◆EX2 ~ 霧雨の帝都で

 ――帝都、アレクハイム。

 帝国の首都にして、人口三百万人を抱える北大陸最大の大都市メガシティ


 この日、帝都は季節外れの霧雨に覆われていた。

 冬の夜、帝都に霧が出るのは有名な話であるが、この日のそれは、夏の終わりにしてはひどく冷たく、そして深かった。


 季節外れの霧雨煙る、帝都の夜。

 アマジナ区――貴族の邸宅も数多く並ぶ高級住宅街の一角。


 その中でも一際大きな豪邸で、ある男は意外な客人を迎えていた。


「……久しぶりだな、ジン――いや、剣聖と言ったほうがいいか?」


 ジン・ライドウ。

 雨避けのフードを間近に被ったその老人は、「好きに呼べ」とばかりに黙して、彼に目を向けた。

 その目線を向けられた男は、呆れたように肩を竦める。相変わらずだな、と。


「まあいい。上がっていけ。君に閉ざす門戸は、私にはない」 


「……ああ」


 そう言って、彼は執事に客間の準備を指示し、ジンを家に上げる。

 フードを脱ぎ去ったジンは……老いているにも関わらず、かつてとまるで変わっていないように見えた。それはきっと、彼の瞳に宿る光の強さがそう見せているのかもしれない。


「お前は老いたな、ゼス」


「それが、自然な時の流れというものだ、ジン」


 客間に通され、椅子に座って開口一番そう言ったジンに、ゼスは小さく首を振る。

 執事が運んできたワインに、ジンが僅かに顔を顰めるのを見て、彼は小さく笑った。


「相変わらず下戸なのか、君は。ああ、檸檬水でも頼む」


「はっ」


 一礼して出て行く執事を見送って、彼は改めて、ジンへと視線を向けた。


「君が帝都に来ることは報告を受けていた。しかし、なぜ手紙の一つも寄越さない? 私はいい。だが陛下が寂しがっていらっしゃる。口には出さずともな」


「……本来。儂とて、もう都に降りるつもりなどなかった」


 その言葉に、ゼスはすっと目を細める。

 それは――きっとそうなのだろうと、気づいてはいたことだ。

 『剣聖』はきっと、二度と表に姿を現すことはないと。


 この二十年、彼の名はとんと聞こえてはこなかった。

 だから、分かっていたのだ。

 彼はきっと、終の棲家を見つけたのだと――誰にも知られることなく、きっと『伝説』のままこの世を去るに違いないと。


 出会った時からそうだ。まるで風のような男だった。

 どこへともなく現れ、多くを救い、多くを斬り、多くの伝説を残した。

 だがその一方で、目を離せばふっと消えてしまいそうな……。


「貴方の為ならば、陛下はあらゆるポストをご用意するだろうが」


「老兵はただ去り行くのみ。それに、この国にはお前がいる」


 ジンの目線が、ゼスに向いた。


 メルゼス・ロヴェール――別名、『黒の宰相』。

 帝国における財政改革、技術発展を推し進め、未曽有の好景気を招いた張本人。

 貴族議会に庶民院を設立するなど、大貴族でありながら庶民派として知られ、民衆の支持も篤い。帝国始まって以来の大宰相とも称される、皇帝の懐刀。


「私など、先代陛下の敷いたレールの上を歩いているのみに過ぎんよ」


 かつて仕えた先代陛下の命を、ただ忠実に守ること。

 それこそが彼に残された最重要命題。あるいは、今上陛下の命に反してでも。


「あの時、まるで小雀のように泣いていた小僧が、随分立派になったものだ」


「……その話は、さすがにそろそろ止めにしてほしいものだ」


 昔話は歓迎するところだが、と、ゼスは渋面を作る。


 その時になって、ようやく檸檬水が部屋に運ばれ、氷と共に満たされたグラスにジンに差し出される。

 彼が喉を潤し、執事が退出していくのを待ってから、ゼスは再び口を開いた。


「それで……もう降りてくるつもりがなかったのなら、どうして帝都に?」


「見届けたいものがある」


 見届けたいもの? とゼスが首を傾げると、彼は椅子の横に立てかけた刀に目線を向けた。


「武芸大会だ」


 武芸大会、と言われて、「ああ」と頷いた。

 双月祭の間に行われるメインイベント。帝都戦技大会。武芸大会というのはその古い呼び名だ。


「その観戦にか? 君が?」


「その場に、儂の弟子が出る。恐らくは」


「……弟子だと?」


 剣聖に弟子はいない――それはよく知られる話だ。だが正確には……そうではないことを彼は知っている。

 だがまさか、と、顔を驚きに染めるゼスに、しかしジンは首を横に振った。


「そうではない。儂が山で見つけた孤児みなしごだ」


「山で……?」


 曰く、今の年齢は十代後半。

 そう聞いて、浮かしかけた腰をほっとした表情で椅子に下ろす。

 しかし、ということは……本当の意味での彼の『弟子』ということになる。


「しかし、まだ十代か。お前が修行をつけるということは……将来はさぞ有望なのだろうな」


 その言葉に――ジンは、ただ、唇を歪ませた。

 くつくつとした笑みが、その唇の間から漏れる。

 その笑みは、まるで獣のような……彼が獲物を見つけた時に漏れるものだった。


「あやつは、まぎれもない天才だ」


「天才……?」


 才、などという言葉が、この老人から漏れるとは思わず、呆然とその言葉を繰り返した。

 それこそ、この老人――『剣聖』は天才などという括りには収まらない。才能などというものが本当にこの世界にあるとしたら、この男はその祝福を全身に浴びているに違いない。

 しかし、彼の在りようは『才能』などという言葉で片づけられるものでないことを、ゼスはよく知っていた。


 ……だが。


「剣という意味では。奴は、もはや儂と同じ高みに辿り着こうとしている」


「何だと……?」


「あとたった一歩。その一歩さえあれば、あやつは完成する」


 思わず、驚愕に顔を染める。


 剣聖と同等? 十代の若者が?

 それは――あまりに異様なことのように思えた。


 彼の言う一歩が、どういったものかは分からない。

 ただ――


(新たなる『剣聖』の誕生、か)


 それは、この国に、そして大陸に、どのような時代を招くのだろう。


 魔導工学技術の発展と共に訪れた文明開化。

 時代は変わった。庶民の暮らしも、そして国の在り方も。


 ジンの弟子。新たなる『剣聖』。

 それはやがて来る嵐の時代の到来を、ゼスに予感させた。


(陛下にご報告せねば、な)

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