第十二話

 フレーゲルにとって自身の怯えは耐えがたい屈辱であり、また代えがたい武器だった。

 あの夜の悪夢を忘れられない。あっさり返り討ちにされ、親の仇に犯された悔しさと恐怖。エレナの笑い声を聞くたび心が凍り、エレナの肌が触れるたび意思とは関係なく身が跳ねる。そんな自分の弱さを呪いもした。


 だが――と数日経った頃に少女は気づいた。

 エレナは言っていた。「お前の殺意は分かりやすい」。ならばこの怯えで殺意を隠せばいい。フレーゲルは戦意喪失した無力な子どもで、エレナを恐れる従順な駒。そう油断させておけばエレナもいつか必ず隙を見せる。

 だからこの一ヶ月、フレーゲルはずっと自分の恐怖を晒し続けた。エレナにいいようにされても抵抗ひとつせず、命令はためらうことなく受け入れた。イングリットのおかげかさほど無茶なことは言われなかったが、仮に言われてもフレーゲルは従っていただろう。それであの女を殺せるならなんだってやる。


 そして今日、フレーゲルは再び牙を剥くのだ。


「……」


 じっとエレナを見上げて好機を待つ。周囲にはまだ部下たちがいた。フレーゲルの視線もよそに全員を一瞥し、エレナは口端を不敵に吊り上げる。


「じゃあ予定通り。私とランゲ、フレーゲルで教会に突っ込んで交渉。あとは四人で各出口固めとくように。

 想定人数はアメリカ人ヤンキー一、ポーランド人ポラッケ七。前者の確保が最優先。分かったなアレス クラー?」

『了解』

「よしよし、いい返事。各員展開」


 短く告げられた号令に、二人の男女が音もたてずに教会の陰へ消え、残りの二人が大扉の脇で銃を構える。残されたエレナとランゲ、そしてスーツケースを持たされたフレーゲルは大扉の正面に立つ。


「そんじゃ行くかな。フレーゲルはよぉくお勉強するように」


 警戒役の男が大扉を開く。上着のポケットに手を突っ込んだまま、エレナは内部に歩を進めた。

 フレーゲルもスーツケースを転がして続き、殿しんがりはランゲ。前室は左右に階段が伸びているだけの猫の額のような空間だ。背後で大扉の閉じる音がして、聖堂へ続く扉の合間だけから灯りが見える。それをエレナの背が押し開けた。

 闇に慣れていた眼に白光が突き刺さる。ぱちぱちと数回忙しない瞬きをしてやっとぼやけた視界が像を結んだ。


 ニスの剥げかけた木造の聖堂。全体的に質素なつくりをしており、威厳があるというより古めかしい。ステンドグラスがあるのも正面最奥にある大窓だけで、左右の細長い窓はただのガラスだった。郊外の夜にうっすらと聖堂の景色が重なっている。

 そして一段上がった説教壇の中、十字架に磔となったキリストのもとでは、三人の男が厳しい表情でこちらを見ていた。


「どーもご機嫌麗しゅう信者の皆さん。ずいぶん物々しいミサのようだけど、我々も混ぜてくれないかな。物々しいのは大好きでね」


 左右の長椅子の間を練り歩き、説教壇に近づいたエレナが笑う。ひらひらと両手を振ると、壇の真ん中にいる男が苦々しげに吐き捨てた。


「国家保安省の狗が神の家に何の用だ。ここは背信者の来るところではない、立ち去れ」

「やだなあ。神父様の席を弾除けにする人間に言われたかないよ。それともあんたの国だとアリだったりするのかな、アメリカ人」

「私は東ドイツ国民だ」

「とりあえずそういうことにしとこう。で、見ての通り我々丸腰なんだけど。子供もいるし、その物騒なの降ろしてくれないかな、ポーランド人」


 エレナが背後に言葉を投げる。入り口側の壁に沿って凹型になっている、パイプオルガンのある中二階――楽廊と言うのだったか――では、五人の男が拳銃なりライフルなりをこちらに向けていた。

 エレナが呼びかけてもなお銃口を逸らさなかった彼らだが、説教壇の一人が手で合図すると渋々ながら腕を下ろす。どうやら主導権は彼にあるらしく、エレナの言う通りそれが米工作員……「アメリカ人」なのだろう。背だけを見ていても分かるにやにや笑いで、エレナが説教壇へ手を差し出す。


「単刀直入に言う。我々と組もうよ」


 おどけたように首を傾げると、滑らかな金の髪が一房背中へこぼれてくる。垣間見える口元には余裕のある笑み。ほとんど成功を確信しているといった風だ。


「あんたらはこれまで通りDDRの内情を探るなりポーランドで励むなりすればいい。我々の欲しい情報を流したり、我々で用意した答えをお仲間に回答したり、そういうちょっとしたお手伝いだよ。悪い話じゃない」

「要するに二重スパイになれ、と?」

「そう捉えてくれて結構」


 あっさり肯定してみせる。小さいとはいえ教会だ、高い天井にエレナのはっきりした声はよく響く。今やこの場は彼女を中心に回っていた。

 「アメリカ人」の捕獲。銃火器がどうのという話が出ていたものの、穏当に終わるならそれに越したことはないというのがエレナたちの判断だった。まずは交渉で投降を試みる。人でなしとは思えない理性的な対応だったが、それをなぜフレーゲルの父母に向けなかったのかと思うと憎しみが火勢を増すばかりだ。

 だから多分、この交渉も良心からではない。フレーゲルの苦い思いもよそに、エレナはそれらしい言葉を白々しく連ねていく。


「人命は大事だよ。情報はもっと大事。だから民主国家DDRはあんたらを歓迎する。少なくとも、ここでドンパチやって犠牲が出るよりいい」

「ずいぶんお優しいものだな」

「勝者の余裕ってやつかな。ここももう包囲してるし、ここ我々の国だし、ここ社会主義圏だし。あんたら詰んでる」


 肩をすくめる。ここを突破したところで東ドイツ当局の追っ手がつくだけだし、近くのポーランドへ逃げたとしても東欧各地の秘密警察にマークされる運命には変わりない。この状況に陥った以上、彼らは東側と手を結んで何事もなかったかのように振る舞うしかない……エレナはそう言っている。


 事前に聞いた筋書きの通りだった。説教壇の三人はしばらく小声で言葉を交わしていたが、やがて意見がまとまったと見えて互いに頷く。「アメリカ人」が代表してこちらを向いた。


「話を聞こう。その代わり、人道的な措置を約束してくれ」


 思いのほかあっさりした承諾。背後のポーランド人たちはざわつき、エレナは当然といった風にうなずく。


「もちろん。我々は近代国家だよ、協力者には相応の対価がある」


 平然と言ってのける。その協力の過程にどれほどの「尋問」があるのかと思うと、他人事ながら哀れみを覚えた。

 だが、それより遥かに大きな感情――憎悪の前に全ては無意味だ。


(……いまだ)


 高鳴る胸がそう告げる。部下のほとんどは包囲に徹し、エレナ自身も交渉成立を目前にして気を緩めている。そして説教壇真正面のこの位置。これ以上ない好機だった。

 精神的な動揺を抑える薬を打たれたからか、むしろよりはっきりと殺意を自覚できる。息を潜めてコートのポケットに手を忍ばせた。指先に硬い感触がぶつかる。その先にあるはずのボタンを探し、さらに深くポケットに手首を沈ませて。


 握り締めたのは、違和感。


「お嬢さん、お嬢さん」


 ランゲの囁きが落ちてくる。気障と親しみを足して割ったような声音にも、今は心臓の凍る心地しか覚えない。エマもそうだったのだろうか……そんな益体もない思いが片隅をよぎった。

 声へ視線を移すと、ランゲの浅黒い指が背後を示す。入り口の方。ゆるゆると振り向くと、自分が本来握っているはずのもの――爆弾のリモコンが、長椅子の陰に打ち捨てられていた。

 分厚い筐体は半ばから折れている。フレーゲルの押すはずだったボタンも、何色かのコードを道連れにして目玉のように飛び出ていた。その機能がとっくに失われているのは、道半ばに転がった乾電池を見ても明らかだ。


 ポケットから腕を引きずり出す。手の中にあったのはただの石だ。力を失った手のひらからこぼれ、木の床にコツンと転がる。


(なんで、どうして、いつのまに)


 疑問ばかりが頭を巡る。理解できたことはわずかだ。ランゲがこれをやったこと。そしてランゲが知っていた以上、きっとエレナも。


「――――」


 目が、合った。


 思わず見上げた瞳がエレナのそれとかち合う。空っぽだった。機嫌よさげに「アメリカ人」へ語りかけていたコマ送りの一瞬、フレーゲルを捉えた視線は無機質の一言だ。若葉のような翠色がすっと冷めて褪せていく。

 そんなエレナの目は、フレーゲルにとってはこれ以上なく――


「それじゃあ、まずそっから降りてきてもらえないかな。友好の証としてさ、ひとつ握手でも」


 表情に笑みを戻してエレナが手招く。「アメリカ人」はわずか躊躇し、三つほど数えたあたりだろうか、そのこめかみが弾け飛んだ。


 「アメリカ人」が微妙な表情のまま生を終える。彼が奇怪なダンスを踊って倒れこんだ頃には、左右の取り巻きも銃弾を浴びてその後を追っていた。絶え間ない銃弾は砕けたガラス窓の向こうから。壇上の三人を屠ってなお、その雨は鳴り止まない。

 状況理解が追いつかない。真っ先に反応したのはエレナだった。


「っ、フレーゲル!」


 言うが早いか、腰を抱えて突き飛ばされた。スーツケースを手放さないよう必死で握り、まともに受け身も取れないまま背が打ちつけられる。軌道の奥から空気がもれて、その瞬間、大気が膨れ上がるのを感じた。


 爆発。破砕音が残響し、熱を孕んだ風が吹きすさぶ。

 数瞬なのか数秒なのか、その程度の衝撃が無限に続くものにも思えた。耳鳴りがやまない。きつく閉じていた目蓋をこじ開ける。


 初めに見えたのは、炎の色が映りこむ金の髪だった。エレナがフレーゲルに覆い被さるように身を伏せ、ゆっくりと長い睫毛を開いている。そして現れた瞳には、初めて見る苦い色があった。


「――やられた」


 エレナが悔しげにぼやく。身を起こすと、もはや原型を留めていない説教壇が見えた。背後のステンドグラスは半ばまで割れ、周辺の壁を小さな炎が舐めている。段の床はほとんど吹き飛んでいた。焦げ臭さが鼻をつく。

 説教壇を押し上げている段の中。そこに爆弾があって、掃射によって起爆した……そこまで推察できたところで思考が止まる。対してエレナは楽廊の方を見やり、顰めた笑みを浮かべていた。


「Czy to właśnie zrobiłeś?」

「違う……って言っても、聞いてもらえる空気じゃないわな」


 答えはいくつもの銃口だった。


 エレナに首根っこを掴まれ、間近にあった側面の出口に飛びこむ。数える間もなくランゲが続いた。外にまろび出た直後、何重かの銃声が耳をつんざく。

 外にいた警戒役が無言で手招く。弾着でレンガの外壁が震えた。そこに背を預け、エレナが短く命じる。


「ランゲ、隣の司祭館。下手人スナイパー捕まえてこい」

「オーケイです、ボス」


 ランゲが足早に立ち去る。司祭館は教会を挟んだ向こうだ。

 エレナが脇のホルスターから銃を取り出す。流れるような仕草でコッキングし、ようやっと射撃の止んだ入り口の方を見やった。


「各員通達。作戦変更だ。ポーランド人だろうと一人も逃すな、中の全員掃討する」

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