第9話 修士論文
修士論文の提出期限まで1カ月を切った。
前回のゼミで出された先生からの課題――ルリミニウム金属へ氷系魔法を負荷した際、破断に至るまでの値に法則性が見いだせない理由はなぜか?――への回答はしばらく後回しにする。
しかし、修士論文の執筆は順調だ。
既に投稿論文でストーリーは完成しており、主要な図表も完成している。
これを流用していいわけだから、それらを流し込むだけで修士論文の形式が完成した。
『背景』の章では類似研究の分析をもう少し詳細に記述する。
『手法』の章ではより丁寧に実験装置の仕組みや工夫を記述する。
『結果』の章には補足となる情報や生データを部分的に追記する。
それだけで一般的な修士論文のページ数になった。
意外と時間が余ったので、この調子で魔材学会研究発表会の要旨もまとめてしまことにする。
要旨は1ページだけで完結させる必要がある。
発表者は投稿論文と同じく、『カイ・ウェントス、マリ・アルキュミア、ダニエ・アダマース』の順である。
これまでの成果のうち、未発表の
学会発表は3回目である。
既に
3回目の要旨作成だけあり、効率よく作成できることに自分でも驚く。
これが“慣れ”か。
私は完成した修士論文案と要旨案を
……少し余裕ができたな。
卒業論文のとき四苦八苦して書き上げたことを考えると我ながら成長したものだと実感する。
たぶん今自分の卒業論文を読んだら、あまりの稚拙さに悶絶するだろう。
研究室を見渡すと、私の指導担当である
「調子はどう?」
まだ修士論文まで時間があるが、進捗だけはたまに確認している。
彼は優秀なこともあり、一人でしっかり進めることが普段からできており、あまり心配はしていない。
「あ、先輩。僕も今度の魔材学会研究発表会で発表するよう先生に言われたのですが、要旨の作成方法がまだよくわからなくて――。
「もちろん!」
私はユリシカくんから原稿を受け取り、ざっと目を通す。
発表者を見ると『ユリシカ・ラピス、カイ・ウェントス、マリ・アルキュミア、ダニエ・アダマース』となっていることに気づいた。
そういえば、私も共著者になると先生に言われたことを思い出した。普段から指導したりサポートしたりしているから、という理由で。
これはしっかり読まないと。今更だが。忘れていたことは内緒だ。
すると、参考文献の記載方法が魔材学会指定のものと違うことに気づいた。
「これ、記載方法が違うんじゃないかな?」
「えっ? 卒論と同じ記載方法を使いましたが…」
「いや、参考文献の記載方法は場所によって異なるんだ。論文を引用するとき、大学では
『著者名、(年)、論文タイトル、雑誌名、巻号、掲載ページ』
と書くけど、魔材学会では
『著者名、雑誌名略称、巻号、掲載ページ(年)』
とするんだ。」
「……微妙に違いますね」
「そう、参考文献リストが長くなると、参考文献の記載方法を変更するだけでもとてつもなく面倒なんだよ。ややこしいよね。でもそういうルールだから、従うしかないんだ」
「どれかに統一してくれたらいいのに……」
そんなことを愚痴っていると、
「こんにちは」
とアダマース先生の声が聞こえた。
たまに先生は研究室にきて、雑談をしつつ各自の研究進捗などを聞いて回る。
「カイさん、魔材学会研究発表会の要旨見ましたよ。良く書けてますね。あれでいいでしょう。私とマリさんで少し手を加えるので、それを待ってから提出しておいてください」
「わかりました!」
先生から合格点をもらえたようだ。安心した。
「先生、修士論文はどうでしょうか?」
気になるのは修士論文だ。修士課程が修了できるか否か、これで決まる。
とは言いつつ、あの短時間で先生が修士論文をすべて読むのは時間的に難しいだろう。
学会要旨をチェックしてくださったのでも十分早いのに。
失礼な質問をしたと今になって気づいた。
しかし、
「ああ、あんなもんでいいでしょう」
と、あっさりこちらも合格点を頂いた。
思わず拍子抜けだ。本当に読んでいるのだろうか? いや、あの時間で読むのは無理だ。
すると、先生の眼光が急に鋭くなった。
「ところで、あのデータはどう解釈すべきですかね?」
…………?
先生は何のデータのことを聞いているのだろう?
「あのデータというのは……何でしょうか?」
先生は小さなため息を一つ。
「カイさんがニイナさんのために実験してあげたデータですよ。」
……あ、完全に忘れていた。
「すみません、まだ考えていませんでした」
素直に現状を報告する。
と同時に、先生があの実験は私がやったものであることを当然のように見抜いていることに気づいた。
「そうですか。ではこれで研究発表会の要旨と修士論文の目途がついたわけですが、しっかり考えてくださいね」
「わかりました。」
「常識にとらわれずに、真摯にデータに向き合ってください。期待しています」
先生の目がいつにも増して真剣だ。
もしかしたらこれは何か大きな発見が埋もれているのかもしれない。
それとも、やはり実験装置や
私は
「がんばります」
と、とにかく宣言した。
とは言いつつ、ニイナさんのことも気になる。
「先生、ニイナさんはどうなるのでしょうか?」
「連絡がないのでわかりません。もちろんしっかり
先生の口調はいつも通り紳士的でやさしい。
しかし、“自分”のあたりを強調していたように思えた。
卒論提出期限まで1週間となった今では、ニイナさんが実験から卒論執筆まで自分でするのは事実上不可能に近い。
卒業論文の単位は必修であるから、これが取れないと卒業はできない。
留年確定、といったところか。
私はそれを理解し、次の言葉が出なくなった。
先生もニイナさんについてはそれ以上何も言わずに、
「ユリシカさん、調子はどうですか?」
と話題を変え、研究室にいる学生へ順番に声をかけていった。
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留年率って結構高いですよね。やさしそうな先生でも容赦なく留年させたり、逆に根性見せたらとりあえず単位をくれる先生がいたり。
次回は査読結果です。
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