第50話

「きゃっ」


翌朝、日も登り切らない内からリディアを叩き起こし、ディオンは出掛けた。今日は馬車を使わず馬に跨り、リディアを自分の前に乗せる。護衛もいない。二人だけだ。


「大人しくしてろよ。落とすよ」


落ちるよ、ではなく敢えて意図的に落とすと伝えると予想通り妹は苛ついた様に声を上げる。


「何でよ!」


静寂に包まれる森の中を、速度を落とし馬を歩かせる。朝焼けに照らされた木々や草花が神秘的に見えた。涼やかな風が二人の頬や髪を撫でる。まるで、世界に二人だけしかいない様な錯覚を覚えた。


「ねぇ、何処行くの?」


「さあ?……何処へ行こうか」


「何よ、それ」


たまに、思う。何もかも捨ててリディアと二人何処か遠くへ行って静かに暮らせたらどんなに幸せなのだろうかと。今の権力や地位はリディアの為に積み上げた筈なのに、矛盾しているとは分かっている。だが……。


「今日はさ、二人で遊ぼうよ」









◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



森を抜けると、ディオンは手綱を打つ。急に加速する馬にリディアは驚きディオンにしがみ付いた。


実はリディアは馬に乗るのは初めてだ。いくらお転婆で剣を振り回した事があっても、流石に乗馬する機会はなかった。


慣れない感覚に暫くは怖さを感じていたが、少し慣れて来たかも知れないと薄目を開け視線を上げる。ディオンの胸にしがみ付いていたリディアの目に映ったのは、何時になく真剣な面持ちの兄だった。


「……」


手綱を力強く握り馬を操る姿は、まるで物語に登場する騎士の様で絵になる。

いや、実際騎士であり団長まで務めているのだが。普段のディオンの様子からは、想像がつかない。



こんなディオンは、知らない。


綺麗だと、思った。ずっと眺めていたいと思う程に、目が逸らす事が出来ない。


「どうしたの。お兄様が格好良くて、惚れ直しちゃった?」


視線に気付いたディオンは、前を見据えながら意地悪そうに笑った。


「なっ、そんな訳ないでしょう⁉︎そもそも、惚れ直すって……莫迦じゃない⁉︎きゃっ」


顔を真っ赤にしながら風を切る音に負けないくらいそう叫ぶと、急にディオンが馬の手綱を引いた。馬は声を上げて急停止した。リディアは驚き目を瞑り小さく悲鳴を上げる。


「いきなり何、なの、よ……⁉︎」


文句を言いながら見上げると、思ったよりも近くに兄の顔がありリディアは息を呑んだ。黙り込み、瞬きすら忘れた様にじっとこちらを凝視するディオン。瞬間時間が止まった気がした……そしてゆっくりと動き出し、顔が近付いて……。


コツンッと、額と額が触れた。


リディアは驚き過ぎて、口はだらし無く半開きになってしまっていた。だがやはり、それでも視線は逸らせなくて、身体も微動だにしない。風が強く吹いているのに、不思議と音が聞こえない。世界に二人だけしかいないのではないかと錯覚を覚える。




貴方しか見えない。




「口付け……されるかと、思った?」


二人しかいない草原なのに、ディオンは内緒話でもするかの様に囁く。



「莫迦、じゃないっ……」


必死に絞り出した声は酷く掠れていた。


妖艶に笑みを浮かべるディオンの言葉に、我に返ったリディアは恥ずかしさに耐えられず顔を兄の胸元に埋めた。こんな顔見せられない。


そんなリディアの髪を、ディオンは何も言わず優しい手つきで撫でていた。







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