第2話 『初めての魔法』

 この世界に生まれて四年。

 いろいろ分かったことがある。どうやらここは、海外じゃない。

 たしか、異世界って言うんだっけ。依頼人だったオタクくんがくれたラノベに、似たようなことが書いてあった気がする。


 まず、俺の新しい名前はケイン・ローガン。

 ローガン家は、シュバール王国って国に代々続く貴族の家らしい。でも北の端っこを治めてる田舎貴族ってやつで、めちゃくちゃ金持ちってわけじゃない。一応、住んでいる屋敷はこのタイズ村じゃ一番大きい。

 文明レベルってのは、日本と比べたらかなり低くて、家には隙間風なんかもけっこうある。まぁでも、ベランダとか橋の下に比べればめちゃくちゃ快適だし、布団は柔らかいから俺にとっては天国みたいなとこだ。

 

「はあっ!」

「ふんっ!」


 今日は天気がいい。

 こんな日は、どこの家も洗濯物が干される。そして、ローガン家では父と祖父の剣の鍛錬が繰り広げられる。


「どうした親父殿? もう腰にきたか?」

「言葉遣いに気をつけんか青二才」


 この四年で、だいぶ言葉も理解した。

 父親の名はライオス・ローガン。

 祖父の名はダイン・ローガン。

 二人とも凄腕の剣士で、ダインは若い頃戦争で武勲を上げたこともある。ライオスも、なんかの流派で免許皆伝の腕前なんだとか。


「あらあら。ふたりとも、ケインちゃんの前だから張り切ってるのね」


 頭の上で、優しい声がした。


「いいところ見せたいんでしょうねぇ~」


 続いて、澄んだきれいな声。

 祖母のモニカ・ローガン。

 母親のソラン・ローガン。

 俺は二人といっしょに庭に植えられた木の下で、木剣の音を聞いていた。少し恥ずかしいが、モニカの膝の上に座っている。


「ケインちゃんは、べつに剣士にならなくてもいいからですからね? とってもお勉強が好きみたいだし」


 柔らかな笑みを、モニカは手のぬくもりとともに与えてくれた。


「はい。おばあさま」


 俺も、年相応の笑顔で返す。


 俺は生まれ変わった。

 もう、暴れまわっていたクズじゃねぇ。

 言葉遣いも身のこなしも貴族にふさわしいものを覚えたし、はやくから勉強も始めた。

 おかげである程度の文字も読めるようになったし、小難しい言葉も覚えた。自分でもこんなに勉強ができるなんて驚いたが、まだひねくれる前の子どもだからか、ケインとしての頭がいいのかは分からない。ただ、田中狼としての能力が関係ないことはたしかだ。


「そうですね、魔法使いの道もありますし」


 ソランは人差し指をピンと立てると、目を閉じて息を吸い込んだ。


「『穏やかに 涼やかに 心地よく 実りを運べ 風生ウィンド』」

 

 日光だけで少し暑かった庭に、気持ちのいい風が吹いた。

 

 俺がこの世界で一番驚いたもの。それが魔法だ。

 初めて見たのは、メイドの一人が暖炉に火をくべるときに使ったもので、びっくりし過ぎて漏らしてしまった。

 なんでも、生き物には魔力なんてものがあって、俺も頑張れば使えるようになるらしい。


 ソランが起こした風が、洗濯物をふわりと揺らす。

 庭の中央では、一進一退の攻防が続いている。鳥のさえずりといっしょに、遠くで畑仕事をする村人や子どもの遊ぶ声も聞こえる。


 こんな平和な毎日を過ごせるなんて、思いもしなかった。

 剣やら魔法やらって漫画みたいなこともあるけど、ローガン家のみんなは優しい。赤ん坊の俺が泣かないことを心配して「泣いてくれ」なんて言い出すほどだ。前の親には泣けば叩かれた記憶しかないから、これも文化や価値観の違いだろうか。


 だからこそ、このまま『お利口なケイン』を続けなければならない。

 こんな幸せな生活を手放してたまるか!

 

「ぜああああ!」

「どりゃあああ!」


 激しい連撃の応酬で、砂埃が舞った。

 思わず手に汗握る。

 前の人生では、ほとんど誰かと殴り合う毎日だった。だからか、魔法もわくわくするが実は剣にもけっこう興味がある。でも、いざやると野蛮な一面が出てしまいそうで、心配でもある。


「あっ!」


 ライオスが強引に踏み込み、ダインの剣を薙ぎ払った。

 苦痛の表情とともに木剣を落とし、両手を上げて祖父が降参した。


「参った。ったく、年寄り相手にムキになりおって」

「年寄り扱いされたいなら、対抗意識を燃やさないでほしいんですがね」


 息子の笑みに、ダインはふんっと鼻を鳴らした。


「さ、ケイン?」

「はい!」


 ソランから手ぬぐいを受け取り、俺は二人の元へ走った。


「はい、どうぞ! おじいさま、父上!」


 俺が手ぬぐいを差し出すと、今まで殺気立っていた男二人がへにゃっとした顔になった。


「おぉ~、ありがとうなケイン」

「うんうん、ケインはいい子だのぉ~」


 さすがにちょっと惚気すぎだと思う。


「そうだ、ケインもやってみるか?」

「え!」


 おもむろに差し出された木剣は、まだライオスの熱気を保っていた。

 

「だめ!」


 手を伸ばそうとした瞬間、後ろに抱き寄せられた。

 ソランが俺を抱きしめて、膨れた顔をしている。

 自分の母親だけど、すげぇかわいい。


「まだ危ないわよ。試すなら、先に魔法でしょ?」

「そうです。それに、大人用の木剣を渡すなんて、なにを考えているんですか?」


 背後でモニカの厳しい声がした。

 きっと、俺には見せない怖い顔をしているんだろう。ライオスが苦笑いを浮かべて視線を逸らした。


「よし、ケイン。せっかくだから、魔法やってみようか?」

「は、はい!」


 思いがけずやってきたチャンスに、俺は元気よく答えた。


「じゃあ、さっき私がやった魔法にしましょう。呪文はね……」


 改めて呪文を教わりながら、前の人生でも感じたことのないわくわくが胸に広がっていった。


「いい? 大事なのは想像すること。この魔法だと、自分の中にある風が外に出ていくような感じね。呪文を唱えたら体の芯がムズムズするから、そのムズムズを中心に風を思い描くの」


 分かったような分からないような。

 とにかく、やってみるしかない。

 

 目を閉じて、手を前に突き出し、深呼吸をして呪文を唱えた。


「『穏やかに 涼やかに 心地よく……』」


 すぐに、ソランが言ったムズムズの感覚が湧いた。

 つま先から頭の先まで、血管が震えているようだ。不思議な感覚で痛みとかは特にないが、ケツの穴が無性に痒い。

 アドバイス通り、胸の辺りにぐるぐる回る風をイメージした。そして、さっき見たような優しい風が手から抜け出るように、ゆっくりと動かしていく。


「『……実りを運べ ウィンド!』」


 手のひらを風が撫でる感覚があった。

 

 やった、成功だ!


 と思って目を開けたのだが、大人たちの反応は期待したものではなかった。


「これは……」

「初めて見たな……」

「え? だって風は」


 正面を見て、俺も言葉を失った。

 頭の中では洗濯物を揺らしていた風が、全く吹いていない。


 いや、一応吹いてはいる。

 俺の手のひらで。


 くすぐったいそよ風が、ボールみたいに丸く吹いている。でも、それ以上広がることはない。捕まえられるかと思って拳を握ると、静かに消えてしまった。


「う~ん。放出が苦手なのかな?」


 ハッとして顔を上げた。


 マズイマズイマズイ。

 このままじゃヤバイ。


 割と早くに言葉を覚え、本も積極的に読むケインを、大人たちは優秀だと思っていただろう。なのに、こんな初歩の初歩でつまづいてしまった。


『なんでこんなのもできないんだ! この馬鹿がっ!』


 いないはずの声が聞こえた。

 前の人生で同じ年の頃、カップラーメンを作れと言われて三分以上待ってしまったときだ。

 時計なんて分からないから十を十八回、頭の中で数えた。でも、麺は伸びてしまった。

 ビンタされてベランダに出されて、その日の夜はなにも食べさせてもらえなかった。そのときの痛みと空腹が、じんわりと蘇る。


 今回も、期待に応えられなかった。

 きっと失望しただろう。

 怒られるならいい。

 殴られるならいい。

 でも、嫌いにはならないでくれ。

 頑張るから、今日から寝ないで練習して、できるようになるから。

 どうか、見捨てないでくれ。


「あ、あの!」

「ま、なんにせよ大成功!」


 泣きそうになっていた俺を、ソランが抱きかかえた。

 抱擁と頬ずりはちょっと強かったけど、とてもあったかく感じた。


「そうだな。初めてで、ちゃんと風を起こせたんだ。さすが俺の息子」

「練習すれば、いつかできるようにもなるだろ。儂がいっしょに練習するからなぁ~」

「むしろ珍しい現象です。このまま伸ばして、有用性を見出すのもいいですね。この子の才能ですよ、きっと」


 笑ってる。

 というか喜んでいるし、褒めてくれている。

 失敗したのに、どうしてだ?

 いや、この人たちなりに責めているのかもしれない。


「あ、あの、ごめんなさい」


 体が勝手に震える。

 怖い。怖くて仕方ない。

 捨てられたくない。

 あの笑顔が向けられなくなるなんて、絶対に嫌だ。

 

 怖いもの知らずで生きていた俺が、本当に情けない。

 でも、この生活が消えることが、今はなにより恐ろしい。


「どうして謝るの? あなたはよくやったわ。だから、そんな顔しないでいいのよ、ケイン」


 母の優しいキスが、頬に温もりをくれた。


「そうだぞ? お前の父上は、風を起こすのに三日かかったんだからな?」

「そ、それは言わなくていいだろう!」

「ちなみに、おじいさまは五日だったそうです。お義母様からいただいた当時の日記、読んでみますか?」

「んなあ! いつの間にそんなものを!」


 いつの間にか笑いが起きていた。

 俺の不安や恐怖は行く先を失って、胸の底に沈んでいった。


「さあ、ケインの初めての魔法をお祝いして、焼き菓子でも作りましょうか!」

「いいな! なら、晩飯用にひと狩り行ってくるか」

「儂も行こう。でっかい獲物取ってくるからな、待っておれよケイン~」

「メイドたちにも言っておきましょう。さ、ケインちゃん。お菓子ができるまで、新しい本でも読みましょう」


 俺がなにか言う暇もなく、ローガン家の人々は行動を開始した。


「……うん」


 ソランに抱かれたまま、そっと呟いた。

 

 本当にこの人たちは、俺が知っている家族と違いすぎる。

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