第五十九話
イングリットが気を失っていたのはおそらく数分程度。だが致命的な時間のロスだった。
砲音のような音で目覚めると、遠くの空に花火がひとつ散っていくところだ。突き刺さるような頭痛をこらえ即座にシュナイダー捜索を開始する。
まだ追いつけないことはないだろうが、方向性を誤れば手に負えなくなる――間違いが許されない焦りは、しかし隠れ場所をぬけてしばし走ったあたりで解消された。
シュナイダーがいる。
後ろ手に縛られたまま座りこみ、その背中はぴくりとも動かない。
意を決して飛びついてみたがやはり抵抗ひとつしなかった。ぼんやりとイングリットを見やると力なく告げる。
「もういい……東に連れていってくれ」
どういう心境の変化か分からなかった。すぐそばには西側の人間とおぼしき射殺体が転がっており、それもまた混乱を助長する。
地面には拳銃も落ちていたから、もしかすると揉み合いになったはずみで死なせてしまったのかもしれない。だから西側に報復されないよう東に逃亡を……そんな推測でとりあえず自らを納得させ、シュナイダーを引っ立てる。どのみち彼を西に引き渡すわけにはいかない。あとはどうするかだけだった。
戦況は分からない。エレナやフレーゲルたちがどうしているかも。
しかしシュナイダーに話を聞けば、つい先ほどまで銃声が続いていたらしい。ならば今ごろ決着がついているはずだが、すぐ傍で沈黙する遺体が気にかかった。
この分では別行動組は確実にいる。また銃撃戦があった以上、遅かれ早かれエレナたちのもとには敵の第二陣がくるだろう。
そんなものを相手にすることになれば、さらなる増援を寄越す時間を与えてしまうかもしれない。今の間隙が勝負だった。
なんとかして敵の注意を逸らさなくてはという焦り。不甲斐ないばかりではいられないという自身への怒り。
そうしたものに背を押され、結果行き着いたのがこの答えだった。
「要は、あの車で焚き火して派手に目を引いた裏で、路駐の車パクって逆側から私ら探しにきたと。イングリットもなかなかワルじゃん」
「あーもうそうですよそうです! 私はワルですとも!! これでも頑張ったんですから!!」
ほとんど逆ギレ気味に言い返す。立て続けの予想外で余裕がないのもあったが、なによりイングリットを急き立てるのはエレナの現状だった。
負傷三ヶ所。特に肩は銃弾が貫通しているとはいえそれなりに酷い怪我だ。
本来なら左手を動かしていい状態ではない。しかもどういう訳か催涙ガスまで食らったといい、ほとんど目を閉じていた。
フレーゲルも相当手酷くやられたようだが、初めて見る上司の姿にはさすがに血の気が引いた。そんなイングリットをよそに当人はあっけらかんとしたものだ。むしろ作戦前までの不機嫌が消えているようにすら見える。それもまたこちらの神経を逆撫でした。
「いや、実際いい手だわ。さすがにこの状態で第二ラウンドはきつかったもん。ダンケダンケ」
ぱちぱちと手を叩く音。無理だの無謀だのではなくきつい、で済ませてしまうあたり、やはり彼女は頭がおかしいのではないだろうか。コンパクトカーの後部座席で、エレナの気配がくすくす笑う。
「それにこの車なら連中に捕捉されてないから、頑張れば乗ったままで抜けられる。
行先決定。オーバーバウム橋の国境検問所は使わないでチェックポイント・チャーリーへ。さっさと東に帰る」
「ってことは、この車も持ち主の方には返せないですね……」
思わずハンドルへ嘆息。予測していたとはいえやはり申し訳ない。一応持ち合わせの西ドイツマルクとマイセン陶磁器を現場に置いてはきたが、愛車を盗まれた悔しさはどうにもならないだろう。ただの自己満足だ。
だがイングリットはイングリットの信念に従って、イングリットにとっての正義を選ぶ。エレナとフレーゲルを助けることが今の最優先だ。
そのために生まれた正しさも間違いもすべて背負う。自身で正しさを決めると誓おうと、正しい道を選ぶとは限らない。
たとえ間違っていても、たとえ悪いことであっても。自分にとっての
これを我儘と言わずになんと呼ぼう。ひどい話だし、やはり自分もエレナの部下なのだなと思う。だが、そう悪い気分ではないことだけは確かだった。
(大尉も私も、ほんともうどうしようもないんだから……けど、あの子は)
バックミラーでちらりと背後へ目を向ける。するとこちらを見つめていた彼女と鏡ごしに視線があった。
凪いだ海のような、底なしに蒼い瞳。それを見つめることにもう気まずさはない。だが懸念はあった。
このまま国境検問所に向かってしまえば、フレーゲルは亡命する機会を失ってしまう。
なんとかすべきではないかと思ったあたりで、背後から弱々しい呟きが届いてきた。
「……あの皿、君たちは分かって持ってきたのか」
バックミラーでうつむいた唇を動かすのはシュナイダーだ。狭い後部座席の真ん中に押し込められ、暗く重い陰を背負っている。これからのことを思えば当然だろう。
しかし言っていることがよく分からない。道筋を間違えないよう気をつけて運転しながら問い返す。
「ええと、どういう意味でしょう」
「エーレンベルクさん……この子の父親と約束してたんだ。この子の亡命決行が決まったら、女の子の絵がついてるものをなにか持ってくるって。それを合図にしようって」
それを聞いて、イングリットの頭でひとつ確信が深まった。
白雪姫の皿。あれを彼に渡すことは、ミュラーによる指示のひとつだった。ならばやはりシュナイダーの失踪やそこからの諸々は彼女の仕込みだったのだろう。こうして切り抜けられそうなことを幸運に思う。
シュナイダーは顔を上げ、やり切れなげに隣のフレーゲルへ口を開く。
「君は、本当にこれでいいのか? 今ならまだ間に合う。このまま西に亡命して、銃なんて持たず暮らすことだって……」
その問いはまさにイングリットが考えていたことそのもので、他人事とは思えない。
フレーゲルの反応次第ではここでブレーキを踏んで、彼女とシュナイダーを逃がす――イングリットもそう覚悟を決め、ハンドルを握りながら身構えた。バックミラーの中の景色をじっと見守る。
「……」
ごめんなさい、と唇だけが動く。
シュナイダーに少しいたわるような目を向けて、しかしフレーゲルは、ひとときも迷わず首を振った。
そこには揺るぎない意志がある。妥協でも譲歩でもない、自身が選び取った道だとはっきり物語っている。
イングリットと同じだ。フレーゲルも彼女の
それにイングリットは小さな安堵と切なさを覚え、シュナイダーは大きな諦念の息をついた。
「そうか……結局、俺のやってきたことは全部、自己満足だったんだな」
天を仰ぐ。なんというか、虚ろだ。なにもかもに疲弊しきったような有様で、見ているこちらが居た堪れなかった。そのままぼそぼそとよく分からない独白をはじめる。
「俺はなにも変われなかった。君も、フランツも救えなかった。あの時の俺に勇気がなかったから、それでずっと……」
「ウジウジグダグダうるっさいなあ。ちょっと寝てろ」
エレナが話の腰を叩き折った次の瞬間、シュナイダーの独白は「がっ!?」という呻きに変わった。
思わずバックミラーから背後の景色そのものに目を向ける。苦しげに顔を歪めたきり沈黙するシュナイダー、曲げた腕をゆっくりと戻していく薄目のエレナ。その肘はたった今までシュナイダーの腹のど真ん中を抉っており、ここでようやく事態を把握した。
「ちょ、大尉!? いきなり何を……」
「気絶させただけだって。ほらイングリット、前」
と促され、慌てて前を見る。いつの間にか中心街近くまで出ていた。店々にはぽつぽつと煌びやかな明かりがついており、人の通りも絶えない。まだまだ夜を遊び足りないとでも言うようだ。華々しい豊かさと享楽的な向こう見ずが共存している。
だがこの通りの先――東西を隔てる壁を越えれば、まったく違う世界が広がっている。いや、イングリットたちにとってはそちらこそが見知った日常なのだ。
「そろそろ戻るよ、我らが祖国へ」
国境検問所。チェックポイント・チャーリー。
西ベルリンへ足を踏み入れたこの場所で、イングリットたちはまた東ベルリンへと帰ってゆく。
「あーもう……飛ばしますからね、舌噛まないでくださいよ!」
言ってアクセルを踏みぬく。CIAに絡まれた以上、アメリカ側の検問所をまともに相手取ることはできなかった。出入国の手続き機能は東ドイツ側がほぼ一手に担っている。驚きと怪訝の目をよそに全速力で素通りし、車止めのバーをへし折った。
百メートルほどの無人地帯を一気に突きぬけ、東側の検問所に辿りつく。
負傷を隠すためか車内にあったブランケットを羽織り、エレナは「話合わせて」と囁いた。ここからものを言ったのは、例のごとく彼女の嘘八百だ。
「通してください! 東ベルリンから来た弟が持病の発作で……!!」
窓を開けて叫び、ぐったりするシュナイダーを指す。そうしたのは自分のくせによく言う。イングリットとしては真顔を保つのが精一杯だ。
一方、東の国境警備隊も簡単には譲らない。いかにも官僚的な無愛想さで、疑い深げに目を眇める。
「時間外だ、昼に来い。それにこれは西の車だろう。外国人の入国ならともかく、帰国では認められない」
「私の車なんです、一刻を争うんですから当然でしょう! 東ドイツは自国民を見殺しにするんですか!? 早くかかりつけの病院に連れていかないと……!」
どうやらシュナイダーは東の人間、自分は西の親戚という体で進めるらしい。この車を使ったまま通行しようとすると言い訳はそれくらいになるだろう。
国家保安省の人間と名乗ったところで、レヴィーネ機関の存在は一部にしか明かされていない。エレナたちのことを知らない人間に問い合わせられたらかえって不信感を招いてしまう。
「それなら救急車を呼ぶ。その男だけ降ろせ」
「救急車がここに来るまで待っていろと!? 私が病院に連れて行った方が早いでしょう、通してください!」
「だが、しかしな……」
エレナの迫真の演技にややたじろぐ役人。しかしさすがにすぐさま通すはずもない。開門にはいくらか後押しが必要だろう。エレナもおなじことを思ったはずで、追撃を加えるべく息を吸う気配がした。
しかしそれが放たれるのに先んじて、合理そのものの声が響きわたった。
「問題ないわ、通しなさい」
前を見やる。車止めのバーの向こう、下向きのヘッドライトの照らす一歩先で、真っ白な手袋が闇夜に浮かびあがっていた。
そこから輪郭をなしていくのは黒い女の影だ。黒い服、黒いまとめ髪に黒いパンプス、黒い陰に覆われた白い肌。ほっそりした肩には国家保安省の上着が掛かっている。見慣れたその姿は、しかしここにあるべきではないものだった。
どうしてこのひとがここに――戦慄と疑問の合間で凍りつくイングリットなど気にかけず、彼女はつかつかと規則的な足音を鳴らす。
ボンネットのほど近くまでやってくると役人を視線で刺し、いつものように冷たい命令を下した。
「連絡は受けている。ここの責任者にも話はつけたわ。
国家保安省少佐、クラウディア・ミュラーが命じます。党のため彼女たちを通しなさい」
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