第4話 新天地

 その日は祭りだった。

 自然の恵みに感謝し、また死者を偲び生きる喜びを分かち合う日。


 帝都の至るところに屋台が並び、大通りではパレードが行われた。身分に関係なく、多くの人たちが街を練り歩く。シオンは近所の子どもたちと一緒に屋台を見て回った。収穫された野菜で作られた料理や、手作りのアクセサリーや小物などが売られていた。花街の優しいお姉さまたちに遭遇したときは、お菓子を奢ってもらったりした。


 シオンは仕事で家に残っている母親のために、貯めていたお小遣いでクッキーやマフィンを買って帰った。


 ただいまと家の扉を開けると、中は暗く、ひっそりとしていた。おかしいな、とシオンは買ってきたお菓子をテーブルに置いた。テーブルの上にはティーカップが二つ置かれていて、片方は倒れて中身が床にまで流れてしまっているのが目に入った。


 シオンはテーブルから零れ落ちる紅茶を目で追った。すると、そこには床に倒れている母親の姿があった。


 駆け寄って声をかけるが、返事はない。口元には血を吐いた跡。触れた手はとっくに冷たくなっていた。

 頭の中が真っ白になった。

 開けっ放しになっていた玄関を不審に思った自警団が訊ねてくるまで、シオンは倒れた母親のそばで呆然と立ち尽くしていた。



 〇



「大丈夫か?」


 声をかけられて、シオンはハッとする。馬車の向かいの席に座るリチャードが心配そうに彼女を見ていた。


「大丈夫です。ちょっと緊張してるだけ」


 馬車から貧民街に降り立ったリチャードは正装に身を包み、皇帝としての威厳が溢れていた。父親──というより、皇帝との二度目の面会に、お腹のあたりがソワソワとするシオンであったが、いざ馬車に乗り込むと窓から見える景色が新鮮で楽しいこともあって杞憂で終わった。

 ただ初めて生まれ育った家を離れるということもあり、母との思い出を思い返していたところ、つい嫌なことも思い出してしまった。


「皇宮って広いんですね」


 門を潜ってからある程度経つが、馬車は進み続ける。塀の内側はもう一つ町が存在しているかと思うほどに広大だった。


「政を行う本宮の他にも、皇族が暮らす宮殿や庭園、騎士たちの宿舎や修練場、宮廷魔術師の工房なんかもあるからな」

「まさに、国の中心って感じですね」

「お前にも宮殿を準備しているのだが、今日までに修繕が間に合わなくてな。終わるまでは本宮に用意した部屋で過ごすといい」


 申し訳なさそうに言うリチャードに対して、シオンは目を丸くした。


 ──宮殿って、あそこにあるような大きな建物のことでしょう? そんなものをあたしのために用意してくれてるの?


 シオンは貧民街生まれの、貧民街育ちである。そこは帝都の一部ではあるが、稼ぎが低かったり、ろくに仕事に就けない者が集まる場所である。当然、彼女と母親の暮らしは質素なものだった。呪術師としてある程度の収入はあったが、無駄遣いは決してしなかったし、日用品などは直せなくなるまで使い潰すというのが当たり前だった。

 自分の感覚と、皇族の感覚との違いに、シオンはすでに戦々恐々としてしまった。

 ふと、窓の外に目をやると、細長い建物が見えた。


 ──塔?


 皇宮の敷地内にあるようだ。天気が良いというのに、それは霞んでよく見えない。だが、なぜだかとても心惹かれるものがあった。気を紛らわすためにも、シオンはその塔をじっくりと観察しようとしたが、停車のために馬車が方向を変えたために、塔は見えなくなってしまった。

 馬車が停まり、先に降りたリチャードがシオンに手を差し伸べてくれる。恐る恐る手を取って地面に降り立つと、目の前には煌びやかで、かつ荘厳な宮殿がそびえ立っていた。


 ──すごい。


 その存在感に、シオンは気圧されてしまった。

 宮殿の入り口には騎士や使用人たちが並んでいた。彼らはシオンの姿を確かめるや否や、こうべを垂れた。


「レムリアの太陽と、新たな星に栄光と祝福を」


 その様子を見て、シオンは臆してしまった。こんなにも多くの人たちが自分に向かって頭を下げる姿など、想像もできなかった光景である。

 ごくりと生唾を呑み込んだ。シオンは改めて、自分に与えられた地位の大きさを痛感した。

 すると、添えられていただけのリチャードの手が、優しくシオンの手を包み込んだ。


「恐れることはない。お前は私の娘だ」


 たったそれだけの言葉だが、シオンはなんだか心強さを感じた。彼女は父親というものをよく知らないが、隣にいるだけで張り詰めていた気が解けるようだった。

 シオンはリチャードに連れられて、本宮に足を踏み入れた。

 高い天井に、広い廊下。豪華な装飾に、清潔な環境。思わず口をぽかんと開けっ放しにしてしまいそうなほどだった。

 そのまま用意された部屋に連れていかれると、二人の女性が待機していた。彼女たちは表で会った使用人と同じように、皇族への挨拶をしたあとで自己紹介をした。


「本日より、皇女様にお仕えさせていただきます。ハンナ・アルドナと申します」


 シオンの目から見ても、ハンナはかなりのベテランだった。堂々とした立ち居振る舞いの、しっかりと自立した女性である。仕事ができる人という点では、娼館のやり手女主人と同じ匂いを感じた。


「同じく、シャーリーン・ドルジスタです」


 一方で、シャーリーンはあか抜けない雰囲気の残る侍女で、シオンはマーティに似ていると思った。齢も同じくらいだろうか。皇族の側仕えに慣れていないのか、大変緊張しているようで、シオンは勝手に親近感を覚えた。


「ハンナは侍女長で、皇宮での勤めも長い。判らないことがあったら、彼女に訊くといい」

 あとは任せた、とリチャードが言うと、侍女たちは再び頭を下げた。

「私は少々用がある。夕食のときにまた会おう」

 そうしてリチャードは、部下を従えてどこかへ行ってしまった。


「では、皇女様。こちらへ」


 まだ実感の湧かない呼ばれ方に戸惑いながら、シオンは浴室に連れていかれた。

 花びらが浮かんだ香りの良い湯船につかりながら、隅々まで洗われる。貧民街では滅多に風呂に入ることができない。シオンはたまに仕事先の娼館の浴室を借りることはできたが、ゆっくりと湯船につかるなんてことは初めての経験だった。

 それが終わるとドレスルームに移動した。クローゼットに色とりどりの服や装飾品が収められてるのを見て、いくらするんだろう、とつい考えてしまう。


「あつらえの服ができるまでは、従来品を手直ししたものをお召になってください」


 服を選ぶと同時に、採寸が行われた。事前に用意されているものだけでもかなりの量だというのに、これとは別に特注で作るのか、とシオンはされるがまま目を点にしていた。


「皇女様の髪は、とても綺麗ですね」

 髪を整えながら、シャーリーンが目を輝かせる。


「本当に。瞳は陛下のものですが、それ以外はグラデシア様の若い頃にとてもよく似ています」

「……母のことを知ってるんですか?」

 ハンナの言葉に、シオンが思わず振り返る。その瞬間、結い上げようとしていた髪がシャーリーンの手からこぼれ落ちる。シオンは思わず謝るが、大丈夫ですよ、とシャーリーンは微笑んだ。


「オラシオン様はとても丁寧な言葉をお使いになるのですね。けど、私たちにはそのように話しかける必要はありませんよ」

「ずっとお客さん相手に仕事をしていたから、どうしても目上の人や大人と話すときは敬語になっちゃうんだよね……」

 頬を掻きながら、シオンは言った。

 呪術師として商売をしていたからこそ、礼儀作法や言葉遣いはちゃんとしなければならない。そう母親から教わっていた。さらに身分によって、それが使い分けられているということもシオンは知っていた。


「グラデシア様は熱心にご指導されたようですね」

 ハンナは懐かしむように目を細めた。

「私が新米のころに、幼かった陛下とグラデシア様が皇宮内で一緒に遊んでおられるのを、よくお見掛けしました」

「二人は、子どもの頃からの付き合いだったの?」

「そうです。詳しいことは陛下が直接お話になると思いますが、グラデシア様のお父上は住み込みの宮廷魔術師で、彼女は皇宮内でお生まれになったのです」


 まさか自分の母親が皇宮で生まれ育ったなんて、誰が考えるだろうか。しかも、リチャードとは思っていたよりも深い仲であるらしい。おまけに、シオンの祖父にあたる人物も宮廷魔術師であったことも明らかになった。あまりの情報量の多さに、シオンは言葉を失ってしまった。


「──できましたよ。どうでしょうか?」


シャーリーンの満足げな声がして鏡を見ると、シオンの髪には繊細な編み込みが施されていた。


「シャーリーンは手先が器用なのね」

「ありがとうございます」


 花街のお姉さまたちの遊びに付き合って髪を結ったことはあるが、ここまで精巧なものは見たことがなかった。すっかりお姫様姿になったシオンを、二人の侍女は称賛する。しかし当の本人は、身に着けているドレスや装飾品の豪華さに縮み上がってしまいそうだった。


 リチャードと約束していた夕食の時間になり、シオンはハンナに案内されて食堂へ向かった。


「陛下。オラシオン様がお見えになりました」

 扉が開くと、長いテーブルが目に入った。真っ白なテーブルクロスが敷かれ、中央にはろうそくや花が飾られていた。

 リチャードはすでに席に着いていたが、仕事が終わっていないのか何かの書類に目を通していたが、彼は顔をあげてシオンの姿を確かめた。


「よく似合っている」


 そう言って、リチャードは表情を和らげた。

 シオンは淡いブルーのドレスに身を包んでいた。着慣れない服に身を固くしながらも、リチャードに褒められて顔を赤くした。


「ありがとうございます。……あの、お仕事ですか?」

「少々急ぎの確認があっただけだ」


 そう言って、脇に控えていた執事に書類を押し付けると、席に着いたシオンと向き合った。


「他の家族にもお前のことを紹介したいところだが、皇太子と第三皇子は所用で皇宮を離れている。今度また機会を設けよう」


 リチャードにはシオンの他に、四人の子どもがいる。皇后との間に生まれた皇太子、隣国の同盟国から嫁いできた三人の皇妃たちとの間に二人の皇子と一人の皇女である。

 いきなり四人も兄妹ができることに戸惑いながらも、一人っ子として育ってきたシオンはその存在に憧れを感じていた。


「じゃあ、それまでに礼儀作法を学んでおかないと」

 シオンは目の前に用意されているテーブルセットに目をやる。

「明日、礼儀作法や皇族としての知識を指導する教師を紹介しよう。なに、少し練習すれば、お前ならすぐにできるようになるさ」

 今日は作法など気にするな、とリチャードが言うので、シオンはホッとして少し肩の力を抜いた。


「あの、母は皇宮で生まれ育ったと聞いたんですけど」

 料理が運ばれてきて、シオンは慣れないナイフとフォークで食事をしながら訊いた。

「ハンナから聞いたんだな。──そうだ。グラデシアは私とともに皇宮ここで生まれ育った」

「あの……陛下と母は、その……」


 どういう関係なんですか。

 初めてリチャードに会ったときにも聞いたことだが、そのときは明確な答えを聞かせてもらってはいなかった。

 リチャードは手にしていたフォークとナイフを置くと、そうだなと顎を撫でた。


「私にとって最も傍にいた人物。家族のような、友人のような……そんな間柄だった」


 そう言ってから、リチャードは思わず口元を隠した。

 彼にとっては、ずっと昔から考えていたことであった。だが、いざ人に言って聞かせるとなると、なんだか気恥ずかしかったのである。

 

「そう、ですか……」

「少し難しかったか」


 シオンの返事は曖昧だった。理解を得るのは容易ではないな、とリチャードは思った。


「あ、いえ……」


 シオンは黙考した。

 伊達に十年以上も花街に出入りしていない。お姉さま方の様々な恋愛模様を間近で見てきたこともあり、シオンは複雑な人間関係にはある程度理解があるつもりだった。

 皇帝というのがどういうものなのか、シオンはまだよく判ってはいない。だが、大陸の西側の大部分を占める大国と、周辺の諸外国や同盟国をまとめあげるという立場は、決して楽ではないだろう。そんな彼に寄り添える者は、そうそういないはずである。

 家族として、友人として──母はリチャードに寄り添うことができた数少ない人物だったのではないか。そこには恋や愛だけでは語ることのできない、二人だけのものがあったのではないか。

 そう思うと──


「もっと、二人の話を聞かせてもらえませんか?」


 そう言って、シオンは笑顔を見せた。もっと二人のことが知りたくなった。自分の知らない母親のこと、そして父親のことを。

 リチャードはその屈託ないその笑みに、つい毒気を抜かれた。そして、いいだろう、とわずかに表情を和らげたのだった。


「──ところで、あまり食事が進んでいないようだが」


 リチャードの指摘に、びくりとシオンの肩が上がる。メインの肉料理を前にして、彼女の手は止まっていた。


「えっと……その……」


 気まずそうに視線を泳がすシオン。口に合わなかったか? と訊くと彼女は首を横に振った。


「料理はとてもおいしいんですけど……その、慣れないものばかりで……」



 ……胃もたれしそうです。



 〇



 シオンは寝間着に着替えると、ベッドに寝転んだ。リチャードが使用人に急いで持ってこさせた胃薬のおかげで、腹の調子はだいぶ良くなっていた。


 ──まさか食べられないとは思わなかった。


 身体が受け付けなかったというわけではないが、これまでの食生活とはあまりにかけ離れた内容だったために胃が驚いてしまったようだ。じきに慣れますよ、とハンナやシャーリーンから励まされてしまい、なんだかばつが悪い感じになってしまった。

 明日からは皇族としての教育が始まるというのに、この体たらくで良いのだろうかとシオンは溜め息を吐いた。

 なんだか目が冴えてしまったシオンは、夜風に当たろうと窓を開けてベランダに出た。涼しく緩やかな風が心地よかった。


 ──あ、またあの塔だ。


 本宮からはあまり離れていないようだが、昼間に見かけたときと同じようにその形ははっきりとしない。まるで幻のようだった。


 ──隠そうとしているのかな?


 微かだが、塔のほうから魔力を感じた。ちゃんと認識できないのは、魔術で存在を隠そうとしているからなのだろうとシオンは考えた。


 ──でも、何のために?


 魔術でわざわざ隠そうとしているということは、それだけ大事なものがあるのだろうか。ぼんやりとした塔を眺めながら考えていると、母親が聞かせてくれた寝物語を思い出した。


 ──そうか。あれは魔法使いの塔だ。


 この世界には魔法と魔術が存在している。どちらも神秘に干渉するものではあるが、魔法は自然のものであり、魔術は人の手で作り上げられた技術である。この二つには大きな力の差があり、魔法を扱うことのできる人間はとても数が少ない。

 魔法使いの塔とは、数少ない魔法使いの工房である。それは常に隠されていて、普通の人は目にすることすら適わないという。


 あの塔は、そんな魔法使いの塔のようだった。

 昼間見かけたときに心惹かれたのはそういうことか、とシオンは納得した。しかし、本当にそうだとしたら、あそこには魔法使いがいることになる。


 ──魔法使いは何物にも縛られない、自由な存在だったはず。


 シオンは母が語ってくれた話を思い出そうとする。


 ──すごく眠くなってきた。


 急に瞼が重たくなって、欠伸が出る。

 シオンはもう少し塔を眺めていたかったが、とうとう眠気には勝てなかった。部屋に戻って、ベッドに入る。布団と枕はとてもふかふかで、今まで寝ていたぺしゃんこの毛布とは比べ物にならない寝心地だった。




2023/03/24 …二つに分かれていたのを一話にまとめて、加筆修正しました。

2023/05/10…誤字修正、タイトル変更

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