#08 ~ どうか聞こえないで
「お久しぶりです、伯爵」
駐屯地での訓練を終え、夕食のカレーを食べた後、ホテルに戻った俺たちを待っていたのは一台の
グレイグさん――伯爵家の老執事だ――の手によって運んでこられた俺は、随分と立派なお屋敷に連れてこられたかと思うと、湯浴みと着替えを強制され、今に至る。
……なんだか初めて古都に来た時を思い出す流れだ。
「おお、ユキト君。うん、やはりよく似合っているね」
「ワウッ」
着せられた服は、タキシードかと思いきや黒い軍服だった。しかも髪型までピッシリと整えられている。
いつの間にやら伯爵の傍で寝転がっていたクロが、俺を見て少し吠えた。それは褒めているのか?
かくいう伯爵は、真っ白な軍服だった。その胸にはいくつもの勲章が光って見える。
「さて、そろそろ――おっと、来たようだ」
ちょうどというタイミングでノックされたドアに、伯爵が「入れ」というと、ドアが開かれた。
そこに立っていたのは――ドレスを着たイリアさんだった。
蒼を基調とした、シンプルながらも美しいドレス。金の髪は結い上げられ、美しく白いうなじが覗く。
まるで、一枚の絵画のように完成された美しさに、声を失った。
目線が合う。するとその白い頬に、すっと朱が差した。
「ワウッ」
背後からクロの声がする。
ちらりと見ると、クロの横で、伯爵がすごい笑顔で俺を見ていた。しかもただの笑顔ではない。背後に龍か虎か背負っていそうな迫力を感じる。
「ユキトくん?」
言うべきことがあるだろう、というプレッシャーに押され、思わずごくりと唾を呑んだ。
「あっ、あー……」
いや分かっている。分かってるんだけど、こういう言葉は簡単に出てこない。誰が童貞だうるせぇ。咳ばらいと深呼吸をひとつ。
「その、すごく似合ってる。綺麗だ」
「あっ……ありがとう、ございます……」
意を決して褒めると、イリアさんは耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
あれ、まずかったかな、と伯爵に目線を向けると、なぜかうんうんと頷いていた。
「我が娘ながら実に美しい。なぁユキト君?」
「え、はい、すごく」
「おお良かった! では、娘のエスコートはよろしく頼む」
「は?」
どういうことだと伯爵を見ると、彼はにこりと微笑んだ。
◆ ◇ ◆
「そういうことか……」
揺れながら進む馬車の中。額に指をあてる先生に、私は思わず目線を伏せた。
今回のパーティ。『先生を紹介する』という目的は嘘ではないが、本当でもない。
社交界は苦手だ。私の
よくわからずに受けたそのダンス。どう誤解させたのか、その殿方は婚約までも申し込んだらしく――後始末にはひどく苦労させられ、父に迷惑をかけた。
あれ以来、社交界に一度も参加してこなかった。
あの時の私には、騎士になるという目的があったのもそうだ。それ以外のことに目を向けたくなかった。今も、ダンスを踊るより剣を握っていたほうがいいと思う。
でも――『ユキト君に相手を頼んでは』という父の言葉に、気がつけば、私は頷いてしまっていた。
頷いてから、自分の愚かさに気づいた。
こんなこと、あの人に頼めるわけがないと。
だから咄嗟に――嘘をついてしまった。ダニエル先生の言葉に思わず乗って……いいえ、これは言い訳ね。
ただ思ってしまったのだ。
もし断られたら?
あの人に、嫌そうな顔をされたら?
それを思い浮かべるたびに、胸が締め付けられる。
そして今。私は、先生を騙して……こんな卑怯なことをしている。
悔やんでももう遅い。馬車は止まったりしない。
なんて謝ればいいのか。そればかり考えていた私の頭に、ふと、重みが加わった。
先生の手が、ぽん、と、私の頭に乗せられて。
「そんな顔をしなくていい」
「え……」
「困ってたんだろう? なら素直にそう言えばいい」
「で、でも……私は、先生を騙して」
「女は男を騙すぐらいでちょうどいいのさ――って、これは受け売りだけど」
――ひどい受け売りだ。
この人はこういうところがある。時折、よくわからないことを言い出しては、遠くを見つめる目をするのだ。
そう。ここではないどこか。もう決して戻らない何かを、思い出すような。
おかしな話だ。彼の思い出話に、そんな光景はないのに。
「なあイリアさん。俺はずっと、この世界で生きているって実感がなかった」
「実感……ですか?」
「ああ。山での暮らしじゃ人と会うこともなかったし、この世界がどんな世界かも俺はよく知らなかった」
――最初に出会った時、浮世離れした人だと思った。
その印象は今でもそう変わっていない。
誰でも知っていることを知らないわりに、よくわからないことを知っていたりする。
「でも、イリアさんに出会って……シルトさんやグラフィオスさん、伯爵、それに生徒たちと出会って、この世界は生きているんだと知った」
ふと彼が、窓の外に目線を向けた。
帝都の夜は明るい。
煌々と光が灯り、人の姿で溢れていた。あれは仕事帰りだろうか。酒を飲み交わす人々の姿もある。
帝都の夜は終わらない――その言葉の通り。
「みんな、一人一人が、何かを想いながら生きている。それはきっと希望だったり、祈りだったり……何の変哲もない日常だったりもするんだろう」
それはきっと、あの灯りのひとつひとつに。
人の数だけ想いがあり、願いがある。私たちと同じように。
「それを最初に教えてくれたのは君なんだ。思うんだよ、俺は。――最初に出会ったのが、君でよかったって」
彼のその言葉に……言葉が紡げずに、ただぎゅっと胸を掴む。
私は――この人にどれほど救われたのだろう。
無駄じゃなかったって、言ってくれた。
兄の剣が生きてるって、教えてくれた。
私はこの人に、何も返せていないのに。
出会えたことが、奇跡だというのなら。
それはわたしの方が、よっぽど――。
「だから、イリアさんが困ってるなら助けたい。素直に言ってくれていいんだ。恩返しでも、生徒と教師だからでもない。一人の人間として、君の力になりたい」
といっても、と彼は頬を掻いて。
「正直パーティのエスコートに、自信はないけどな」
いつもと同じ、その笑顔に。
ああ、どうして。
どうしてこんなに……胸が苦しくなるんだろう。
医者に言っても匙を投げられた。
父様にも、「それはどうしようもない」と苦笑された。
分からない。この胸の痛みが何なのか。
苦しくて、張り裂けそうで、どうしようもないのに。
どうして。
こんなにも……この人の傍にいたいと思ってしまうのだろう。
この笑顔を向けられるたびに、手を伸ばしたいと思うのだろう。
ただ、この胸の鼓動が。
今にも飛び出して破裂しそうなほどに鳴る心臓の音が。
――どうか聞こえないで。あなただけには。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます