番外編:1982年のバレンタイン
社会主義国家東ドイツ、そこにバレンタインなるものは存在しない。
そもドイツにおいて現代的なバレンタインが広まったのは戦後であり、しかも駐屯アメリカ兵の影響によるものが大きい。
さらに由来は聖ヴァレンティヌスの記念日ときた。敵対国とキリスト教、二重の面でイデオロギー的に大問題な風習がソ連友邦内で広まるわけもなく、東ドイツももれなく割を食っていた。
とはいえ、その知識が完全にシャットアウトされていたかは疑問が残る。
逆はともかく、西ドイツから東ドイツを訪ねることは比較的簡単であった。そして人の口に戸は立てられない。ましてや職務の関係上、西欧諸国の情報が入りやすい
つまるところ、1982年の2月14日、東ベルリンのフリードリヒスハイン地区が一角。
VEBベルリン陶器貿易こと国家保安省のアジトにてチョコの受け渡しが行われていても、なんら不自然ではないのである。
「えっ? これを私と大尉に、ですか?」
ポニーテールに眼鏡の女、イングリットが目を丸くする。その視線の先で少女フレーゲルは細い箱を差し出し、二人の女性に受け取るよう無言で促していた。
片方は素朴な反応をするイングリット。そしてもう片方は一切動じずこちらを見てニヤニヤ笑う金髪の美貌――エレナだ。前者は意図をはかりかねているのかおずおずと、後者はさも当然のように遠慮なく箱を取る。
「ええっと。ありがとうございますフレーゲルちゃん。でもこれはどういう……?」
「バレンタインってのかな多分。花とか菓子とかばら撒くっていう西の風習だよ。いかにも資本主義って感じのやつ」
エレナの言葉を聞いて、イングリットはぎょっと目を剥いた。忙しなくあたりを見回すと小声で囁きかける。
「ちょ、敵性文化じゃないですか? これ大丈夫なんですか大尉」
「いやまあダメだわな。だから叱っといてイングリット」
「またそうやって私に投げて……分かりましたけどやりますけどもう……」
がっくりと肩を落とすと、イングリットはぎこちなく咳払いする。そしてフレーゲルの鼻先に人差し指を突きつけて、申し訳なさげな渋面を作った。
「えーと。ダメですよフレーゲルちゃん。そういうアメリカかぶれの文化は人民の社会主義的生活に腐敗をもたらします。ですから、ええと、あの……こうしたものは控えてください!」
そう厳しく言い切るのだが、眉が全力で下がっているからまったく怖くない。そういえばこの社長室には見張りの盗聴器が仕掛けられていると聞いた。その向こうを意識しての叱責なのだろう。
イングリットもその先が思いつかないのか固まってしまった。フレーゲルは声が出ないので盗聴器相手には無力だろう。「ええと……」とイングリットが口ごもると、涼しげな声がするりと滑りこんできた。
「まあアレだ、日頃の感謝の証ってやつだろうし、あんまり邪険にするのも可哀想だよ。同志的協力の精神は大事だし。
それにさあ、フレーゲルは反革命分子の娘だもん。親とかから聞いててもおかしくない」
言ってエレナは笑う。「反革命分子」を強調していること、そしてフレーゲルへ向ける底意地悪い視線からして、どう見ても挑発だ。援護してもらったはずのイングリットも輪をかけて慌てている。
だがフレーゲルは激昂しない。盗聴器がある手前直接的な敵対行為には出られないこともあるが――少しばかり、心の余裕があった。
「だからまあ、ありがたく受け取っとこうよ。美味しそうじゃん」
「は、はあ……まあ大尉がそう仰られるなら……」
釈然としない風に頷くイングリットと、早速チョコレートの箱を開けるエレナ。いい流れだ。
(このまま、うまくいきますように)
表情には出さないまま祈る。じっと悟られぬ程度にエレナの様子を伺う。
だがどこか訝しく思ったのだろう。エレナがひとつめのチョコレートに触れる直前、イングリットが鋭く割りこんだ。
「すみません大尉。ちょっと待ってください」
「んー? なに」
「ええっ、と。大尉のチョコレート、美味しそうなので。ひとつ分けていただいてもいいかなあって」
歯切れ悪く言うのだが、その裏にある意図は明らかだった。フレーゲルからエレナ――親の仇への贈り物に、他意がないはずもない。
つまりイングリットは毒味役を買って出ているわけだ。こういう良識を見るにつけ、彼女がなぜこんな掃き溜めにいるのかフレーゲルには分からなくなる。
「まったく、イングリットの食いしん坊め。いいよ、上司の甲斐性を見せてあげよう」
そう言ってエレナはあっさりチョコレートの箱を手渡す。腹の内はやはり読めない。妖艶ともいえる顔立ちのなか、少女のような唇は悪戯っぽくつり上がっている。
「その代わりイングリットのチョコも私にちょーだい。あげるだけは性に合わない」
「いいですよ。それじゃあ交換ですね」
とイングリットもエレナに箱を渡した。一番手前のチョコ――エレナが食べようとしていたものだ――の包装を解き、しばしまじまじと見つめて、覚悟を決めたように口へ放りこんだ。
天に祈る表情で口を動かすイングリット。十分すぎるほどに噛み砕き、特に異常を感じなかったのか、ぎゅっと目を瞑りながらも飲みこむ。
冷や汗が一筋流れていく。少し早めの呼吸が耳につく。そしてまるまる一分ほどが経ち、果たして、イングリットは健在だった。
「お、おいしいです。普通に、あ、いえすごく。ありがとうございますフレーゲルちゃん、私安心しました……!」
大袈裟なほどの喜びようだ。最悪の場合も考えていたのか、若干涙ぐんですらいる。そのまま小さく口を寄せてきたかと思うと、「疑ってごめんなさい」と呟いた。
ちくりと胸が痛む。が、些細なことだ。まともなままでは目的を達せない。イングリットが身を引き、晴れ晴れとした笑顔でエレナの方を向いた。
「大尉、ありがとうございました。これ美味しかったですよ。私の、は、どう……」
「んー。美味しいよ。やっぱ甘いものはいいね」
ともぐもぐ咀嚼しながら応じるエレナ。その傍の執務机には、ひとつやふたつではきかない数の包み紙が転がっていた。イングリットの笑みが引きつる。
「えーと。大尉。それ残りは……」
「ないけど」
「待っ、交換って言ったじゃないですか私!」
「えー。一個ずつなんて言ってないじゃん」
「私は一個くださいって言いましたけど!?」
食いしん坊はどっちですか、と半泣きに逆戻りして嘆くイングリット。容赦なく嚥下し、エレナは空っぽの箱をゴミ箱に放り投げる。にやにや笑いには反省の色など微塵もない。
「イングリットは細かいなあ。じゃあその残り全部あげるよ。だったらイーブンだ」
その提案で、フレーゲルは自身の計算が狂いはじめたのを直感した。
思わずイングリットの方を注視する。彼女も眼鏡の位置を直しながら「はあ……まあ、それなら」と渋々頷いており、どうやら乗り気なようだった。そしてエレナの食べるはずだったチョコレートのふたつめに手をつける。その間、フレーゲルの思考は加速しつつ迷走していた。
(ど、どうしよう。どうすればいいんだろう)
同じ言葉しか浮かばない。ポーカーフェイスの維持が精一杯だった。
イングリットが警戒したのは正しい。エレナ宛のチョコレートには毒が盛られている。しかし毒は最奥の一個にだけ仕込まれており、それ以外は食べても問題ないようになっていた。
つまりこのままでは、エレナではなくイングリットが毒入りチョコに当たってしまう。
密かに歯噛みする。毒味対策とエレナの油断を誘うための策が裏目に出た――いや、逆手に取られたのだ。エレナは明らかに分かってやっている。
それが証拠に、エレナの弄ぶような視線はこちらに向いていた。止めなくていいのか、と若葉色の瞳が厭らしくも問いかける。
(わたしとこのひとで遊んでるんだ、この女)
そう思うと頭の芯がかっと沸騰した。だが怒りに身を任せていい場面でもない。イングリットも世間話の合間にも食べ進めている。
早く止めないと。だが彼女にこのことがばれれば今後一切調理はさせてもらえないだろう。毒殺という手段が事実上不可能になる。イングリットに怪しまれないように、そして彼女が毒を食べないように。そんなやり方が簡単に思い浮かぶはずもない。
あっという間に三つめまでがなくなって、とうとう四つめが歯並びのいい口に入った。焦る思考はただただ空転するばかりで、そうこうするうちにイングリットの指が五つめ――毒入りのチョコレートへと伸びていく。
(とめ、ないと)
もはやなりふり構ってはいられなかった。ほぼ無策のまま、包み紙をつまんだ手を押さえる。「ひゃっ!?」とイングリットが素っ頓狂な声をあげた。
「え、え? あの、フレーゲルちゃん? どうかしました?」
そう戸惑うような気遣うような言葉には首を振って返すしかない。
敗北感。視界の外でエレナがニタニタと笑っているのが分かる。これが今できる最善だったことに疑いはないが、エレナの思惑通りに動いてしまったことがただただ業腹だった。それこそ殺してしまいたいくらいに。
(ほんとう、最低で、やな女――)
絶対に見返してやる。そして殺してやる。そんな業火に心をくべていると、イングリットがこちらを覗きこんできた。
「フレーゲルちゃん? どうしたんですか? おなかでも痛くなっちゃいました…?」
言って、フレーゲルの手に自身のそれを重ねてくる。彼女の良心が眩しすぎて居心地悪くて目が合わせられない。視線を背けるとイングリットの気配はさらにおろおろとして、このままの悪循環が容易に予想できた。
それを断ち切ったのは意外と言うべきか案の定と言うべきか、この場のすべての発端だ。
「イングリット、そこは察してやりなよ」
「は、はい? なにをですか」
「言いづらいんだよ。自分もチョコレート食べたくなっちゃった――なあんて」
ぎょっと顔を上げる。くすくす囀るような含み笑いの通り、エレナはほとんど噴き出しつつあった。つまりこれで王手をかけるつもりなのだ、この女は。
「あ、ああ。そういうことだったんですか……? 私は全然構いませんけど」
イングリットもやや訝しげにしながらも応じ、どうぞ、とフレーゲルの手に最後のチョコレートを握らせてくる。
これを食べたら最悪死ぬ。だからフレーゲルはここで途方に暮れるか尻尾を巻いて逃げるしかない。エレナはきっとそう考えている。
(けど……でも、それなら)
包装を剥がし、手元のチョコレートをじっと見つめる。中には毒。だがフレーゲルはそれを握りつぶすことも放り捨てることも選ばず――ゆっくりと、口の中に含んだ。
視界の端、エレナの指がぴくりと動いた。視線がきつくなったのも感じる。フレーゲルとて彼女を殺す前に死ぬつもりはない。エレナのもとまで一息で距離を詰め、その襟を乱暴に掴み寄せた。
唇を合わせる。歯が音をたててぶつかったが痛みを意識する余裕もない。唇の合間に舌をねじこみ、逃さないよう深く吸いつく。大人の口内は思いのほか広い。ならばフレーゲルの方が有利だった。
(このまま、むりやり食べさせてやる)
毒を仕込んだのは内部のフィリング部分だ。外側のチョコレートが融ける前にエレナに飲み込ませてしまえば比較的安全に毒殺できる。できない話ではない……ならばフレーゲルはやるだけだった。
じゅっ、と唾液が混ざる音を聞きながら、チョコレートを生ぬるい口腔へ転がしていく。が、エレナも意図を悟ったのか、熱く濡れたものがゆっくりと蠢いた。
エレナの舌だ。身長差のため下から突き上げなければいけないフレーゲルにしてみると、舌で口元を封じられれば為すすべがなくなる。
だがエレナはそのような逃げには走らず、フレーゲルの舌をつついて挑発してきた。そしてチョコが口に入りそうになったところで巧みに防ぐ。逆にこちらへ押し返そうとするが、フレーゲルがそれを許すはずもない。結果、チョコレートを挟んでふたつの舌がせめぎ合う。
焦りのためか苛立ちのためかじんと発熱する脳髄。熟れた熱がぶつかり絡まるたび、互いの呼吸が少しずつ荒くなっていく。
唇の間でチョコレートが溶けてゆき、唾液とともに口元を汚していた。だがそれに気を取られた瞬間にお終いだ。この唇だけは絶対に離さない。
フレーゲルはエレナを殺すのだから。
だから毒を飲ませるため、こうしてエレナの舌に自身のそれを押しつけることだってしなければならない。
そろそろチョコレートの壁も溶けきって毒に到達しつつある。ここが踏ん張りどころだ。いっそう深くエレナの唇を吸って、ひときわ乱暴に柔らかくなったチョコをねじこんで……
「なっ……なっ、なん、なななな……っ!?」
だが、フレーゲルは忘れていた。
第三者の彼女はとても良識派でとてもまともで、そしてとても間が悪いのだと。
「何してるんですかお二人はもーーーーーーーーーっっっ!!???」
荒っぽく首根っこを引かれ、エレナから引き剥がされる。口のまわりを真っ黒にしたエレナはきょとん、と虚を突かれたような顔をしていて、それがいやに腹立たしかった。
二人の間でその襟首を掴んでいるのはやはりイングリットで、顔全体が真っ赤に染め上がっている。何もしていないはずなのに息があがっており、エレナに向かって支離滅裂に喚き散らした。
「いったい! 大尉は!! 何を考えて!!! あれほどフレーゲルちゃんに変なことはしないでくださいって、もう私何度も何度も……!」
「いや、あれはどう見ても私被害者じゃん。されたのこっち」
「だとしてもです!! なんであんな、なんていうかこう、応じるようなこと……!」
「イングリットイングリット、落ち着く」
しい、と赤いマニキュアの爪をイングリットの口元に当てるエレナ。そしてあたり一面に視線を走らせた。それで盗聴器の存在を思い出したのか、イングリットも程なくして矛を収める。
ただし、退く気配はない。彼女は意外と頑固だ。
「お二人とも、アパートに戻ったら言い訳を聞きますね。それまでに申し開きを考えておいてください」
そう二人を見つめる視線はイングリットにしては厳しいもので、これは本気だ。フレーゲルちゃんお口を洗ってきてください、という指示もやや強い。さすがに逆らえなかった。
だが、それより先に確認すべきことがある。
(毒の部分、いったいどうなったんだろう……)
少なくともフレーゲルの口内にはないし、はずみで飲み込んだ覚えもない。ならばエレナが――と思ったが忍び見た彼女はピンピンしていた。それでも一縷の望みにかけて密かに注視していると、エレナが無言のまま床の一点を指す。
目を移した先では、黄色いフィリング部分がべちゃりと無残に潰れていた。
「……」
舌打ちしたい気持ちを堪え、エレナに背を向ける。今回は失敗だ。そしてアパートでの話し合いで毒殺の試みが暴かれるのも目に見えている。フレーゲルにとっては大損だった。
だが絶対に諦めない。今までもこの先も、フレーゲルは全力で邁進するだけだ。それしか知らないから、それしか求めるものなどないのだから。
(エレナ――ぜったい、わたしが殺してやるから)
お菓子も花も、愛もいらない。ただ彼女の死だけがあればいい。
そんな恋人の日には不似合いな激情を胸に、フレーゲルは社長室から足を踏み出した。
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