※※
「それで? 何か収穫はあったのか?」
開門鐘鼓が鳴ってしばらく。朝早い時間帯に書庫室を訪れる人間はほとんどいない。
それをいいことに、呈舜達は普段蔵書閲覧用に使っている円卓で朝食を広げていた。と言っても、もっぱら朝食を食べているのは呈舜だけなのだが。
「あんたのことだ。片付いてない通常業務を真面目にこなしてたわけじゃなくて、
甜珪が呈舜のために
「それは僕を信用していないのか、むしろ逆に信用してくれているのか、どっちなんだい?
「どちらでもある」
スパンッと切り捨てる甜珪の手には、饅頭ではなく茶器が握られていた。同じく円卓を囲んだ雷牙の手にあるのも、お茶が淹れられた茶器である。
──この饅頭、本当に僕のためだけに用意してきてくれたんだ……
甜珪お手製の饅頭は、どれも優しい味がした。素材の味を活かした素朴な味わいは、徹夜と空腹にやられていた体を優しく満たしてくれる。肉系、海鮮系、甘味系とよりどりみどりな饅頭を作るために、甜珪はどれほどの時間と手間をかけてくれたのだろうか。
──なるほどね。これは胡吊祇内史令や
以前の事件で玲鈴の父が協力してくれた際、礼に悩む甜珪に対して玲鈴は『甜珪がおやつを作ってくれたら喜ぶと思う』というようなことを言っていた。その時は『未榻君ってお菓子まで作れるの!?』という部分に驚愕した呈舜だが、今ならば別の観点からあの言葉に納得ができる。
胡吊祇親子はきっと、料理の純粋なデキだけで甜珪の手料理を気に入っているわけではないのだろう。いや、味も気に入っているのかもしれないが、恐らく一番嬉しいのは『多忙を極める甜珪が、真摯に自分達のことを思いながら、わざわざ手間と時間をかけてまで、ここまで心のこもった手料理を振る舞ってくれる』という部分にあるはずだ。
──何せあの未榻君が、僕達のことを真剣に考えて作ってくれてるって、食べるとものすごく分かるから。
仮に皇帝から『料理を作って献上せよ』と命じられようとも、己が納得できる理由がそこになければあっさり拒否して仕事に戻るのが未榻甜珪という人間だ。胡吊祇家の面々が相手であっても、その部分は変わらないだろう。甜珪がいつも誰かに何かをする時は、甜珪自身の『そうしたい』という意思が根底にある。
──まぁ、皇帝から手料理を所望されるなんて、どんな状況になったらそうなるのかも分からないけども。
「じゃあ、そんな未榻君からの信頼……いや、信頼のなさ? を受けまして」
そんな甜珪が、少なからず自分に手料理を振る舞ってまで、さり気なく
「
呈舜は手にしていたみっつ目の饅頭をしっかり腹に収めてから席を立ち、己の卓に歩み寄った。いつになく書と書類で埋もれた卓の上はゴチャゴチャと込み入っているが、目的の物はすぐに目に付く場所に置かれている。
「結論から言うと、あの怪文書の筆跡から個人を特定するのは難しそうなんだ」
二枚の紙と複数の書を抱えて円卓に戻った呈舜は、呈舜が席を外している間に片付けられていた空間に、まずは二枚の紙を滑らせた。一枚は昨日雷牙から預かった怪文書、もう一枚はもっと大きな紙に呈舜が怪文書の内容を書き写し、諸々の書き込みを行った物だ。
「いくつかの文字に、有名な書と似通った癖があったんだけどね。その癖が、どれも見事にバラバラなんだ」
己が書き上げた書類へトン、と指先を置くと、甜珪と雷牙は揃って呈舜の手元を
「楷書で統一はされているんだけども。この冒頭の『菊梅』の字は、全体的に丸みを帯びているだろう? これは
文字の上から指を引いた呈舜は、小脇に抱えていた巻物の一本を開く。シュルシュルと広げて書類の隣に並べると、二人の視線は素直にそちらへ動いた。
「これは園櫂先生の原本を、僕が臨書させてもらった物なんだけどね。……ほら、ここ」
「……確かに、似てるな」
呈舜の指先が次に置かれた場所には、『梅香薫風 菊花揺月』という一文が記されている。
呈舜が手元に保管していたこの書は、園櫂巳燃の直筆ではない。だがこれは時の皇帝の命によって献上された園櫂巳燃直筆の『華園』を、『
「で、次はこっち」
呈舜は巻物を広げたまま、今度は書類の『龍』の字に指を置いた。『龍』の字は文中に二回登場しているが、その二文字ともに朱墨で印がつけられている。
「この二字、書き写してみたんだけど、どっちも同じ文字から型取りがされてる。で、この『龍』の字の書き手は、恐らく
続けて呈舜は小脇に抱えていた書の中から冊子を引き抜いた。呈舜が個人所有している冊子は、呈舜自身が何度も繰り返し繰り返し手繰ったせいでクタクタによれている。
その中から該当箇所を見つけ出した呈舜は、書類の隣に冊子を並べた。
「多分、この字から型取りをしたと思うんだ。この緊張感、字幅と高さの均衡、この塩梅は張義淵先生にしか書き出せないもので……」
「ちょっと待て」
そのままツラツラと説明を続けていると、わずかに苦みを含んだ甜珪の声が呈舜を制した。呈舜が『ん?』と甜珪を見やれば、甜珪は声音以上の苦さを含んだ顔で呈舜を見上げている。
「拓本」
「ん?」
「持ってんじゃねぇか、『緋仙亭献文碑』の拓本」
「……んっ!?」
確かに、今呈舜が提示したのは、『緋仙亭献文碑』の拓本……しかも碑が建てられてすぐの頃に取られた、ほぼ完璧な拓本である。
昨日、呈舜は甜珪に散々『緋仙亭献文碑』が何であるか、いかに貴重な物であるか、自分がどれだけ拓本を採取したいかを熱く語った。
辛辣な割に情に厚い甜珪のことだ。この苦み走った表情から察するに、業務と事件解決の合間を縫って拓本採取に付き合ってくれる算段をすでに立てていたのかもしれない。
『もう持ってんなら必要ねぇだろ』と呆れているのか、あるいは『もう持ってるくせにまだ欲しいのか?』と書馬鹿具合に引いているのかまでは分からないが、甜珪から向けられる視線が冷たいことだけは分かる。
「こ、この拓本はね未榻君!! 当時知り合いの知り合いに譲ってもらったものでねっ!? 自分で拓本を取るのと、拓本として完成された物を人から譲ってもらうのとではまた色々勝手が違うっていうか……っ!」
「……ほーぉ?」
『不必要な手間に俺を駆り出すつもりだったのか?』と言わんばかりの圧が込められた相槌に、呈舜は思わず『ピェッ!!』と背筋を震わせた。
だが常ならば絶体絶命な場面に、今日は救いの手が差し伸べられる。
「まぁまぁ未榻、今はそこに突っ込んでると 話が進まねぇから」
間に割って入った雷牙は、完全に『呆れ』だと分かる表情を浮かべていた。その呆れが呈舜に向けられているのか、はたまた甜珪の方に向けられているのかは分からないが、呈舜の命と精神が助けられたことだけは確かだ。
「んん! ……とにかくそんな風に、この怪文書のこれだけ短い文字数の中に、分かっただけでも五人の有名書家の字が混ざっているんだ」
咳払いをして威儀を正した呈舜は、抱えていた書を次々と広げて根拠を示す。そんな呈舜の手元と書類を見比べた二人は、納得と疑問がないまぜになった表情を浮かべた。
「一体、何のために、わざわざこんな面倒なことを……」
「単純に考えるなら、筆跡から書き手を割り出されたくなかったってところじゃないかな?」
雷牙の呟きに呈舜は己も考えた結論を口にした。そんな呈舜に甜珪も頷く。
「わざわざ複数人の文字を使ったのは、有名どころから似せたい文字を選び出したらたまたまそうなったってことか?」
「その可能性が高いとは思ってる」
『自分はこれだけ多才な字形を操ることができるのだぞ』という自己顕示欲の表れと解釈することもできそうだが、それよりは単純に『手本を統一できなかったから』と考えた方が筋が通るような気がする。
「直筆じゃなくて刷りにしてるのも、もしかしたら肉筆から書き手を割り出されないようにするためなのかもしれない。量産が主目的で刷りを選んだんだろうけども、副次的な効果も最初から狙ってたのかもしれないね」
「
呈舜が一通り見解を述べると、雷牙がヒラリと片手を挙げた。それに呈舜と甜珪が視線で答えれば、雷牙はコテリと首を傾げる。
「『書き手を特定されないように有名書画の字を真似た』って話になってますけど、身元を隠すために本当にそこまでします? そこまであっさり手跡から身元って割れちゃうもんなんすか?」
「まぁ、分かる人間が比較資料を手に見比べれば、同一人物の手跡かどうかはわりと分かるよ」
雷牙の質問に呈舜はそっと苦笑を浮かべた。
──そうか、
呈舜は『書馬鹿』で、甜珪は『着任半年で宮廷書庫室の意義を変えた』と言われるほどの有能官吏だ。書に埋もれるようにして日々を過ごしている自分達からしてみたら感覚的に分かる話でも、違う世界を生きる雷牙には分かりづらい感覚だったのだろう。
「現にやってのけただろ、この人」
呈舜の答えを受けても『えー?』という内心を隠さない雷牙に対し、甜珪は言葉少なく実例を示した。だがそんな甜珪に対しても雷牙は首を傾げ続ける。
「でもそれって、有名書家の有名な書だったからだろ?」
『現に呈舜は、似せて書かれた文字を見ただけで、その文字の手本が何であるかを見つけてきた。同じ要領で他の書も書き手の判別はできる』という説明を短い言葉から的確に読み取った雷牙は、『でもそれは有名人の手跡だからできたことであって、その辺の一般人の手跡にまで適用はできないだろ?』という反論を口にする。
確かに雷牙の発言もごもっともだ。普通に考えればそこまでの判別がただの人間にできるはずがない。
そう、呈舜が『宮廷書庫室書庫長』でも『書馬鹿』でもなければ。
「雷牙、お前、退魔符を見れば、ある程度書き手が誰なのか推測できるだろ?」
『しかしこの感覚をどうやって五剣君に説明すれば良いものか』と呈舜が頭を悩ませていると、再び甜珪が口を開いた。呈舜では分からない範囲の話題に思わず目を
「おー! それなら分かるぜ! ……と言っても、符を使ってるトコを見たことがある退魔省の関係者と、祓魔寮の同期くらいしか分かんねぇと思うけども」
「その感覚と同じだ。で、この書馬鹿の『分かる範囲』の中には、ここに流れてくる書類の書き手、ほぼ全員が入る」
もっとも、『ああ、あの部署のあの書類を書いた人と同じ手跡だね』という程度の判別で、完全に書き手の名前と顔が分かるような認識の仕方ではないのだが。それでも十分『分かる』と言ってもいいものだと呈舜は考えている。
「実はそういう判別が得意な人は、書記部にも集まりやすくてね」
『はへー』という納得を顔に広げ始めた雷牙に対し、呈舜は補足情報を付け足した。
「王宮には、少なからずそういう判定ができる専門家がいるんだ。だから、そのことを知っている人間は、対策を講じてくるんじゃないかと思うよ」
書記部には
呈舜も元々の所属は書記部だ。身を引いたのはもう何十年も前のことだが、呈舜が知っている時代から書記部の体質が変わることはそうそうないだろう。
──『退魔省はこの怪文書の存在を重く見ている』って五剣君は言ってた。
事は皇帝家の行く末……引いては国家の存亡に繋がるのではと目されている以上、退魔省から皇帝筋へしかるべき報告が上げられているはずだ。そして『書』に関わることであれば、必ず当代の筆頭書記官が御前に召喚される。
筆頭書記官の座に登り詰める者は、程度に差はあれども必ず
しかしそんな『裏事情』は、関係者にしか分からないはずだ。呈舜だってかつて筆頭書記官の座にいたことがあるから分かるだけであって、ただの『書馬鹿』にそこまでの事情は分からない。
つまり、だ。
「今回の一件の裏には、書記部の内情とか、書記部と皇帝の関係性とか、その辺りのことをよく知ってる関係者が噛んでると思うんだよね」
「書記部の関係者がこれを作ったなら、『仲間内によく知られているであろう己の手癖を隠すためにここまでの手間をかけた』っていう理由にも筋が通るしな」
「書記部の人間が関わっている可能性、実は結構高いんじゃないかと思うんだよね。この怪文書の版木になったであろう臨書も、一文字一文字のデキがすごく良くて……」
「え? 書記部?」
呈舜の推測に甜珪も同意を示す。それにさらに頷いた呈舜が再び文字についての考察をダダ漏れさせようとした瞬間、横から気が抜けた声が上がった。
「え? 幽鬼がこの怪文書を残してってるって話じゃねぇの? だから退魔省が出張ってるんじゃねぇの?」
「残念なことに雷牙。ただの幽鬼はここまで手の込んだ怪文書を残したりしない」
「ええええっ!?」
『そういえば、そもそも五剣君に未榻君が巻き込まれてあそこの現場に張ってたのは、そういう理由があったからだったっけ?』と、呈舜は今更事の起こりを思い出す。だが思い出したところで現状の推測が変わるわけでもなければ、雷牙と甜珪が五日も現場で夜を明かした事実も変わらない。
「じゃあ俺達が五日も現場に張り込んだわけはっ!?」
「幽鬼っぽい何かがあそこで目撃されていたから、だな」
「生身の人間が起こしてる事件なら退魔省の管轄外じゃねっ!?」
「まぁ、そうと言えなくもねぇな」
「上は分かってて俺にこんな現場押し付けてたのかっ!?」
「まぁ……もしかしたら
己に詰め寄る雷牙を、甜珪は表情ひとつ変えることなくズバズバと切り捨てていく。すげなく返された雷牙は、そのままガックリと卓に突っ伏した。
──未榻君、君も本来なら五剣君と同じ立場なのでは……?
甜珪も雷牙に同行していたのだ。むしろ巻き込まれた立場にある甜珪は、雷牙以上に脱力しても許されるだろう。しかしそうはならず、あくまでも斬る側でいる辺りが、実に甜珪らしいと言えばらしいのではあるが。
──一晩じっくり休んだおかげで、いつもの
そうであるならば、呈舜の協力も無駄ではなかったということだ。
「えー、んじゃ、どーするよ。あいつのトコ行くの、やめとく?」
甜珪の様子に、呈舜は密かに笑みを浮かべる。
そんな呈舜に気付いているのかいないのか、ノソリと顔を上げた雷牙が実に情けない顔で口を開いた。
「退魔に関係ないなら、わざわざ巻き込むのも……」
「いや」
対する甜珪は、常のままのキレの良さで雷牙に答えた。二人だけで進む話に呈舜は思わず首を傾げるが、そんな呈舜に構わず甜珪は話を進めていく。
「一連の怪異は生身の人間が起こしている可能性が高い。そこは分かったが、正直それ以上が手詰まりなことに変わりはないだろ」
『だな?』と、そこで初めて甜珪は呈舜に話を振った。いきなり話の矛先を向けられた呈舜は、傾げていた首を慌てて戻しながら同意を示す。
「真正面から書記部に当たるのも、今の僕じゃ難しいし」
「下手につつくと、あんたの身元が盛大に割れる可能性が高いしな」
「そうなんだよねぇ……。なんせ『書馬鹿』と書いて『書記部』って読むような人間の集団だし、どこで勘付かれることやら……」
「いや、それは書記部に対して失礼だろ」
『え? ちょっと待って? それどういう意味?』という反論が一瞬頭をもたげたが、ここで下手に反論を重ねれば先程の雷牙以上に鋭く切り捨てられることは目に見えている。
『ここは大人しくしておく方が吉』と判断した呈舜は、反論を飲み込むと代わりに疑問を口にした。
「どこに行くの? 協力者にアテが?」
先程からの疑問を率直に口にすると、甜珪と雷牙は無言で顔を見合わせた。一瞬二人の間に
「俺の外部協力者っていうか……。俺から見ると未榻みたいな立ち位置にいる同期が、もう一人いるんすけども……」
「僕達で手詰まりな状況を、その人なら何とかしてくれるってことかい?」
歯切れの悪い説明に、呈舜はさらに首を傾げる。そんな呈舜に対し、甜珪と雷牙が揃って苦み走った表情を浮かべた。
──はて?
「……協力要請っていうよりも、謝罪会見、だな」
「んんん……。正直、怒られに行くようなもんだよなぁ……。でもこの状況で他に打てる手もねぇし……」
──はてはて?
普段甜珪にしこたま怒られている身としては、甜珪が『謝罪会見』やら『怒られに行く』といった状況そのものが想像できない。
……が、分かる。二人が今まさしく浮かべている表情は、部下が上司にお叱りを喰らうと分かっていても報告に出向かなければならない時に浮かべる
「まぁ、行けば分かるし、何らかの進展は期待できる」
無理やり纏めた甜珪は、隅に寄せてあった蒸籠を手早く重ねると再び風呂敷に包んだ。まだ中には饅頭が残っていたはずだが、どうやら余りは甜珪の腹にも雷牙の腹にも入ることはないらしい。
「急ぎの仕事だけ何とかして、そいつのところに顔出すぞ」
「え? 今から? 行き先は?」
急な話に呈舜は思わず腰を浮かす。
そんな呈舜よりも一瞬早く席を立った甜珪は、わずかに苦いものを飲み込んだような顔で端的に答えをくれた。
「祓魔寮だ」
書聖南天、書を解いて曰く-怪文書は専門外なので趣味に帰ってもいいですか?- 安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売! @Iyo_Anzaki
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