狐」の言葉が大切なものに思える。

 ────俺には虎が必要だ。虎のように強くてカッコいい見た目が欲しい。その見た目でみずきさんを魅了するのだ。けれど、現実に虎を連れて歩くわけにはいかない。だから工夫が必要なのだ。

 気持ちを込めて書き上げた書初めを学校に持っていくと、担任の先生がものすごく褒めてくれた。気持ちがこもっているし、カッコいい。そう言ってくれたのだ。



 みずきさんの到着を待つこと十分。いつもの明るい声が耳に届いた。

「ごっめ〜ん! 待たせた!」

「みずきさん」

 みずきさんはいつも通りの制服姿だ。肩にはカバンを下げ、両手を合わせてゴメンとポーズを取っている。その姿がクラスの女子より何倍も可愛く見える。

「大丈夫。そんなに待っていません」

「ホント? 陸くんはいつも私よりも先にバス停にいるからさ、きっと今日もそうなんだろうな〜って思ってたんだ。予想通りだったな〜、さすが陸くん!」

 そう言ってみずきさんは俺の頭を撫でる。その手つきは嫌いじゃないけれど、でも少し不満だ。

 ──同じ目線に立ってみたい。

 その思いがずっとある。

「それで、今日は私に何を見せたいのかな?」

 みずきさんが首を傾げて俺に尋ねた。俺は勇気を出してみずきさんの手を取る。

「こっち。来て」

 強引にならないように気をつけながら手を引っ張った。みずきさんは俺の手を振り払うことなくついてきてくれる。そのことに心臓が変にどうして、緊張で表情が固くなるのが自分でもわかった。

「すごいねぇ。書初めかぁ。私も昔やったな〜」

 みずきさんは周りに飾られている「虎」文字を見て圧倒されている。そのことで俺は自信を持った。

 ──大丈夫。俺は今、虎を借りている。

 迷路じゃないかと思うくらい大量に飾られている「虎」の書初め。俺が書いた「虎」文字は、展示スペースの一番端にあった。そこまでみずきさんの手をひき、俺の「虎」文字の前で立ち止まる。

「これ。俺が書いた」

 そう言って指さした。

 正月に神経張り詰めて書き上げた「虎」。少し荒々しい感じになったけれど、それこそが「虎」らしくてとてもいい。そんなふうに先生は褒めてくれた。そして俺もそう思う。

 ──みずきさんは、どう思うのだろうか?

 俺は恐る恐るみずきさんを見た。みずきさんは俺が指さした先にある「虎」を見てまぶたをぱちぱちと動かしている。

「これ、陸くんが書いたの? すっごーい! カッコいいじゃん!」

 みずきさんのその言葉に、俺はゆるみそうになる口元を止めるために必死に歯を食いしばった。にやにやと笑ってしまっては虎らしいカッコよさが失われてしまうと思ったから。

 みずきさんは感心するように感想を口にしてくれる。

「陸くんってば書道得意なんだ! 私、こういうの全然なんだよね〜」

「そんなことない。頑張ったらできただけ」

「頑張れるのがすごいんだよ! マジすごいな〜!」

 そう言ってみずきさんは俺の頭を激しく撫でた。その行動は嬉しいけれど、少し悔しい。悔しいけれど、触れてもらえたことで喜びが勝る。

 ──褒めてもらえた。そしてカッコいいと言ってもらえた。やはり「虎」はすごい。

 すごいすごいと繰り返すみずきさんが突然何かを思い出したかのようにカバンをあさり始めた。どうしたのだろうと観察していると、スマホを取り出して「虎」を連写する。しゃしゃしゃしゃしゃとカメラのシャッター音が切られる音が連続でした。

「これ、待ち受けにしよーっと!」

 思わぬ言葉につい、吹き出してしまう。みずきさんは俺が吹き出したことに一瞬驚きの表情をしたけれど、その後すぐ笑顔になった。

 ──ああ、俺はこの人が好きだなぁ。

 嬉しそうに写真を見ているみずきさんを見て改めてそう思った。

 あと数年して俺の身長がみずきさんを超えたら、その時は告白しようと心に決めている。それまでの間に他の男が近づいてくるかもしれないけれど、それは必死に追い払うつもりだ。

 俺は「虎」になる。強くてカッコいい、狐ではなく虎。

 ──その時まで、もう少し待っていて。

 俺はみずきさんの横顔を見ながら真剣に願った。

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