第28話 間違いなく剣聖

 多くの者に掃き溜めと呼ばれるスラムは、都市の南の城壁の外にある。

 土を踏み固めただけの道には、昨夜の雨の名残の茶色く濁った水溜まりが点在し、やや歩きにくい状態になっていた。グライドは慎重に水溜まりを迂回した。アイリスは迂回せずに飛び越えた。

 廃屋のような家屋は日に熱せられ、薄く煙のような蒸気を立ち上らせている。辺りの壊れかけた樽や箱などにも水が堪って、そこに木片やゴミが浮かぶ。この場所を象徴するような腐敗臭に加え、湿気った埃の臭いが強く漂って鼻をつく。

 辺りはゴミや瓦礫だらけ。

 そんな薄汚れた場所の中で、見るからに貴族の令嬢といったアイリスの美しい姿はとても場違いで、ひどく目立っていた。物陰や隙間から、探るような視線が幾つも向けられている。隣に如何にも強そうで険しい顔をしたグライドの存在がなければ、とっくにトラブルが起きてハルバードが振るわれていたかもしれない。

「興味深い場所なのです」

 軽く辺りを見渡しアイリスは言った。

「それは、御嬢様にとってはそうであろう。しかし世の中には、こうした場所の方が当たり前と思う者が多い。煌びやかで綺麗で、安心できる場所で暮らせる者の方が、ずっと少ないのだ」

「そうなのでしょうね」

「しかし、ここは特に酷い部類ではあるが」

 城壁の中に住めるだけの縁故も金もなく、さりとて自力で山野で生きる力も気概もない。そうした連中が流れ着き、都市から排出されるゴミや汚物を漁って生きているのが、このスラムである。

 治安維持の兵も立ち入る事はなく、弱い者がより弱い者を暴力で支配する場所。だからこそ。ブラックマスターシュのような連中が好んで暮らすのだろう。


 グライドは口の端を歪めた。

「ここでは何をしても、何も問題にはされん。斬り合おうが暴れようが、どうしようと。野次馬も来なければ、衛視や兵士もやって来ない」

「なるほどなのです」

 アイリスは背負っていたハルバードを手に取る。

 やがて、まともな建物が見えてきた。男が一人入り口脇に立っていたが、グライドとアイリスの姿に気付くなり中に顔を向け声をあげている。わざわざ見えるように歩いて来たのだから、頑張って仲間を呼んで欲しいところだ。

「フウカは大丈夫なのですか?」

「その点はスラストを信じて構わんであろ。あれは身内への愛情は深い、深すぎるほどに。だから人質にしたのも、ここに来させるためだけだからな」

「なるほど」

 アイリスは頷いて建物を見た。

 ドアが勢い良く開いて、人相の悪い連中がぞくぞくと、吐き出されるように現れる。待ち構えていたの確かで、手に手に武器を持って、防具も身に着け臨戦態勢だ。

 その数は十を超えており、いずれも顔に敵意と怒りを漲らせている。もはや痛めつけるだけでは事は終わらず、命のやり取りになる事は間違いない。

 最後にゼルマンが悠々と、抜き身の剣を手に現れた。

「その娘と自分の娘と交換するつもり、ではなさそうだな」

「当然だ。子供と女性が傷つく事は我慢できん。子供で女性なら、なおさらだ」

「格好いいねぇ」

 担ぐように構えた剣で己の肩を何度か叩き、ゆっくりと近づいてくるゼルマンだったが、いきなり地を蹴り迫って斬り付けてくる。もちろん傭兵に一対一のはずもなく、取り巻きの二人も両側から襲ってきた。

 グライドは前に跳んだ。

 襲い来る攻撃を躱して振り向きざまに剣を抜き、二人を斬り伏せた。仲間の悲鳴を気にもせず、荒々しく横殴りに斬り付けて来たゼルマンの追撃を払いのける。

 その衝撃にゼルマンが顔をしかめたのは、自分の剣ごと体勢を崩されそうになったからだ。流石に修羅場を幾つもくぐった傭兵だけあって、これだけでグライドが並々ならぬ相手と判断し、部下と共に距離をとったのは流石だ。


「なるほど、爺ぃが尻込みするわけだ」

 周囲を囲む男たちの中に、あの老人の姿はない。

 そんなグライドの視線に気付いたのか、ゼルマンは歯を剥き出し笑った。

「あの爺いか? ありゃ臆病風に吹かれて反対ばっかしてな。しかも、お前を剣聖だとか抜かしやがって。勘違いもいいところだ。本物はスラストの方じゃねえか。だから首にしてやったぜ、本物の首にな」

 ゼルマンは腹の底から楽しげで、おどけるように両手を広げ仲間の追従笑いを浴び、まるで演台で語る役者のように気取ってみせる。露悪趣味と言うよりは、本当に悪意に満ちているのだろう。

 剣を握る手に力を込め、グライドは地面の砂を踏み――しかし、そこで声がかかった。

「いいや、そいつも間違いなく剣聖だ」

 声に反応しグライドは視線も向けた。

 鋭い両眼で睨んでくる細身の男、スラストが姿を現していた。

「俺が倒さねばならない相手を馬鹿にしてくれるな」

「はっ、敵同士の熱い友情ってやつかぁ」

「愚弄する気なら、斬っても構わんぞ」

「おっとと、こっちを睨むな。恐いじゃねえか」

 言ってゼルマンは離れるが、グライドとスラストは視線をぶつけ合う。

「娘の安全は確認しなくていいのかな?」

「お前の性格は知っている」

「どうかな、この長い月日に変わったぞ」

「根っ子は変わらぬさ」

 静かに足を運びつつ、自分の有利な位置を取ろうと駆け引きをする。視線を交わす二人の眼に強さが加わり、機を求め緊張が高まっていく。

 日射しに熱せられた地面が陽炎立ち、グライドとスラストの身体が動いた。

「はぁっ!」

 スラストは激情を込めた声をあげ、猛然とグライドの肩めがけ斬り込んだ。同時に、グライドは大柄な身体に似合わぬ敏捷さで跳んでいる。

 両者の剣が激突。重く甲高い音と火花が散って、二人は位置を入れ替えながら何度も斬り合う。その様は苛烈に激しく、見事な動きと技と戦いぶりは、英雄譚の一幕を見るかのような光景だ。


 ゼルマンをはじめとしたブラックマスターシュの男たちは、数多くの戦いを目にしてきただけに、この戦いぶりの尋常ならざる事がよく分かる。我を忘れ、惚けたように見つめる男たち――そこに、アイリスが突風のように走り寄った。

 相手に反応を待たず、物も言わずに、勢い良くハルバードを振るう。たちまちに二人を斬って捨て、さらに一人も叩き伏せ悶絶させてしまう。

「なっ! 卑怯じゃねぇか!」

「アイリスはそうは思わないのです。なぜならば、そちらの数が多いのですから」

「くそっ! 女って奴は、本当に容赦がねぇ」

 ゼルマンは苛立ちの罵り声をあげている。即座に剣を構え振りかぶり、アイリスに斬り付けようとする。だがハルバードの勢いに圧され、迂闊に近寄れない。そうこうする内に、一人また一人とブラックマスターシュの者が倒されていく。

 グライドはスラストの相手をせねばならない。そう事前に聞かされていたアイリスは、単身ブラックマスターシュを相手にするつもりでいた。だから容赦など最初からする気はない。ハルバードの重たく勢いのある斧によって相手の骨を打ち砕き、または構えた防具ごと叩き伏せていく。

 次々と倒される男たちは悲惨な有り様で、倒れ伏したまま動けず呻いている者は、まだ運が良かったと言えるぐらいだ。

「だったら、これでどうだ。フレアバースト!」

 ゼルマンが突き出した片手の前に炎が出現、それが弾となって放たれる。

 命中すれば良くて大火傷、下手をすれば命を奪う攻撃用の魔法で、完全にアイリスの命を狙ったものだ。やはり痛めつけて捕らえるという選択肢は、とっくに捨て去っている。

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