第六十話

 時は遡り、白昼。シュナイダーを家に残したフランツは、店を出すでもなく都市鉄道に揺られていた。


 立場上、念には念を押すくらいでないと少々怖い。不自然ではない程度に巡らせる視線で、トンネルに入って鏡のようになった窓で、人々が忙しなく行き交う乗降口で、何度も乗り換えながら監視がないことをひとつひとつ確認する。

 視界の端にいる『姉』も協力してくれた。だいじょうぶよ、なにもいないわよ。いつまでたっても怖がりなんだから。お化けを怖がる子どもを宥めるような声が、耳のなかでこだまする。


 そうして確信が得られたところで目的地――フリードリヒ通り駅を告げるアナウンスが響く。

 そろそろ予定していた時刻だ。人波に流されて電車を降り、マフラーに顔を埋めて粛々と歩く。ホームは透明な屋根で曇天を支えており、人が密集しているのに寒い。電車が発つと冷たい風が頬を叩く。だがフランツにはそれで乱れた髪を直す余裕もなかった。


 頭は興奮剤をたれたように覚醒しきっているのに、身体は鉛のように重い。シュナイダーを捕らえたこと、これから自分がすることを思えば当然だ。言下に切り捨てられる可能性も、もしかすると銃を向けられることだってありえるかもしれない。

 それでもやるしかなかった。きつく潰した胸に手をあて、ふうと深い息をつく。


(――大丈夫、俺には姉さんがいる)


 そう言い聞かせると同時、レールの上で佇む姉が頷いた。ぴょん、とホームに飛び乗り、小さな歩幅で駆けてゆく。出口へ向かう人混みを文字通りにすり抜けて、先へ先へ。待ち合わせ場所はすぐそこだった。


 電車が出たばかりのホームは一気に人口密度が減り、少々すっきりとしている。もっともこれも次の電車がやってくるまでの数分だけだ。あまり悠長にもしておれず、待合の椅子に腰かける。

 隣に座った金髪の女が、唇を動かさずに語りかけてきた。


「遅かったじゃん。一日待った」

「……珍しいすね、あんたが嫌味言うなんて」


 互いにしか聞こえない声で短い挨拶を交わす。上着のポケットから文庫本を取り出し目を落とした。監視がないことは分かっているが、もう性分のようなものだ。


 ちらりと横目でエレナを窺う。艶やかなプラチナブロンドと張りのある輪郭。あどけない桜色の唇は、色彩に乏しいホームではひときわ意識を引きつける。彼女とは何年かの付き合いになるが、その外見は生き血でも飲んでいるのではというくらいに変化がなかった。

 しかし表情は不機嫌そうな渋面で、こちらはあまり見たことのないものだ。目はきつく眇められ、拗ねた子どものように口元を曲げている。

 小さく眉を顰めるくらいならともかく、ここまであからさまに苛立つのはそうそうない。とはいえ、初めて見たという気もしないのだが。


「こっちとしてもイライラすることが多くてさあ。少佐が何考えて何狙ってんだか、全然分からんし。ほんと敵に回すと厄介な人」

「大変すよね、一本吸う?」

「タバコはやめたって、店の前で言ったと思うけど」


 陰から煙草を差し出すが拒否される。ならばと自分でくわえようとしたが、じっとりと睨めつけるような眼光に圧し負けて箱に戻した。

 虫の居所が悪いからか子どものようなことをする。前はこうでもなかったのに。


「なに、あれマジで言ってたの。デタラメだと思ってたよ。あんなにヘビースモーカーだったくせに」


 思えばあの時も今と似たような顔をしていた。ただの演技だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。


「元々嫌いだってのに気づいただけ。自慢の『姉さん』は教えてくれなかった?」

「姉さんにだって分かることと分からないことがあるんすよ。今のあんたのことは、特に」


 堪えきれずに嘆息してしまう。ほんとにね、とホームの淵で手持ち無沙汰にする姉も仕方なさげに肩をすくめた。

 彼女は時折こうして大人相手にもお姉さんのような振る舞いをする。元からそうだったのかは、あまり覚えていないのだが。


 エレナはビニール袋を漁ると、どこから調達してきたのか、見慣れた棒付きの飴玉を一本取り出す。それを煙草の代わりとでもいうかのように口に含んだ。こちらにもコーラ味を差し出してくる。

 「いらない」と軽く手を振って断った。さっきの意趣返しと言うより、単純にどう反応していいか分からない。袋に戻されていく飴玉を姉が名残惜しそうに見送っていて、やっぱり受け取っておけばよかったな、と少し後悔した。


 なんだか、今の彼女はやりづらい。これ以上調子を崩される前に切り出した。


「シュナイダー、捕まえたよ」


 その言葉を発したとたん、空気は真冬の湖のように張りつめた。


 不純物のない世界、冷たく澄んだ氷の大気。

 フランツの知るエレナだ。安堵とともに馴染み深い緊迫感が襲い来る。追い立てられるように、口が勝手に経緯を語りだす。


「昨日、あんたのとこのガキが連れ去られたところを見てたんすよ。西の連中は撒かれてたけど、姉さんが教えてくれたから俺だけ追えたの。で、シュナイダーがそれ見てちょっと追いかけてたのも発見できた。

 西の奴らに気づかれたら困るから遠ざけたけど、それからずっと捕捉してたんすよ。昨日のデモで落ち合えなかったのはそのせい」


 その後は警察に追いかけられるよう仕組んで、助けるフリして隠れ家セーフハウスに上げてる。

 その言葉をあえて飲みこむと、エレナは無感動に目を細めた。最短距離を見極める合理の視線だ。飴を口から出して短く問う。


「場所は?」

「言わない」

「……本気で言ってる?」


 たったの一言。しかし、フランツの全身は軋みをあげて凍った。


 さあっと血が冷たく逆流する。あと一歩で致命的なところに足を踏み入れてしまう確信がある。静かな恐慌が脳を支配して、指先から凍りついていく錯覚に襲われた。ここから解放されるならば何をなかったことにしてでも従いたい。そんな衝動がフランツをせき立てる。

 けれど、姉が呼んでいる。こちらに駆けよって肩を揺らしている。


 ――だめだよツィスカ。黙っちゃだめ、早く言わないと。

 ――黙ってたら、怯えてたら、ツィスカの願いは叶わないから。


 最愛の姉の言葉が、なけなしの勇気を解凍した。震える声ではっきりと告げる。


「本気で言ってる。

 あんたらのタイムリミットは知ってるしそれは尊重するけど、あの男が俺と姉さんに絡んでるかもって教えたのもあんただよ。実際あの顔、見覚えあるし。聞きたいことを聞き出すための時間、ちょっとくらいくれたっていいんじゃないすか」


 伝えるのは二点。この期に及んでエレナの任務達成を邪魔するつもりはないこと、シュナイダーを手元で管理するのはあくまで一時的な措置にすぎないこと。


 ここさえ理解してもらえれば譲歩の余地はある。フランツはそう踏んでいた。網膜に刻んだ姉の姿を頼りに、一息に交渉を突きつける。


「今日の夜。その時になったらシュナイダーは責任もって出荷する。落ち合う場所は、あんたに任せるから……」


 最後の言葉はほとんど懇願だった。エレナの判断は絶対だ。彼女が認めないと言えばフランツは選ばないといけない。すぐにシュナイダーを引き渡すか――彼女を敵に回すか。


 呼吸するたび冷気が気管を侵していく。凍てついた沈黙が決意を削る。

 姉とともに薄氷の上に立ちながら、フランツは裁定を待ちつづけて……はあ、と軽いため息がその答えだった。


「ま、こっちとしても好都合だ。どのみち夜闇に紛れてじゃないとDDRには出せない。シュナイダー捕まえてから変な時間余らせても、あの人が横槍出さないとも限らないし」

「……寛大な上司で助かるね」


 憎まれ口で応じつつも、深い安堵の息をつかずにはいられない。エレナと対立せずにすんだ。全身から力が抜け、姉もほっと安心したような表情をしている。心配させたのが心苦しい。


 一方のエレナにとってはどうでもいいようで、また飴を口に含む。真っ赤な舌でおもちゃのようなピンクの飴玉を舐める様は、扇情的というより不釣り合いだ。フランツを気にもとめずさっさと次の話題に移っていく。


「で、フレーゲル連れ去ったのはどんな奴だった?」

「あ、ああ、なんか妙な子どもだったよね。姉さんも困ってたんすよ、よく分からないって。あんたと似た色の髪した、ふわふわした服着た子だったけど……男なのか女なのか、いくつなのかもよく判断つかないんだ」

「私と似た髪、ねえ」


 言って一房、滑らかな金の髪をつまみ上げる。他にも気になる特徴をいくつか告げたように思うが、エレナにとって重要なのはそこらしい。なにか心当たりでもあるのだろうか。先よりよほど思案げな顔をして、矢継ぎ早な問いを重ねる。


「フレーゲルがその後どうなってたかは? なんか吹きこまれてたとか」

「シュナイダー追ってたから分かんないすよ……ていうか、なんかあんた本当に変わったよね」


 半ば呆れての言葉だったが、もう半分は本気だった。不思議だ不審だという域を超え、もはや気味が悪いのだ。

 その理由も、屋台で見た限りでだいたいの当たりはついた。


「あのガキ……フレーゲルだっけ? と、あとあのポニテの女。

 なんて言うんすか、お気に入りなわけ? そこまで他人のことに興味ないし、そもそもそんな顔で笑わない女だったでしょ、あんたは」


 だがあの時部下と語り合っていたエレナはどうだ。煙草に苛立ち、にやにやと愉快げな笑みを絶やさず、傍らの少女からの敵意も楽しそうに受け止める。あんな表情豊かなエレナを、フランツは冗談以外に解釈することができなかった。


 しかしこの五日間で確信した。あれが今のエレナなのだ。

 今回の任務では日に一度エレナと顔を合わせることになっていた。広場でメモを渡されたのが最初で、二日連続でレストランのトイレ、結局会えなかったが反核デモと、そしてここ。

 会合を重ねるにつれ、かつてとの差が浮き彫りになっていく。しかしフランツの見知っていた氷の切れ味も健在で、どういう経緯でこんな様になっているのか皆目見当がつかなかった。


「おっそいなあ、気づくのが。そうなってから何回会ってんだか」


 エレナはこちらも見ずにけらけら笑う。その笑顔も本物なのか擬態なのか判別がつかない。

 姉も同じようで、怯えたようにエレナから距離を取っていた。『姉』がこの反応ということは、フランツは心の底からエレナのことを理解できていないのだろう。


 とはいえ、契機はなんとなく分かる。思えば兆候自体はあったのだ。


持ちかけてきた時点で、なんか変だとは思ってたけどね。俺には都合いいからそこまで考えてなかったの。年に一、二回顔合わせる程度じゃ確信まで持てないし」

「ま、こないだ来たときもランゲ通してだったし……そういやランゲの奴が寂しがってたよ。可愛い弟が反抗期だって」

「誰が弟だ死ね色ボケクソ野郎っつっといて」


 ランゲ――自分とエレナを引き合わせ、フランツの男装を手解きした男の名前が出てくると、反射的にげんなりする。


 別に嫌いではないのだ。むしろ今フランツがこうした道を選べているのも彼のおかげで、感謝の念だって当然ある。

 しかしただただ単純に鬱陶しい。兄のような存在と言っても確かに過言ではないのだが、顔を合わせれば弟弟とうるさいのだ、あの男は。


 三週間ほど前もそうで、、エレナたちは密かに西ベルリンの偵察とフランツへの伝達に来ていたのだという。まったくご苦労な話だった。

 このまま彼の話を続けるのもなんとなく癪で、別の話題を探す。今の状況では話すことなどいくらでもあるのだ。


「ていうか、やばいんじゃないすか。シュナイダーが俺と姉さんの事件に関わってんなら、ミュラー絶対俺のことに気づいてるでしょ」

「まあ、一番の理由はシュナイダーとフレーゲルの親との関わりにあるんだろうけど。あの人のことだし調べはついてるだろうなあ」


 あっけらかんと言うエレナだが、こんなに簡単に流していい問題でもなかった。

 そもそもフランツは一応国家保安省の二重スパイだが、実質的にはエレナの私兵のようなものなのだ。その縁者をターゲットに指定するなど明らかにエレナに対する牽制である。「フランツのことも見ている、動かせば分かる」。ミュラーはそう言いたいのだろう。


 秋の米工作員狙撃事件の顛末をランゲから聞いていたこともあり、フランツも状況はだいたい理解できていた。このままだと八方を塞がれて詰む。やばい、とそこに尽きるのだ。


「どうすんの。今回の件だって、要はあんたに大人しくしろっつってんでしょ。俺はこのままお蔵入りになるわけ?」

「いんや、働いてもらう」


 そう深めた笑みで飴玉を噛み砕き、エレナはハンドバッグから細い封筒を取り出す。フランツの腰と椅子の背もたれの間にそっと挟みこんだ。ひとまず問う。


「何これ」

「西ドイツの企業の政治献金の証拠。フレーゲルの手柄だよ。使いかたは追って指示する」


 まだシュナイダーの件も終わっていないのに、もう次の仕事の話か……そううんざりする気持ちと、期待に胸躍る気持ちがない交ぜになって心を満たす。次がある。この事実は、他のなによりフランツを勇気づけた。


 エレナは先しか見ていない、この任務を乗り切る算段が立っている。その向こうには、フランツと姉も望む地平が待っているはずだった。

 エレナはそれを為してくれる。エレナならそれができる。フランツもその一角に加わっている。

 それを思うと、滅多に感じることのない感情――喜びが、フランツと姉の間で共有されるのだ。うつむいて隠した口元は、疑いようもなく笑んでいた。


「まったく。上の人間が破天荒だとほんと困るよね、姉さん」


 そう口に出して呼びかけると、姉は同意するように微笑んだ。当然だ、彼女はフランツの鏡のようなものなのだから。


 本物の姉の亡骸はどこにあるかも分からないが、その魂はきっと天国で安らいでいるのだろう。だからこれはフランツの心が生み出した幻影、姉の姿をしたなにか。けれどそれで構わなかった。

 この姿でいる限りフランツは姉を生かすことができる。もう誰にも殺させない。


 エレナたちとともに成し遂げるのだ。この憎悪と、悲嘆と、悔恨と、尽きることない激情のすべてをもって。

 復讐を。


「合流時刻は午後九時。場所はハーゼンハイデ国民公園。そのままオーバーバウム橋の検問所かチェックポイント・チャーリーまで連れてく」

「了解。じゃあうまいことそっち連れてくっすよ」

「あーそうだ。銃使うかもしれないからチョッキとか着といた方がいいよ。あと盗んだ車で来るように。逃走用に使わせてもらう」

「はいはい。相変わらず人使いの荒い上司だよね」

「よろしく、同志フランツィスカ」

「よろしくされたよ、同志エレナ」


 ことさらそれらしいやり取りをして、エレナはぷっと飴のない棒を吐き捨てる。それを最後に彼女は椅子を立った。ちょうど次の電車が到着したところで、ぞろぞろと乗りこむ人波に紛れていく。


 フランツも数分したら発たねばならないだろう。エレナの了解が取れた以上、シュナイダーには聞きたいことが山ほどある。一刻の時間が惜しかった。

 その数分すらもどかしく、今更文庫本を読むふりに戻りながらも、横目でエレナの姿を追う。パンツスーツを着こなす背で金の髪が踊り、人混みの中にいても一目で分かる鮮やかさ。それだけ見ればやはりなにひとつ変わらない。


 ――でも、きっと次会うときには、また違ったあのひとになってるんでしょうね。


 フランツの頬に触れ、姉が予言する。ならばそうなのだろう、と思う。それが好ましいものかどうかはさておいて、「目的」に前向きであるならフランツに文句はなかった。

 たとえ、変われることが羨ましくても。けれどフランツ自身は変化を望めなかったとしても。


 ――ツィスカは、ほんとに怖がりなんだから。


 姉が笑う。姉が慰める。姉が哀れむ。それでいい、とフランツは思う。

 変わらなくても、変われなくても。こうして姉がいてくれるなら、フランツィスカはそれだけで構わない。

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