第5話 彼女の名前
転んで顔を上げた先にいたのは、先日、ネットカフェで出会った、白髪の少女だった。
――私は、何を期待していたのだろう。
「ごめんなさい。期待してる人じゃなくて」
内心が一瞬で見抜かれ、思いがけず、動揺が表に出てしまう。
「い、いえ。ありがとうございます」
「慌てなくていいから」
その言葉に従い、ゆっくり立ち上がると、ビニール傘を持っているようにと手渡される。少女は私の全身を見回して、
「頭、打ってない?」
とか、
「膝は痛くない?」
とか、
「腕は?」
とか。
慣れた様子で質問しながら、パキッと、ペットボトルを開け、水で傷口を洗ってくれる。そして、小さな彼女の、その背中より大きな鞄から、ラップを取り出し、適当に切ると、傷口に貼りつけた。
「他に痛いところはある?」
「大丈夫です、ありがとうございます」
「そう。すっごく上手な転び方ね。あれだけの速度で走りながらここまで上手に転べるなんて、ある意味、尊敬するわ」
「ふふっ」
笑った私の顔を見て、少女は柔らかい笑みを浮かべた。その優しい瞳がくすぐったくて、目をそらす。
「このままだと、風邪を引くわね。――もし嫌じゃなければ、うちに来ない?」
うち、とは、この子の家のことだろうか。上がるとなると、ご家族にも迷惑をおかけすることになる。いや、そもそも、小学生がこんな夜遅くに一人で出歩いているのは心配だ。私と同じ、家出――ではなさそうだが。
「ここから近いんですか?」
「近い……まあ、そうと言えなくもないわね」
簡単な質問に悩む素振りを見せる少女に、少しだけ警戒心が芽生える。
「でも、先ほどお会いしたのは、城の近くでしたよね? あそこからは、かなり、離れていると思いますが」
「あ、疑ってるわね? さっき、意味深なこと言ってたし、こいつ、まさかつけてきたんじゃ、とか思ってるでしょ!」
まさに図星、という顔になったのが、自分でも、はっきりと分かった。
そんな私の顔を見て少女は、「偶然よ、本当に偶然」と笑った後、「あたしの方が、電車みたいな速度で走ってるあんた見つけて驚いたわよ」と続けた。
「心配だったら、近くの宿泊施設まで送っていくけれど、お金とか、大丈夫?」
むしろ、私としては、少女の方が心配なのだが――いや、そうも言っていられないかもしれない。
「……今、お金、持ってないです」
お風呂に入ってそのまま来たため、よく考えたら、財布はおろか、スマホすら持っていない。本来なら、早急に帰るべき状況だ。
――だが、今は、帰りたくない。
「うちが嫌なら、お金貸すわよ? 利子はつくけど」
家にはお金などいくらでもあるが、私のお小遣いは、月に一、ニ回、外食ができる程度。おそらく、一泊できるかどうかだろうから、利子がつくとなると、あとが怖い。
「……いくらですか?」
恐る恐る尋ねると、少女は、吹き出した。
「あははっ、冗談よ、冗談。好きな方を選びなさい。まあ、あたしだったら、こんな怪しいおばさん、絶対に信用しないわね」
「おばさん?」
鞄が歩いているみたいな、こんな小さな少女が、一体、何を言っているのだろうと、いぶかしんでいると、
「あたしのこと、いくつだと思ってる?」
と、直球で尋ねられた。これは、なんと答えてよいものか。
「正直に言ってくれていいわよ」
「……十歳、くらい?」
「はっ倒すわよ」
「正直でいいって言ったくせに!」
もの悲しそうにため息をつきながら、少女の見た目をしたその人は、懐から免許証を取り出し、私に見せてくる。
「生年月日、見てみなさい。声に出すんじゃないわよ」
車の免許は確か、十八から取得できたはずだという知識を掘り返して、言われた通り、確認する。今が二一〇二年ということは――ステアよりは歳下だ。だが、想像より、遥かに歳上だった。
「え、あの、これ、本物ですか?」
「本物よ、
免許証の見分けなどつくはずもないが、恐らく、本物だ。しかし、身長も低ければ、顔立ちも幼く、なんというか、ランドセルが似合いそうなイメージなのだ。また傷つけてしまいそうなので、言わないが。
「それで、どうする?」
何はともあれ、今は、目の前の人物が誰であるかということよりも、家に帰りたくないことの方が、よほど、重要だった。
「……お世話になって、いいですか?」
「ええ、いいわよ。寝心地は悪いけれど、意外と気に入るかもしれないし。――あ」
何かを思い出したように声を出した彼女は、私に免許証を預けたまま告げる。
「あたしは、マナ・クレイア。クレイアさんでいいわよ」
クレイア、さんね。
「私は――
「じゃあ、アイネって呼ぶわね」
またしても警戒を強めた私は、姓は名乗らなかった。
――連れていかれたのは、人気のない空き地だった。一瞬、
「アイネも手伝いなさい」
「何をですか?」
「設置」
彼女は大きな鞄を草地の上に降ろすと、中から、折り重なった黄色い布や、鉄でできた棒などを取り出した。
「あたし、わけあって、テントで暮らしてるの。しばらくはこの辺りをぐるぐるするつもり」
「なるほど、それで」
そりゃ、家ごと持ち歩いているのだから、近い、という表現にもなる。歯切れが悪かったのもそのせいか。
そんなことを考えつつ、テントを組み立てていく。想像よりも遥かに、時間と手間がかかるようだ。
「これ、いつも一人で設置してるんですか?」
「慣れればたいしたことないわ」
と言いつつも、背が届かないようで、布を上にかけようと、ぴょんぴょん跳ねたり。力が足りないようで、真っ赤な顔で、必死に棒を引っ張ったりしていた。とりあえず手伝って、完成させた。
「お疲れ様」
「はい……」
「適当に寝てていいわよ」
思いの外、疲れを感じ、早く休みたいという欲望のまま、急ぎ気味にテントに入ろうとすると、
「あ、靴は脱いで。お城とは違うから」
と、注意を受けて、靴を脱ぎそろえる。城では寝るとき以外、大半、靴のままだ。とはいえ、今のは癖というよりも、ただ
解放された足先を伸ばして、テントの居心地を確かめていると、クレイアに入ってくる意思がなさそうなのに気がつく。
「どこかに出かけるんですか?」
「出かけるってほどじゃないわ。この辺で雑草を
「ボランティアですか?」
「いいえ。お金になるから」
抜いた草がお金になるなんて話は聞いたことがないが。
「鍵かけておくから、勝手に出ちゃダメよ。トイレに行きたくなったら、大声で呼んで。タイミングによっては、ちょっと、遠出してるかもしれないけど」
「フラグっぽい発言ですね……」
「あんたが出なければ何も起こらないわよ。寝袋もなくて悪いけど、先に寝てていいから」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
寝心地だけで言えば、かなり悪そうな印象だったが、横になると、私はすぐ、眠りに落ちた。
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