第五十三話
花火。一拍遅れてぱぁん、と銃声に似た炸裂音。位置と音が届くまでの時間からしてあまり遠くはない。おそらく公園の敷地内だ。
この場でこんな異常、誰によるものかフレーゲルには明らかだった。
『いい? 戦闘になったら、おねがいがいくつかあるの』
少年じみた甘やかな声が甦る。わかってる、と胸の中でつぶやく。
フレーゲルが正しくあるため、エレナの死のため。フレーゲルは彼女に従わなければならない。
「……それ、何の真似?」
光の花が散る。エレナの背が問う。こちらを見ないまま、しかしぴたりと足を止めて。フレーゲルのしていることを思えば当然の問いだった。
ワルサーの銃口でエレナを捉えている。去年の教会での任務以降の反逆。しかしその内実は、一皮むけばまるで違うものだった。
『まずひとつ。わたしがジュンビできたらね、合図をおくるわ。エレナに場所がバレるとイヤだから分かりづらいやり方にするわね。そうしたらね、エレナに銃を向けてほしいの』
これがレニの指示だ。このタイミングでの不自然な花火、どう考えても彼女の仕業としか思えない。ならばフレーゲルは自身のすべきことを全うするだけだった。
エレナは動かない。ただゆっくりと振りかえっただけだ。
色褪せた瞳は絶対零度の冷徹をまとい、すっと細まっただけで切りつけられるような緊張が走る。だがそれよりもフレーゲルを凍りつかせたのは、起伏ない言葉を紡ぐ唇だった。
「私に銃を向けて足止めすれば、そのままどっかから狙撃してあげる……とか、今度はそういうことでも言われた?」
息をのむ。それが答えになってしまった。
いつもの笑みに似たかたちを作りながら、エレナの声はより平らかに、より無機質になっていく。
「分からないとでも思う? 今のお前、私を殺そうと思ってないだろ。ただ銃を向けてるだけで何も籠もってない」
殺そうと思っていない、何も籠っていない――侮辱されたという怒りではなく、言い当てられたという動揺がぐらぐらと胸を揺さぶった。
どうすればいいか分からない。肌寒い夜だというのに、銃を握る手が汗ばんで仕方がない。
いつの間にか動けなくなっていた。銃を向けているのはフレーゲルのはずで、けれどこちらが切っ先を突きつけられているかのような心地に陥っている。
エレナが歩みを進めても、銃口がその胸に埋まっても、指先一本動かなかった。引き金を引くどころか安全装置も外せない。
この女には勝てない――本能からの確信がすべてを支配していた。
エレナは表情を変えない。ただ青ざめるフレーゲルの
「だからさ、フレーゲル」
「っ!」
囁きと同時、臓腑を抉りとるような衝撃が襲った。
気づけば芝生に倒れている。絶え間ない腹部の痛みと這いあがってくる吐き気。起き上がってえずこうとして、しかし追撃がそれを許さなかった。
ローファーが胸を踏みつぶす。肺から空気が絞りだされ、フレーゲルを一瞬の窒息に突きおとす。
新しく酸素を吸い込む前に今度は胸倉を引き上げられた。襟の盗聴器が弾け飛んだのを見届け、その直後に横面を殴られる。頭の芯がきぃんと軋んだ。口の中に鉄錆の苦い味が広がって、エレナの言葉がハウリングする。
「こんなんじゃ私は死なない、殺されない。お前がバカなのは知ってたけどさ、そんなことも分からなくなった?」
痛み、痛み、痛み。圧倒的な暴力に翻弄されて、それ以上の感覚を受け入れることを本能が拒否する。
なのにエレナの声は脳まで響いてくるし、エレナの表情ばかりが視界に入った。エレナにまつわるものばかりが無理やり押しつけられ流しこまれている。しかしフレーゲルは何ひとつ逃さぬよう、痛みのなかでも意識を開き続けた。
(――ああ、まただ)
エレナがまたあの顔をしている。へたくそな表情。未分化の情動は凍った水面に
怒っているのか泣いているのか悔しいのか苦しいのか、まるで判別がつかない。絵具をめちゃくちゃに重ね塗りしたかのようだ。
自分がこんな子どもみたいな顔をしていると、彼女は知っているのだろうか。
「それとも本当になにも考えない人形にでもなった? どうせ嗤われたり犯されたり殴られるだけだから? 諦めて誰かの言うことに従えばいいとか思ってる? ねえ、なんとか言いなよフレーゲル」
詰問がきりきりと胸を刺す。エレナの要求はとんだ無茶だ。けれどたとえ声を出せたとしても何も言えなかっただろう。
フレーゲルを殴りつけながら、蹴りつけながら、けれどそれ以外どうすればいいのか途方に暮れたようにエレナは表情を歪める。フレーゲルの名を呼ぶ声音が答えを求めている。
「お前の、フレーゲルの復讐はこんな――」
制御をなくしかけた抑揚が泣き叫ぶように震えて、そのまま霞のなかに消えていった。
比喩ではない。エレナの背後の地面が弾け飛んだと思った直後、爆発的な白煙が噴き出してきたのだ。刺激臭がつんと鼻をつき、目頭が灼熱する。しかしそれも一瞬で、思い切り投げ飛ばされた背中は煙の届かない方向へと転がされていた。
「……っ!」
全身が痛みで軋んだ。なんとか起き上がって、しかしエレナの姿はない。ただ呻く声だけが煙の中から聞こえてくる。
彼女はあそこにいる。それを理解して、少年じみた少女の声が頭のなかにこだました。
『もうひとつはね、見てて。あなたのめのまえで、エレナが死ぬところ』
手のなかにある銃の重みを否応なく意識する。甘い誘惑が迷いようのない道筋を引いていた。
エレナの死。
それが叶う瞬間は、もう目の前まで迫っている。
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