大食い女

正井

大食い女

 家に帰ると母さんが夕食の準備をしている。形の悪いパンプスを脱ぎながら湯気のなかの味噌の匂いを嗅ぐ。今日は魚の煮付けと、玉ねぎのお味噌汁と、ほうれん草とベーコンのチーズ焼きと、サラダだ。サラダはちぎったレタスの上に海藻とトマトと薄く切った玉ねぎが乗っている。海藻はミックスになっているのを水で戻すやつで、かなり前に買ったのだけれど使いこなせなくて置いてあったものだ。シンクの下の棚に突っ込んで、そのまま奥へ奥へ追いやられていたのを、母さんがついに見つけたのだ。わかめと、赤い海藻と、透明のぷるぷるした寒天が綺麗だ。青じそドレッシングをかけると寒天は琥珀色に染まる。

 母さん、ねえ、疲れたよ。食べ終わったらまた仕事をしなくちゃならないんだ。今日も全然、終わらなかった。持って帰ってきたの……。

 母さんは、わかったからもう食べちゃいなさい、と言うように、昆布の佃煮を食卓に置いた。

「熱っ」

 私は茶碗を取り落す。糸底が机にぶつかって鈍い音を立てる。炊きたてのご飯の入ったお茶碗は、油断すると火傷しそうに熱い。幸い、ひっくり返りはしなかった。今度は慎重にそうっと持ちあげて、お箸でご飯をすくい、息を吹きかけて冷まして口に入れる。まだ残暑が厳しいから、お魚は冷蔵庫できゅっと冷やしてある。白身に煮凝った煮汁が絡んだのが、口に入れると溶ける。煮汁からはほのかに生姜の香りがした。懐かしい味だ。母さんの得意料理だ。食べ終わりたくない。ずうっと母さんのご飯を食べていたい。


     *


 スヌーズを切りかけて、慌てて体を起こした。もう六時半だ。あと三十分、いや一時間は早く起きたかったのに。彼女はため息ともうめき声ともつかない声をあげ、机の上に置きっぱなしになっていた小テストをかき集め、端をおざなりに揃えてクリアファイルに入れる。ファイルをカバンに入れようとして、昨日のハンカチがカバンの底で縮こまっているのを発見する。新しいのを出さなくては。その前に顔を洗って、髪をとかして、コンタクトと、化粧と、着替えと……。股の間がぬるつく。昨日使った生理用品も補充しておかなくてはならない。目をしょぼしょぼさせながら、布団から無理やり体を引きはがし、手洗いへ向かう。

 駅に着く直前で、しまった、と思う。生理用品。昨日使って減ったままだ。あの個数では一日を乗りきれない。少し引き返してコンビニに寄り、生理用品を買う。やたらと薄くて大きなやつ。コンビニ店員が生理用品を茶色い紙袋に入れて口を折り、テープで止めるのをじりじりと待つ。水のボトルを抱えたサラリーマンが後ろで順番を待っている。電車は、走ればまだ大丈夫だ。

 学校についてから、ああ、しまった、とまた思う。小テストを入れたクリアファイルを家に置いて来てしまった。カバンの中には真新しいハンカチが入っている。まあ、いい、生徒へはまだ採点が終わっていないとでも言おう。どうせ急いで渡したところで、役に立ててくれるわけでもないし。

 そうだ、小テスト。机の上に荷物を置き、パソコンを点ける。共有ファイルに入っているテストをプリントアウトし、印刷室へ向かう。今日の分を印刷するのを忘れていた――というか、朝にやればいいか、とそのまま帰ってしまったのだ。少し元気を振り絞って昨日のうちに印刷しておけば、こんな面倒は起きない。わかっていたのに、といういつもの帰着にうんざりしながら、さしあたって必要なぶんだけを印刷し、机の上に置く。変わってないなあ、と笑い混じりにため息をつく。この女子校を卒業したのが十年前。教員免許をとり、この学校に就職したのが六年前のことだ。課題をぎりぎりまで先延ばしにして当日朝に慌てていた学生時代と変わらず、今もせわしない日々を送っている。

 くしゃみをする。今日は少し肌寒い。いつからだったか、椅子の背にかけてずっと置きっぱなしになっていた上着を羽織り、「さとう・りか」とゴシック体で書かれたネームタグを首にかける。校名の書かれた腕章をつけて校門へ向かう。大きな荷物を肩にかけて歩いてくる生徒に、おはようございます、と声をかける。受け持ちのクラスの生徒が通る。おはようございます。どうせすぐにまた会うのに、とちらっと思う。

 チャイムが鳴る。朝礼の間のわずかな時間を利用して、今日の授業範囲を確認する。もう何回もやったお決まりのフレーズ、文法、合間に挟むジョークが目の上を滑っていく。就職した時から使っているチョーク入れには、いつでも四色、白・黄・赤・青が揃っている。半分より小さくなると使いにくくなるから、そうなったらすぐに交換してしまう。特に白色は、授業の途中にもなくなってしまうことがあるから、常に三本ずつ確保するようにしている。

 本鈴が鳴る直前に腰をあげ、教室へ向かった。教室へ入ると、生徒たちはまだ友達の席の周りを蝶々のように飛び回っていて、教員の顔を見てから教科書を準備する。少し待ってから、「号令」と声をかける。きりーつ、れい、ちゃくせき。

「Good morning, everyone」

 ぐっどもーにんぐ、みず、さとー。覇気のない、低いどよめきのような声が緩慢に教室の中を満たす。とろりとして、ややもすれば心地よくも感じるその波に飲まれないように、「さあ、始めるよ。切り替えて。今日は新しい単元に入るからね」とことさらに溌剌とした声をあげる。

「あと、この間の小テストなんだけど、まだ採点が終わってないんだ。今日の分と一緒に返すね。ごめんね」

 いいよー、と教室の後ろの方から声が聞こえた。今言ったのは誰だろう。誰も彼も横を向いたり背中を斜めにしたり、きちんと座っていない。まあ、朝も早いので仕方あるまい。

「ありがと」

 基本的には気のいい生徒たちだ。怖がることはない。息を吸って、今日の予定を告げ、その通りに業務をこなす。小テスト、前回の復習、新しい単元に入って文法のポイントを説明する。さわさわと、時折、生徒の私語が耳鳴りのように聞こえる。途中、持ち込み禁止の携帯電話を生徒が持っているのを発見し、取り上げる。今日の復習、それから号令。チャイムが鳴る数分前に終わる。ほら、大丈夫。いつも通り。

 取りあげた携帯電話を担任の教師に預けてから昼休憩に入る。ロッカールームの奥に置かれた長机には立仙先生がいる。今年新しく入った若い先生だ。教科はなんだったか。彼女はカップラーメンにお湯を注いでいる。

「お疲れ様です」

「お疲れ様ですー。あ、先生お弁当ですか? いいなあ」

 お弁当と保冷剤の入った巾着袋を広げると、立仙先生がちょっと中を覗きこむようにして言う。彼女は就職と同時に一人暮らしを始めたとかで、まだ自炊に慣れていない。私なんて、これですよ、とカップラーメンの蓋をぺしぺし叩く。

 お弁当は二段になっていて、一段目はおかず、二段目はご飯が詰まっている。一段目には塩だけで味付けした卵焼きと鳥の照り焼き、茄子とししとうのおひたし、人参サラダが入っている。

「ご自分で作ってるんですか?」

「いえ、母さんが」

 ご実家でしたっけ、という先生の言葉に上の空で頷きながらご飯を口に運ぶ。そうだ、温めればよかった。ここには電子レンジもあるのに。でも、冷めていても母さんの作るご飯はおいしい。

「いいなー。私も、もうちょっと実家出るの、早かったですかね」

 立仙先生が口を尖らせながらカップラーメンの蓋をすべて剥がし、コンビニの袋に入れる。スープの袋の口を切った。スープは半練りタイプで、ねっとりとした濃い色の液体がお湯の中に落ちて行く。立仙先生の箸がスープをかきまぜる。

「失礼しますー。あら、佐藤先生」もう一人入ってくる。それほど広くないロッカールームは、もうそれだけで少し圧迫感がある。四時間目か、五時間目が空いていると、時間をずらして昼休憩に入るから、ロッカールームにはいつも同じ面子が集まる。

「久しぶりねえ。先生、今日はお弁当?」

「はい」

「いいわね、ゆっくり食べられると、それだけでありがたいわ」

 みた・ようこと書かれたネームタグをふっくらした指で外しながら彼女は言った。そうだ、三田先生、と彼女は胸の奥で呟く。珍しい苗字でもないのに、なぜか彼女の名前だけは覚えられない。もうベテランの先生で、教科は違うものの、昼休みには何度も一緒になっているのに。彼女には、そういうことがよくあった。特定の人の名前を覚えられない。生徒の名前も、とっさに出てこない。

 三田先生は、途切れなくしゃべりながら手早く弁当を温め、自分用のコップにお湯を注ぐ。ベテランの主婦らしく、一つ一つの仕草にリズムがあって無駄がない。

「うちの息子がねえ」

と、お弁当を食べながら、器用に家庭の話をする。三田先生には小学五年生の男の子と、小学二年生の女の子がいて、最近は男の子の方の話をよく聞く。

「口裂け女、先生たち知ってるかしら? 息子の方がね、あれをどこかで聞いてきたらしいんだけど」

 口裂け女の都市伝説は、彼女も立仙先生も昔の怪談話として聞いたことがあった。最近、YouTubeでその話をした投稿者がいたらしい、というところで、立仙先生が「ユーチューブ!」と素っ頓狂な声をあげる。

「やだー、最近の子だー」

「先生は世代じゃないの?」

「私の時はもうちょっと下の代が盛り上がってる、って感じでしたねー」

 立仙先生はカップ麺をほぼ食べ終わっていた。カップの端に口をつけて、スープを飲む。

「そうなの、それでねえ。口裂け女って大食いなの? って聞くのよ。なんで、って聞いたらね、口が大きいからそうだと思ったんですって。全然話聞いてないのよ、その、ユーチューバーの人の」

 バカでしょう、と三田先生は苦笑いし、かわいいじゃないですか、と立仙先生が言う。

「もう来年は受験だっていうのにねえ」

 三田先生の子どもは中学受験をするつもりらしい。すでにいくつか学校を回って、本人の気に入った学校も見つけたけれど、まだまだ呑気で勉強する気配がないのだという。彼女のとめどないおしゃべりに耳を傾けていると、かしゅっと手元から音がした。プラスチックの箸が空の弁当箱の底を滑っている。お弁当はとっくに食べ終わっていた。

 失礼します、と立ち上がり、洗面所へ行ってお弁当箱を軽く水ですすぎながら鏡を見る。鏡に映る女の頰はひどくこけている。この仕事を始めると、激太りするか激痩せするかのどっちかなのよ。就職して最初に三田先生に言われたことを思い出す。彼女は痩せる方だった。それでも、就職して六年経って、減ったのはたった三キロだから、激痩せ、とまでは言えまい。ともかくも、食欲は落ちていないのだし。



 自分の席にぐったりと腰を下ろし、時計を眺める。次の授業までそれほど間がないのに、腰をあげる気にならない。教室で一悶着あったせいで、どっと疲れてしまった。授業中、生徒が何やら色紙を広げてお絵かきをしていたのを注意したのだが、「先輩に渡す、大事なものだから」とか何とか言って一度の注意でやめないので、授業を中断して彼女の席のそばに立った。

「やめなさい。今何をする時間かわかってるでしょ」

「知らない」

「だったら出て行きなさい」

 注意された生徒は、むっとした顔でこちらを見もせずに色紙を乱暴にしまうと(大事なものではなかったのか?)そのまま机の上に突っ伏してたぬき寝入りを決めこんだ。こちらとしても呆れてしまって、そのまま放っておき、授業が終わった後に呼んで少し話をすることにした。

「授業中なんだから、やっちゃいけないってわかってたでしょ。ちゃんと切り替えなさい」

「……」

「ちゃんと授業聞かなきゃだめだよ」

「聞く気になんない」

「やる気がないからでしょう」

「つまんない授業するから悪いんじゃん」

 すっと血の気が引いた。「そうやって自分のやりたいことばっかりやってたらどんどん駄目になるよ」と言いながら今度は顔が熱くなる。汗まみれで顔を赤くした教師に目もくれず、生徒はすいませんでしたと言い捨てて自分の席に戻って行った。

 疲れた、と口の中で呟く。私は芸人じゃない。面白い授業、なんて、どうせ表面的にわかった気になるだけなのに。何かあったんですか、と隣の席の教師に聞かれた。小さく言ったつもりが、結構声に出ていたらしい。手短にあったことを話すと、

「ああ、あの子。大好きな先輩が部活引退するから。それじゃないですかね」

「そうなんですか」

「結構一年の時、人間関係作れてなくて、それで学校あんまり来れてなかったんですけど、先輩に会いたいからって登校頑張っててねえ。今全然そんな感じ、しないでしょう」

「……知りませんでした」

 そんなことがあったなんて。彼女はどちらかといえば、活発でクラスの中心になるような生徒だった。頭ごなしに言ってしまったことを少し後悔する。

「注意はね、して当然ですけど。でもあの子、がーんと言ったら反発するタイプだから」

 そうですね、と言ったところで始業のチャイムが鳴った。ありがとうございます、と早口で言って慌てて立ち上がる。いつもより少し遅れて教室に入り、いつも通りのルーティンをこなす。どういう訳か、チャイムの鳴る数分前に授業を終えるのもいつも通りだった。私は大丈夫だ。動揺していない。しかし集中力が続かなくて、放課後にまとめてやろうと思っていた成績処理と教材作りは遅々として進まなかった。ようやく目処を立てて帰ろうとしたところ、

「佐藤先生、この後六時半に、下足所で集合ね」

と教科主任に言われて、「え」と言いそうになるのを慌てて飲みこんだ。そうだった。今日は教科での飲み会だった。本当は家に帰って母さんのご飯を食べたいのに、という気持ちを無理やり抑えつけて、「わかりました」と笑顔を浮かべる。ため息を押し殺しながら携帯電話を見ると実家から電話が入っている。あとで連絡しなければ、と思う。

 会場は学校から数駅行った先にあるチェーンの居酒屋だった。どこに保護者がいるかわからないから、いつも大きな個室のある店を探すことになる。そうすると、行ける店も限られてくるから、同じところに何度も行くことになる。ここも、一昨年だか去年だかに、一度歓迎会で使われたところだ。

 居酒屋の食べ物は、どれも脂っこくて味が濃い。お酒がすすむように作られているのだ。一口食べただけで、塩分の濃さに辟易し、それ以上箸をつける気になれず、お愛想程度に料理を一かけ二かけ口に運ぶ以外は、氷の溶けた烏龍茶だけを胃に入れていた。先生たちは驚くほどによく飲む。グラスが次々に空になる。話題になるのは、主に生徒や、すぐ間近に迫っている行事ごとが多かったが、酒が入っているからか、声も大きく内容にも遠慮がなくなってきている。かなり顔を赤くしている先生もいる。これで翌朝も授業をするのだから、驚く。

「佐藤先生、……食べてる?」

 主任が透明な液体の入ったコップを持って隣にやってきた。上機嫌で、いつもきっちり締めているネクタイもどこかにやってしまったようだったが、ふと酔いが醒めたような顔で彼女の前の皿を見る。皿の上に少しずつ盛られた食べ物は、ほとんど手をつけられていなかった。ポテトサラダは皿になすりつけられて箸の筋がついていたし、刺身は繊維に沿って細かくちぎられている。唐揚げやローストなどの肉類には、箸をつけたあとすらなく、皿の隅に追いやられてサラダのドレッシングに汚れている。

「ちょっと、お腹の調子が良くなくて」

「ああ、うん、お大事にね」

 主任は頷いた。彼女の父親と同世代で、しばしば特大の雷を落とすので自分が生徒だった頃は怖かったが、同僚に対してはおおむね穏やかだった。

「佐藤先生、オススメの作家は?」

「え? オススメですか……」

 唐突な質問に少し面食らいながら、思いついた短編小説を挙げる。ある町に断食芸人がやってくる。彼は何も食べず、時々ほんの少しの水をすすりながら檻の中で四十日を過ごす。四十日目、檻から出てくる彼を観客たちは拍手でもって迎える。そう、断食芸人は花形だった。しかし時代とともに、その人気は次第に薄れていく……。主任はそうかあ、とうんうん頷きながら、腕を組み、彼女の顔をうかがい見る。なぜか嫌な感じにドキッとした。

「先生、それ、生徒にも答える?」

「えっと……」

 もちろん、言わない。名前を挙げたのは、最近、と言っても数ヶ月前、読み終えた作家だった。文学好きからの評価は高く、それで彼女も興味を持ったのだが、正直なところ、何がいいのかいまいちわからず、うとうとしながら読んだものだ。見栄をはって好きでもない作家の名前を挙げたのを見透かされたような気持ちになった。みるみるうちに顔に血がのぼっていく。

「ごめん。今のは意地悪だな。ただな、先生。生徒にも興味持たなくちゃだめだよ」

「……はい」

「向こうだって、この先生私たちのこと考えてくれてるなーとか、そういうのがわかったらさ、こっち向いてくれるもんだ。先生、まだ若いんだろ? じゃ、向こうもそういう一生懸命なの、ちゃんとわかってくれるよ」

 はい、と頷きながらうつむいた。若い? 主任から見ればほとんどの先生はそうだろう。でも、生徒たちにとってはそうではない。もう今やアラサーのおばさんだ。

「先生?」

「がんばります」

 にこっと前向きに見えるように笑った。そうすることで、それ以上のやりとりを拒否できることを、彼女は知っていた。「まずは胃を直してからだな」と主任は言い、彼女のために温かいお茶を注文した。

 居酒屋の前で解散になった。二次会には、もちろん行かなかった。帰りながら、今日言われたことについて考える。生徒に興味を? ちゃんと持っている。これ以上、どうやって持てばいいのだろう。若い人間に許される唯一の武器である情熱をへし折り奪ったのは生徒たちだ。

 五年前、就職して二年目に担任を持つことになった。担任になってやりたいことはたくさんあったけれど、その三分の一も叶わなかった。彼女のクラスは、ちっとも言うことを聞かなかった。彼女のクラスだけ、言うことを聞かなかったのだった。怒ってみても諭してみても問題行動は止まらず、教科担任からは授業にならないと毎日のように苦情が入った。保護者からも叱責やクレームが入ったが、一番辛かったのは生徒たちの反応だった。最初の方は、こっそりと、勉強したい、と言ってくる生徒もいたのだ。その度に彼女は何とかしようとした。怒鳴り散らしたこともあったし、生徒の前で泣いたこともあった。彼らはそれに、ただ戸惑ったような、冷めた半透明の視線を向けた。勉強したい、と言っていた生徒も、いつしかそういう視線を向けるようになった。状況は一向に改善せず、彼女は夏が明けてから病んだ。

 それでも完全に参ってしまわなかったのは幸いだったと言うべきなのだろう。卒業生が精神を病んで二年で辞めた、というのは、職場としても外聞が悪いと思ったのか、彼女はそのまま非常勤講師として雇われることになり、次の年は別の学年の授業が割り当てられた。それから今まで、業務はそれなりにこなしている、と思う。上手くはなくても。

 上手くないのがいけないのだろうか。上手くならないといけないのだろうか。きっとそうなのだろう。でもどうすればいいのかわからない。冗談も上手くないし、ゲームだって、英語のリーディングでできることなんてたかが知れている。

 母さん。

 住んでいる部屋の扉を開けると、美味しそうなシチューの匂いがした。よく煮込まれた野菜と肉、きっとセロリは多めに入れてくれている。ブラウンソースを包みこむようなバターの香りは、ひょっとしてパンを焼いているのかもしれない。想像するだけで口の中が唾液で溢れる。母さん、と言う声が唾液に邪魔されてごろごろ弾けた。空腹を抱えすぎた胃がきゅっと痛んだ。



 鏡をみた瞬間から、今日は駄目な日だ、と思った。顔全体がどんよりと濁っているような感じで、コンタクトは瞬きするたびに違和感があるし、化粧もちっとも乗らない。こういう日は気をつけなければいけないのだ、とほっぺたをぐにぐにこねながら思う。感情のコントロールが効かなくて、何かあったら声を荒げてしまう。何もないように、と祈る。

 にも拘らず、その日最後の授業で、生徒の問題行動を見つけてしまう。生徒が机の下に隠して漫画を読んでいる。後ろの席だからと油断しているのか、見られているのに気がついていないらしい。声をかける直前、さすがに気づいて机の中に漫画を押しこんだ。

「今の出して」

「なんで」

「読んでたでしょ。見てたよ」

 彼女はだまりこくって俯いている。

「出して。預かるから」

「いつ返してくれるの」

 ため息が出そうになるのを堪える。ぐっと声に怒りを込める。でも、感情的にならないように。自分に言い聞かせながら声を出す。

「そうじゃないよね。学校のルールはどうなってたっけ?」

「……」

「出さないなら、担任の先生に報告することになるよ。そうなったらもっと問題が大きくなるけど」

 そこまで言ってやっと、彼女は漫画本を机の中から引っ張り出した。慌てて押しこんだからか、ページの端がまとめてよれていた。生徒は惜しそうにそれをぐずぐずと指で伸ばす。急かしたいのを我慢して待ってやると、ページを閉じてようやく漫画本を引き渡した。

 授業が終わってから、担任を捕まえて報告する。担任教師は何も言わず、少女漫画独特の、目の大きな少女の描かれた表紙をこねまわすようにして見ていたが、やがて口を開いた。

「あの、先生」

「はい」

「こういうの、報告して下さるのはありがたいんですけど……その、こういう機会をね、減らす努力をしていただきたいんです」

「はあ」

「いや、もちろんやらかすのはあいつらが悪いんですけどね。ただその、そういうチャンスを与えないように、先生の方でも授業を工夫していただけないかと」

「そうですね……」

 ご迷惑をおかけしますが、すみません、と頭を下げて自分の席に戻る。腰を下ろして五分も立たないうちに、洗面所へ行く。誰もいないのを確認して、個室に閉じこもり、トイレットペーパーを目頭にあてて涙を吸わせた。なぜこんなにも涙が出るのかわからなかった。悔しいのか、情けないのか、拭いても拭いても涙が出る。涙を吸わせたトイレットペーパーを舐めると塩辛い。なるほど、あの担任の言うことには一理ある……けれど、そんなの、ルールを破る方が悪いのではないか? 私は業務をこなしている。努力している。しんどいのに。辛かったのに。また涙がぼとっと溢れてきた。とにかく目を赤くして仕事をするのは嫌だったので、落ち着くまで待った。途中、二人ほど用を足しに来た。

 個室から出て鏡を見る。目の赤みは顔を洗うとましになったが、顔がひどくむくんでいる。いや、そもそも、起きた時からこんな感じだった。今日は駄目な日だから仕方がない。授業については明日考えよう。

 職員室に戻ると、若い女が来賓の札を首から下げて、先生と談笑している。卒業生だろう。席に戻り、ハンカチをカバンの中に入れる。がさりと手に何かが当たる。引っ張り出して見ると、北海道土産の「白い恋人」だった。確か、修学旅行のお土産にともらったものだったはず。手をつけずにカバンの中に入れて、そのまま忘れてしまっていた。「白い恋人」はカバンの底で手帳やポーチに揉まれて、中が粉々になっているらしく、個包装の緑の袋はふにゃふにゃになってシワができていた。到底食べる気になれず、家に帰ってから処分しよう、とカバンの奥底に戻す。顔をあげたところで、

「りかちゃん先生? りかちゃん先生だ!」

と大きな声がして、びっくりして立ち上がる。さっきの若い女が、こっちに向かって手を振っている。ストレートの髪を茶色く染めて、足首までの長いワンピースを着ている。私、とジェスチャーを出しながら、女の側へ行く。

「りかちゃん先生〜、懐かしい、私覚えてる?」

「えっ、ああ……!」

 顔はしっかりと化粧をしていたが、見覚えがあった。二年目に担任を持ったクラスの生徒だ。ただ名前は出て来なかった。生徒はりかちゃん先生、と言いながら彼女の肩に手を回して軽くハグをし、りかちゃん先生やっぱちっちゃいねえ、と言った。

「大人だからね、背は伸びないよ」

「私も大人だよお」

と彼女はケラケラ笑った。その笑い声には覚えがあった。胃のところが少しぎゅっとなる。

「すごいね、久しぶり。元気だった?」

「うん。りかちゃん先生、元気そうでよかったあ」

 小さな、お菓子の箱みたいなかわいらしいカバンについたキーホルダーを片手でいじりながら彼女は言う。

「だってさ、私ら大変だったじゃんか。なんかねえ、今になってからほんと、あの時なんであんなイライラしてたんだろって思ってて」

「あの年代はね。私も結構イライラしてたよ」

「そうなの?」

「うん」

「そっかあ」

 彼女は「でもごめんね」と言った。

「気にしてないよ。私もね、駄目な先生だったね」

 ごめんね、と言うのを何かが押しとどめた。その言葉が出ないまま、生徒――元生徒の若い女が、あのねえ、と嬉しそうに言った。

「私、ママになるんだ。今ね、三ヶ月なんだよ」

 そうなのか。腹を見るが、まったくわからない。

「ええ? そうかあ。そうなんだね。おめでとう」

「うん。ありがとうね」

「男の子? 女の子?」

「まだわかんないよお」

「そうか、そうだよね」

 気をつけて、と言う。何を気をつけるのだろう。よくよく見れば、彼女のいじっているキーホルダーはマタニティマークだ。

 彼女と別れてから席に戻る。席を離れるまで何をしようとしていたのだったか。ひとまず教科書を出して、次の単元のところを確認する。けれども、気分が高揚して頭に入って来ない。彼女はまだ職員室にいて、いろんな先生に声をかけている。早く帰れよ、と邪険に言う年配の先生も、どことなく嬉しそうだ。だめだめ。気持ちを落ち着けなくては。ふわふわした気持ちをほどよく冷ますように、教科書のローマン体をなぞる。

 次の単元は、新しく収録された教材だった。教科書会社自体は去年と同じだったが、内容は異なっている。しっかりと教材研究をせねば。努力をして、という、担任教師の声が蘇る。教材自体は近頃流行りのグローバル系で、戦前の西欧によるアジア・アフリカにおける大規模農場経営の爪痕と、フェア・トレードについてだ。あなたはチョコレートが好き? そう、けれども、この話を読むと、あなたはそれを食べられなくなってしまうかもしれません。そんな一節で始まっている。子どもたちはロッカーや制定カバン、時には制服のポケットにお菓子を隠し持っている。そういうものを一度、机の上に出させてみようか、とも思う。

 高揚が落ち着いてくると、じっとりしたものが胸の中を満たしているのに気づく。なんだろう、と胸に下げた「さとう・りか」のタグを見ると、濡れたままカバンの中に入れたハンカチを掴んでしまった時のような気持ちになって、教科書から顔を上げる。気がつくともう夕方で、窓から差しこむ光がうっすら黄ばんでいる。職員室にはまだ人がいたけれども、部活動の指導やら家庭訪問やら出張やらで多くの席はからっぽで、そうでなければ帰り支度をしている先生もいる。ああ、まただ、遅い、遅い。いつもそう。なんだかぼんやりとしてしまって時間を無駄にしてしまう。だからいつも余裕がないのだ。うんうん悩む前にさっさと手を動かしてしまえばいいのに。

 教科書のページをコピーし、ノートに貼りつけられるように挿絵や見出しの余計な部分を切り落とす。いつものように授業用のノートを作ろうとして、手を止める。努力を。しなければ。方法を変えなければ、たぶん、いけない。頭の中がしびれるようにぼうっとする。

「先生、今大丈夫ですか?」

「はいっ」

 顔を上げると、昼間に漫画本のことを報告した担任教師が立っていた。昼間とは違ってジャージ姿で、顔に浮いた汗がねばついたように光っている。

「すみません。あの昼間の件ですけども。放課後、ちょっと話しして、あいつにも言って聞かせましたんで」

「ああ……こちらこそ、すみませんでした」

「いえ。授業中に余計なことしてるのは、あいつが悪いんで。ただその、見捨てないでやってほしいんですよ」

「そんな……」

「また、今後ともよろしくお願いします」

「あっ、いえ、こちらこそ……あの」

「はい」

「がんばりますね」

 よろしくお願いします、と担任教師は頭を下げて、職員室の外に出て行った。おそらく部活動の指導があるのだろう。手元のノートに目を移す。そこには薄い青で罫線がひかれている以外、何も書かれていない。

 結局のところ、と彼女は思う。私は、失敗したのだ。もう二十八にもなるのに、ちゃんと大人になれなかった。いつも自分のことばかりで、生徒のことも相手のことも考えられない。自分のことすらよくわからなくて頭をぼーっとさせている。先生になれるくらいには、中途半端に頭がいいから大人になるのをサボった。それが、これだ。

 私はこれから先、こういう、似たようなことがあるたびに、自分が嫌になる。今更、どうやって自分の年齢に追いついていいのかわからない。それが大人になろうとしなかった、自分への罰だ。

 ふと気づくと家の前に来ていた。カバンが重いと思ったら、教科書とノートが入っていた。そのくせハンカチはなくて、洗面所へ忘れて来たのかもしれない。ということはあの後また泣いたのかもしれない。カバンを探る。粉々に砕けた白い恋人やら、なんとかクッキーやら、名前の知らない小さなお菓子がたくさん出てくる。誰かからお土産にもらったものだろう。ポーチに筆箱。携帯電話には実家からの電話が入っている。鍵はある。忘れていない。鍵を開けて、部屋に入る。

 熱された油と、香ばしいにんにくの匂い。卵が鉄鍋の肌に触ってジュウと言う。今日は中華かな。メインはチャーハンだ。うすきみどりのレタスが水を弾いて、蛍光灯の下だっていうのに、キラキラ光っている。母さんが晩ごはんを作ってくれている。醤油の匂いがするのは角煮だろうか。マカロニサラダと、わかめとごま入りのスープ。お漬物も用意してくれている。母さん。母さんのご飯、大好きだ。食べ終わりたくない。ずっと母さんのご飯を食べていたい。

「ならばそのようにするといい。我々の仲間になるといい」

 母さんが言う。うん、そうする。私、母さんのご飯をずっと食べてる。母さんのご飯はおいしいから、明日の活力になる。

「我々は君を歓迎する。君は今日から我々一座の花形だ」

 母さんは私にお茶碗を渡す。熱い。取り落としそうになるのを我慢してしっかりと持つ。手指が焼けてしまいそうだけれど、離すものか。ご飯を食べる私を、母さんがじっと見ている。

 その日から、ずうっと、私は母さんのご飯を食べ続けている。体はもう、どうなっているのか全然わからない。とっても柔らかくなっているのは確か。母さんのご飯を食べるたびに私の体は膨らみ続けていて、もう果てが見えないのだ。お腹も、腕も、太ももも、みんな柔らかくてふっくらとしていて、きっと、この中には母さんのご飯を消化するための内臓がいっぱいに詰まっているのだと思う。

 ひょっとしたら、口も耳まで裂けているのかもしれない。母さんのご飯をたくさん食べるために。ずっと食べ続けるために。どうなっているのかわからない。あの日から鏡を見ていない。鏡の中にいた痩せた女はどこに行っちゃったんだろう? ここは私以外の顔ばかり。私が排泄のために立ち上がったり、腕を動かしたり、口をぱかっと開けたり、母さんのご飯を平らげるたびに、私以外の顔から歓声が起こる。そういえば、母さんはどこに行っちゃったんだろう? まあ、いいや。ご飯があるのなら、母さんはどこかにいるのだろう。どこかにいるのなら、いつか会えるだろう。

 とにかく、私は今、幸せだ。

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大食い女 正井 @masainos

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