第四十一話
フレーゲルはここを知っていた。この場所、この道筋、この沼地に至るまで、すべて。
そもそも西ベルリンに来るのは今回がはじめてではない。三週間近く前、エレナに囮にさせられたあの任務で、フレーゲルはここの土を踏んでいる。
中心街に一番近くて身を潜めることのできる場所がここだった。エレナに指示されたチェックポイントのひとつの近辺だったこともあり、このあたりに人気がないことに気がついた。それからたびたびここで休憩を挟みながら例のアタッシュケースを運んでいたのだ。キックスケーターが泥にはまって往生した記憶も新しい。
地の利はフレーゲルにある。加えてあちらは確実にフレーゲルを舐めていた。ならば不意打ちで決めない手はない。
(あのこがユダンしてるあいだに、一気にかたをつける)
そうした思考の結果がこの状況で、泥の中に仕込んだ大きな石が決定打となった。数分ほどの猶予しかなかった割には上出来だろう。
本当はもう少し手傷を負わせるつもりだったのだが袖を切り裂くに止まり、舌打ちが口のなかでこだました。彼女もさすがに自信満々だっただけのことはある。転びもせず、即座にバランスを取り直していた。
(とにかく、このこがおどろいてるうちに、人のいるところまで行かないと――)
そう踵を返しかけた瞬間、ふっくらとした袖の裂け目のなかが目についた。
影になってはっきりとは見えない。ただ彼女の腕があること、それが少女には似つかわしくないほどの質量を秘めていることが分かるだけだ。しかしそれも一瞬だった。
少女が身を抱く。腕をかばって、いや、服の裂け目を隠して。花のようだった唇は青ざめわなないていた。
「な、にを……」
何より意識を奪うのはその瞳。開ききった瞳孔が不安定に震え、それでいて確固たる激情を告げている。射線上のすべてを焼き焦がさんとする落雷の揺らめきだ。
引き金を引いてしまった。それを悟ったときには遅かった。
「っ、何してくれるのよ、クソガキがぁっ!」
彼女の眼が残光を描いたかと思うと、頸部を鷲掴みにされて視界が突き上げられた。
そのまま押し倒される。ナイフを取り落す。背が泥っぽい地面に打ちつけられ、うなじや髪に冷たい感触が散った。喉から顎の付け根にかけてがきつく圧迫されている。痛いというより頭を引き抜かれそうだった。
次いで腹部に他者の重みがのしかかる。エレナよりやや軽い体重で、しかし感情ははるかに重い。視線を向け、すぐに後悔する。
見ているだけで呑まれそうだった。真っ赤に染まる顔、振り乱した金の髪、険しい谷を幾重にも刻んだ眉間。
しかし眼はフレーゲルを見ているようで見ておらず、行き場のない怒りが全身を支配していた。ぶつぶつと落ちてくる声もほとんど独り言のようだ。抗うことさえ思考にのぼらず、ただ息を殺すことしかできない。
「許さない、許さないわ、許せない。レニの腕を晒したわね、レニの肌を暴いたわね、レニの身体を見たわね。おかあさま以外には見せないって決めてたのに、無理やり切り刻んできたわよね。
お気に入りの洋服なのよ、可愛い女の子の服なのに。なのになのにこんな、こんな不格好でみっともなくて汚くて、男の子みたいな、レニの、こんなぁッ!」
言葉が加速する。装うことを忘れた声はまるきり少年の低音だった。抑揚もだんだんと制御をなくし、しまいには金切り声じみたものになっていく。なのにその支離滅裂な内容だけははっきりと聞き取れた。
レニ。それが彼女の名前なのか。ただ一点だけを理解した矢先、視線の切っ先がこちらに的を定めた。
「あなたも、そう思ったでしょ」
それは紛れもない、フレーゲルに向けた問い。
急速に平坦になった低い声音に追いつくことができず、そもそも首を押さえられているため満足に頷くことも否定することもできない。だがフレーゲルの返事に意味などないのだろう。
瞳の閃光は衰えない。どころか帯電したままに
もちろんそれはただの
「甘い顔ばっかりしてあげてればつけあがって……ガキが調子に乗るとどうなるか、教えてあげるわ――!」
その怒号とともに、たぁん、と軽い炸裂音が鳴り渡った。
質量が突き進む気配。すぐそばの大気を冷気が切り裂き、聴覚が爆ぜる。頬に冷たいものが飛び散る。雷の落ちたような焦げくさいにおいが鼻先をかすめて、心臓が早鐘のように逸って……それだけだった。
(……生き、てる?)
いつの間にか閉じていた目をおそるおそる開く。気がつけば首の拘束も解かれていた。
右側に首を振り向ければ、ほど近くの地面に小さな穴が穿たれていた。右の頬に触れた指にはべたついた土がついてきて、どうやら泥が飛んだだけらしい。
は、とこれまで喉の奥で詰まっていた息が流れ出るのを感じた。力がぬけて一瞬なにも考えられなくなる。
「なあんて。びっくりした?」
そんな愛らしいくすくす笑いに、ようやく彼女の存在を思い出した。
こちらをのぞきこんできた彼女と視線が合う。笑みにはやはり幼さと大人びた印象が入り交じっており、黒目がちの眼は愛嬌を誘いながらこちらを見つめている。
しかしそれがただの擬態であると今の交錯で十二分に知れた。その仕草が愛くるしければ愛くるしいほど、奥底にある淀みが透けて見える。口調はまた舌足らずに戻っていた。
「やだな、ジョウダンに決まってるじゃない。服をやぶられたのはびっくりしたし、おこってるけど。わたしたちおともだちだもの。なかよくしないと、ねえ?」
ともだち。そんな言葉を否定する気力も湧かなかった。消音器のついたマカロフは、今もまだ彼女の手の中にある。それが意図的であることは明らかだ。
「おはなし、きいてくれるよね」
要はこれに肯定を返させるため。あくまでフレーゲルが同意したと、そういう体で話を進めたいのだ。
極力顔を逸らしながら頷くが彼女は気にした様子もない。満足そうに銃へちいさなキスを落とし、用意していたように口を開く。
「じゃあね、ホンダイ。あなた、エレナ――エレナ・ヴァイスを殺したいんでしょ」
エレナ。その名を聞いて、逸らしていた目線をまた合わせてしまった。
なぜ彼女がエレナを知っている? 彼女はいったい何者なのか、その問いがまた頭を支配するが、口に出すことは叶わない。我が意を得たとばかり、にんまりと悪意が笑う。
「そうでしょ。あの女、わたしもきらい。だからフレーゲルちゃんとわたしはともだちなの。それならキョーリョクしない?」
キョーリョク、キョーリョク、と何度か反芻して、やっと「協力」という単語に辿りつく。だが言葉の表層をなぞることはできても、何を言っているかはまったく理解できない。
そんな戸惑いを見透かしたように、彼女は「だぁかぁらぁ」と口ずさみながらフレーゲルの耳元へ顔を近づけてくる。エレナと同じマウントポジションを取りながら、エレナと同じ金の髪がフレーゲルの頬へこぼれ落ちる。しかしその感触は綿毛のようで、流水めいて滑らかなエレナの髪とは、その一点が異なっていた。
耳元をふ、と嘲笑の息がかすめる。この温度もエレナのものとは違う。類似と差異の波間に溺れるフレーゲルをすくい上げるよう、少年っぽい甲高い声が悪戯っぽく囁いた。
「手伝ってあげよっか、あなたの復讐」
幼さの消えたそれはまるで誘惑だ。先とは逆に、言葉を理解することができずとも、すっと脳髄を意味が蝕んでいく。恐ろしさは感じるのにどこか心地よい。底なしの無重力に叩きこまれる感覚。
焼き菓子でできた魔女の家のように、リンゴに秘められた毒のように、狂おしく甘い。
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