第四十話
「あ。おはなしっていっても、こっちのはなしを聞いてくれるだけでいいの。だってあなた、口がきけないんだもんね?」
くすくすと品のよさそうな微笑みをこぼす。フレーゲルと同じ年頃にしてはやけに大人びていた。しかし舌足らずな口調はことさら子どもっぽく、幼いのか早熟なのか、判断の天秤を絶えず揺らしている。
一見した姿は、まるで童話に出てくるお姫様。ふっくらとした頬は夢みるような薔薇色に色づき、唇はガーベラの花びらを重ねたように薄く鮮やかだ。プラチナブロンドの髪が丸い輪郭をふわふわ縁取っている。白いワンピースではリボンと段のついたフリルが膝下までを飾って、小さな仕草をするごとに踊った。
しかし違和感を覚えるのがやはり声だ。端々の掠れた甘く高い声には、声変わりを迎える少年がそれに抗うような不自然さがある。少女趣味そのものの外見とは真逆といえた。
(なんなの、このこ……)
すべての要素がバラバラに散らばって、なにも理解ができない。ただの民間人ではないことだけが確実だ。
手首を掴まれたまま一歩も動けず、フレーゲルは答えの出そうにない分析を続ける。それを察したのか、少女は心外そうに肩をすくめた。
「そんなにケイカイしないでほしいな。べつにイジワルしにきたわけじゃないのよ? だいじょうぶ、わたしはあなたのおともだちだもの」
そんな説得をされても一片も信用がおけない。第一印象の奇怪さは別にしても、こんな人気のない場所へ連れこまれただけでも警戒には足る。
にこにこ邪気のない笑みを浮かべる少女と、出方を窺うフレーゲル。一歩ぶんの距離を沈黙だけが行き交っていくばくか経ったころ、少女はその一歩を詰めた。ほとんど目と鼻の先だ。彼女の顔がぶれて見える。
ただ、黒目がちな幼い瞳に一抹の嘲弄が混ざったのは、疑いようもなく知れた。
「ううーん、そうだ、じゃあオリエンテーションしましょ。いっしょにあそぶの。そしたらキンチョウもほぐれるでしょ?」
言って、フレーゲルの手首を離す。あまり痛みは感じなかったが、よほど圧迫されていたのか指先が軽く痺れていた。そうしてフレーゲルが自身の状態を点検しているあいだにも、少女は一方的に話を続けてくる。
「ヒミツおいかけっこなんてどうかなあ。あなたすばしっこいし。わたしが三十かぞえたら追いかけるから、この公園のなかで、だれにも見つからないようにげるの。
公園のなかだけで、だれにも見つからないところにだからね。ヤクソクよ」
告げるが早いか、少女は目を覆って数を数えはじめる。追いかけっこという割に隠れんぼのようだ。そんな感想にも背を向けて、フレーゲルは市街へ出るための最短ルートへと駆けだした。
冗談じゃない。得体が知れないしどのような意図かも分からない、なによりこんなことにつきあっている暇はないのだ。一刻も早くエレナたちと合流し、シュナイダー捜索に尽力しないと。
亡命するなら、そんな努力にも意味はないのに――頭の隅の冷たいところがそう囁いたからだろうか。
否、違う。足取りは一切緩んでいない。フレーゲルは自慢の脚力のまま、三十秒もあれば確実に人気のある場所へ辿りつく速度を出していた。
(じゃあ、これってどういうこと)
今しがた五までを唱えていたあの少女が、なぜ背後からフレーゲルを羽交い締めにしている?
「……!?」
「だぁめ、っていったでしょ? フレーゲルちゃんってせっかちなんだあ」
耳元でわざとらしくころころ笑い、少女が先ほどまでいた場所――スタート地点に引きずり戻される。少女はぱん、と手を鳴らし、そのまままた目元を覆った。
「もういっかいやろ。はい、いーち、にーい」
同じルートへ駆け出す。今度は先より早かった。さん、と数えたあたりで視界の端に金髪が踊り、ステップを踏むような足運びが行く手を遮った。
「だからあ、だめだってば。ヤクソクはまもらないとダメって、おとうさまやおかあさまがおしえてくれなかったっけ?」
父と母。今なによりも聞きたくない単語を出されて、眉間にいっそう力が入るのを自覚した。
それにまたことさら大きい笑声をもらし、少女はくるりとその場で回る。柔らかな土にブーツの靴跡が幾重にも刻まれる。
「じゃあね、フレーゲルちゃんにハンデをあげる。公園のなかで、だれにもヒミツに。そのルールのほかはなにしてもいいわ。木にのぼったりとか、かくれたりとか……」
わたしを、殺そうとしたりだとか。
そうにんまりと吊り上げられた笑みには自負と驕慢と、侮蔑の色が浮かんでいた。
花びらのような唇には不釣り合いなほどの横柄さをまとい、それでも口ぶりだけは少女らしく、彼女は舌足らずに言葉を紡ぎつづける。
「だってだってわたし、ぜったい負けないもの。それでわたしがフレーゲルちゃんのことつかまえたら、フレーゲルちゃんもわたしのおはなし聞いてくれるよね?」
いかにも上機嫌そうに言ってのけ、スカートの裾を小さく上げてまた一回転。このルートは塞ぐつもりらしい。要は彼女の遊びに乗らない限り帰さないと、そういうことを言っているのだ。
彼女は勝つつもりでいる。その実力の片鱗も見せられた。だが彼女の意図が分からない以上、負けて本当に「おはなし」だけで済むとは限らないだろう。
一刻も早く戻るには、一刻も早く勝ちを取るほかない。そう方針を固めた直後、また少女が目を塞いだ。
「それじゃ、またかぞえるから。いーち、にーい、さーん……」
焦らすようにゆっくりと、しかし正確に一秒一秒を数える。もう時間を無駄にする余裕はない。声に背を押されるように踵を返し、フレーゲルは森の深みへと踏み入っていった。
***
駆け引きの第一要素は、主導権の掌握だ。
レニはそのことをよく知っていた。難しい取引や交渉に携わることはほとんどなかったが、人間と関わる以上駆け引きは必ず生まれる。
その際いかに相手の逃げ道を潰し、自分の望む方向に誘導するか。その観点がなにより重要だというのが、これまで生きてきたなかでのレニの持論だった。
「さーんじゅう。じゃあ、おいかけるからね」
予告通り三十秒を数え、目元を包んでいた手を引かせる。視覚を閉じたとはいえ、フレーゲルの身じろぎで生まれる風や衣擦れの音ははっきり知覚できていた。どちらの方向に逃げたかなどクイズにもならない。
そう、レニの勝ちは決まっているのだ。だからフレーゲルに持ちかけた「追いかけっこ」も、半分ほどはそういうことだった。
主導権を握る。警戒が解けないとしても実力差を理解させればいいし、それでもなお抵抗するなら手荒な方法を取るまでだ。
フレーゲルのように猜疑心が強いくせに頭の悪い人間は、ただ友好的な態度を見せるだけでは扱いにくい。こちらが圧倒的に上であることを肌で理解させるのが一番早かった。
もう半分の理由はといえば、そもそもフレーゲルの力量がどれほどであるか確かめておきたいからだ。
「フレーゲルちゃん、どこー?」
言いながらフレーゲルが通ったであろうルートをそのまま辿る。この自然公園は都市緑化とともに人々の憩いの場とすることを目的としているため、そもそもとして人に見つからない道筋というものが限られている。そのうちのひとつをきっちり使っているあたり、なかなか鼻は利くらしかった。
歩くごとに足元がぬかるみを帯び、空気には冷えた湿気が増していく。どうやら湖近辺の沼地の方へ向かっているらしい。フレーゲルのものであろう靴跡もしっかり残っている。それを追っていくと、人気のない荒れた湖畔に行きついた。
フレーゲルの足跡は湖に近い木のそばまで続いている。木陰からはコートの裾がちらりとのぞいていた。
ここまで見てしまえば何が狙いかは明らかで、ならばそれに乗ってやろう。素知らぬ顔で歩み寄る。
「あ、フレーゲルちゃんいたあ」
コートは手招くように風に揺れている。気配は息を潜めてこちらを伺っている。
焦らす速度で木のそばまで近づき、くすりと含み笑って、一気に木の裏を覗きこんだ。
「フレーゲルちゃん、みいつけたっ」
そこには予想通りの光景がある。コートは枝から垂れ下がって沈黙しており、足跡は木を回って植込みの裏へと続いていた。
背後からは瞬発力に任せて飛び出してくる気配。余裕たっぷりに振りむいて、彼女の方へ腕を伸ばす。
「――なあんて、ね」
細い手首を捕らえるのは簡単だった。なぜか泥がついていることに気づいて生理的嫌悪が湧いた程度で、その手にあるナイフも恐ろしくもなんともない。
だが背後の植え込みから銃を向けてこなかったのは意外だ。せっかく敵を誘導したのにわざわざ突撃してくるなんて、どうやら本格的に知能指数が低いらしい。
だからレニが教えてやろう。こういう時はどう振る舞うべきなのか、その無愛想な顔にじっくりと。
「フレーゲルちゃんの方からきてくれるなんて、うれしいなあ。おはなししてくれるってこと?」
そう煽ればフレーゲルは一瞬悔しげな顔をする。しかしどうも状況を理解できていないらしい。両手でナイフを構えたまま、じりじりとレニの方に体重をかけてくるのが分かる。
思わず一歩退がると、柔らかい地面に靴底が沈む。レニを相手にして押し切ろうとする姿があんまりにも滑稽で、思わず素の笑いが漏れてしまった。よりにもよってこの戦法はフレーゲルの分が悪すぎる。
「ねえねえ、もしかしてチカラくらべのつもり? これで? わたしと? ねえホンキで?」
もはや甘い声にも嘲りを隠せていない。それでもなおナイフを向けて立ち向かってくる様は哀れですらあった。なぜここまで勝ち目のない勝負に持ち込んでしまったのか、頭が悪いから以外に思いつかない。
とりあえずあと二、三歩ほど押されてやってから一気に引きこみ、湖の中へ放りこんでやろう。そんな方針を組み立てて、服に泥が飛ばないように右脚を退げる。
「でもね、ざんねん。
親切にも警告までしてやる。これくらいしないとあまりに不公平だろう。
しかし言いながら左脚をゆっくり退げていくにつれ、食い入るようなフレーゲルの表情を見るにつれ、違和感は無視できないまでに沸き立っていた。
(どうしてこの子、ここまでされて怯んでないの?)
思えば最初からそうだ。彼女の道のりは一直線だった。そもそもはじめの方角から正解を引いていることからして幸運だというのに、それ以降も一切迷う様子なくここまで来ている。
でないと三十秒でこの距離が稼げているはずがない。いくら鼻が利いたとして、これほど正解を引きつづけることなどありえるだろうか。
――まるで、この沼地が存在することを知っていたかのような。
「――っ!」
その考えに至ったときには遅かった。左の靴底はすでに泥ではないなにかを踏んで、たった今踏み外したところだ。
不意を突かれた足元が揺らぐ。フレーゲルを捕らえていた手が振り払われる。
レニを支えるものはなにもない。均衡は決定的に崩れ去り、混乱と焦りとぬかるむ泥の不快さが一瞬を支配して。
切っ先の光が閃いた。
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