第3話 江戸の友と島原の女

  北辰一刀流という江戸で人気も実力も兼ね備えた剣の流派を一通り極めた平助が、田舎の泥臭い剣術として小馬鹿にされてもおかしくない天然理心流道場に出入りするようになったのは沖田に誘われたからだった。


平助はわずかに感じた土方への違和感に気を向けないようにまだ江戸にいたころに思いを巡らせた。



 ……当時、沖田は有名無名にかかわらず江戸にある道場を次々回って

本人曰く『ぜひとも教えを請いたい』と称してはいたが実際は道場破りのようなことをしていた。

沖田にはまったく悪気はないらしい、ただひたすら強いため負けることが無い。

負けた道場からは道場破り扱いを受け、鬼やら要注意人物やらの認定をされるのは自然の流れだった。


 ある日、一流と謳われた玄武館もご多分に漏れず『沖田にやられたらしい』

と聞いて耳を疑う。

平助はまだ幼少のころから玄武館で剣の手ほどきを受け中目録まで得た。今は伊東道場という別の道場の師範代を務めているがそれも玄武館からの紹介あってのことだった。


『天然理心流の鬼・沖田』の噂を聞くまでは

存在くらいしか知らなかった天然理心流。

洗練された北辰一刀流と比べるのも愚だ。

当然沖田のことも所詮は泥臭い剣術屋だろ? と平助も小馬鹿にしていたが

玄武館でさえ負けたと聞いてからは沖田の剣を見てみたい、そう思い始めた。


 その機会はそんなに先まで待つ必要はなかった。

ほどなくしてついに沖田が伊東道場にやってきたのだ。

「すみませーん、試衛館から参りました沖田総司と申します。どなたか稽古のお相手願えませんでしょうか」


 相談の上、伊東道場で一番年少だった平助が玄関で応対することになり出ていく。

にこにこと式台の前で案内を乞うている沖田の様子に少しがっかりする。

 なんだ……ずいぶんひょろっとしたやつだな。本当に鬼と噂された沖田なのか?


 態度には出さないようにして丁寧に答える。

「あいにくではございますが当道場の主は他出しております。本来でしたら道場に上がっていただくわけにもいかないところではございますが、このままお帰り頂くのも、忍びなく存じます。私は師範代を務める藤堂と申します。手前どもでよろしければお相手を務めますがいかがでしょう? 」


 平助は式台に正座をしていたので玄関に立ったままの沖田を見上げる形となってしまったが

挑戦的な目で油断なく沖田を観察する。


なんでそんなにずっと笑顔でいる? 

……気を抜いて立ってるように見えるが隙は無いな。


 今、不意打ちで斬りかかってみたら……?


いかがでしょう、などともったいつけてみたが内心手合わせしてみたくてたまらない。


「それはありがたい、よろしくお願いします 」沖田は軽く頭を下げた。

「ではこちらに…… 」そう言って平助が先に歩く間も沖田はきょろきょろしながら、有名な道場はやっぱり立派ですねぇ、などとずっとしゃべりつづけている。

沖田があまりにも無駄口が過ぎるので道場の入り口の前でくぎを刺す。

「沖田さん、ここから先は神聖な道場です。おしゃべりは謹んでいただけませんか」

声に剣を含ませたつもりだったが沖田はまったく気にも留めず笑顔のまま

「……真面目だってよく言われませんか? 」


……図…星だ。

 

  真面目どころか生真面目がすぎてつまらないとさえ言われたことだってある。

そんなことはどうでもいい。剣の腕とは何の関係もない。

普段は気になどしていない。

でも初対面の沖田に指摘を受けるのは気に入らない。

 少しいらだつ気持ちになり道場に入るとすぐ、防具の準備をするように沖田に促す。


「どうしようかな? つけなくても大丈夫です」といって沖田がまた笑顔になった。


 玄関からここまでくる間に俺がしていたように、沖田も俺の剣の腕を値踏みしたことだろう。


なるほど、自信たっぷりということか……


 安く見られたな……とうとう我慢の限界がきて舌打ちをしてしまう。

とっとと打ち負かしてやる、だから早く帰ってほしい。

きっと他の道場でも沖田の長いおしゃべりに調子を狂わされたんだ。


 そうに決まってる……


「お好きなように……」竹刀を持つと小さく答え沖田と向き合い礼を取る。

自分だけ防具をつけると試合の前にすでに沖田に負けた気がするのでやめておく。


お互い礼を取り顔を上げる。


 沖田の周りの空気がわずかばかり変わった……?


それでいて沖田はまだ剣を構えるでもなく笑顔でいる。


 なんなんだ、へんなやつ……


 沖田を誘うように竹刀を正面に中段に構え剣先を小刻みに揺らす。簡単なようでいて単調な動きであれば相手に初動を読まれるし大きく動かすと自分の隙をつくってしまう。攻め込むのか間合いをとりたいのか、相手に思案させるのが狙いの北辰一刀流の技のひとつ。


 隙が無いな……沖田は誘いに乗る気も無いようだ。こちらが焦れて攻めに入った時に動くつもりなんだろう。どうする?


 平助は構えた竹刀を一旦戻す。そのまますぐに姿勢を低くし

すばやい足さばきで間合いを詰めながら

居合の要領で抜き打ちに沖田の胴を流れるように払いに行った。

ここまでの動作に三秒とかからなかったはず。もしこれを外されたら勝機は沖田に持っていかれる、そう思って放った渾身の一撃。

 

 沖田が身体をわずばかばかり引いたように見えた瞬間、強い衝撃を受け床に叩きつけられ背中を強かに打ち付けてしまう。

 

 何が起こったか一瞬わからない。

喉の痛みにせき込みながらそっと目を開けると喉元に竹刀がつきつけられている。


……突きを入れられたか


 

「あーあ、大丈夫ですか」平助の喉元に竹刀をつきつけたまま沖田が少しかがんで覗き込む。

「私の突きは避けられなくても当然なんで。 恥ずかしく思わなくていいですからね」そう言って笑顔になる。

「は? 」

なんとか体を起こすと、沖田の物言いに言い返そうとするが声が出ない。


「くっ……」よろけるように立ち上がる。喉の奥から口内に錆のような味が広がり気持ち悪くなり

俺は手のひらに唾を吐く。

血が混じっているのを見て『負けた』という思いがこみ上げ、立ち上がったものの

再び膝をついた。


負けた……しかもこんな簡単に。


悔しいなどと言う言葉では言い表せない。


道場主の伊東先生は留守にしていて俺の無残な負けざまを見られはしなかったが、恥をかかせてしまった。


  呆然と固まってしまった俺のことが心配にでもなったのか沖田もしゃがんで目線を合わせて

「ちょっとぉ、藤堂さんでしたっけ? ほんとに大丈夫ですか? 死んだりしませんよね?

そんなに本気出してませんけどねぇ……そうだな、 今から土方さんの薬をもらいに行きませんか? 」

「あの、意味がわかりませんが? 」やっと少し声が出た。

「だから怪我なんかすぐ治っちゃうんですよ、石田散薬ってのを飲めば。

さあ立てますよね? 行きましょう 」


 わけのわからないまま沖田に急き立てられる。こっそり成り行きを見ていた道場の仲間たちがぞろぞろ出てきて沖田を取り囲む。

平助が沖田に拉致されれば道場の恥の上塗りになると、さすがに見過ごすわけにはいかなくなったのだろう。

「あれ? 藤堂さん以外全員お留守かと思ったけど、皆さんいらっしゃたのですね?

ちょっと藤堂さんをお借りします! 」と言うと皆が気色ばむのを、ちょっと通してくださいね等と冗談ぽいが有無を言わせぬ口調で押し切り俺を連れ出した。


 逆らうとその場がますますややこしいことになりそうで黙って従う。沖田への暴言は心の中にとどめておく。

そんなこととは知らない沖田はひたすら自分が住み込んでいる試衛館が

どれだけ素晴らしいか、

“石田なんとか”という、いんちきくさい薬がいかに効くかについて語っている。


 そんなにすごい薬なら自分で行商でもやればいいだろ?……


「ところで藤堂さんの下の名前って? 」

「……平助ですけど 」

「平助さんか、よろしく 」

「私の下の名前なんかに興味あったんですか? 」

「だって今日から友ですから……実は道場の皆さんが隠れて見てるの気づいてましたよ。

誰が私の相手でも結果は同じなのに平助さん一人だけ責任負わされるのも気の毒なんで、それで連れ出したってわけです。」


沖田の言葉に突きを食らった時と同じくらいの衝撃を受けてうつむいたまま喉の痛みをこらえて歩く。

友だって? ……あっさり負けて立場の悪くなった俺を気遣ったってことか?

大きなお世話だ……



「誤解しないでほしいが、伊東先生は今日は本当に不在だったんです。居留守など卑怯な手は使ってはおりません……他の方も関係ありません。あなたに負けた私が弱かっただけのことです 」

一応、それだけは伝えておく。


「なるほど……平助さんは伊東先生のこと好きですか? 」


少し考える……好きとか嫌いだとか考えたこともない。同じ流派で格上の伊東先生に対して敬意を持つのは当然でこうして道場の師範代の職も得て世話にもなっている。

好き嫌いの話ではない。

『先生に何かあれば一番に駆け付けなければ……』それが当たり前なのだ。


しゃべり疲れたのか、やっと静かになった沖田と黙々としばらく歩くと試衛館についたらしい。


「ここ……ですか? 」

沖田を見るとうんとうなづき「さ、上がってください 」


 沖田はここを道場だというが噂に聞く以上のおんぼろで玄武館はおろか伊東道場にも及ばない。

浅草の見世物市で出る妖屋敷と言ったほうがぴったりくる。

「誰も取って食ったりしませんから安心して」

沖田に背中を押され道場に足を踏み入れた。

もちろん式台もなく入ってすぐ板敷の間がありそこがもう道場らしい。

壁には竹刀の代わりに太い丸太のような木刀がかけられている。


「土方さん、石田散薬のお客様ですよぉ 」


「たっくよぉ、総司。おまえ、そういうのやめろって何度言わせるんだ 」

板敷の間に車座になって座っている男たちの中から一人めんどくさそうにこっちへやってきた。

「総司がいろいろすまねぇな、お兄さんよ。まあ、俺の薬飲んどきゃまちがいねえよ」

言いながら薬箱から怪しげな包みを出してきた。この人が沖田に道中さんざん聞かされた土方か……


「……どうも 」

あまり気が進まないので薬は受け取ったがすぐに飲まずに袖にしまった。


 薬を受け取ったんだからもう帰ってもいいだろうと思い立ち上がった時、

『藤堂君じゃないか! 』 知ってる声に呼び止められ驚いて車座の輪を見た。

「山南さん! どうしてここに? 」

北辰一刀流の同門で先輩にあたる山南さんが座ってる。


どうしてこんなとこに山南さんが……?


 喉にあざを作り声をからしてる平助に同情するように山南が優しく声をかける。

平助は初めてほっと息をついた。

「驚くのも無理はないね。実はここの若先生と縁あって

親しくさせていただくようになってね。

すっかり試衛館が気に入ってしまってこうやって食客としてお世話になってるんだよ 」

「……そうなんですか」苦笑いするとそっと平助にだけ耳打ちするように

「実はね、私も最初はいろいろ驚いたんだよ。 きみのようにね 」

そう言ってほほ笑むと平助の肩を軽く叩き

「もうそろそろ夕餉の時間だ、一緒に食べていかないか。積もる話もあるし。さあ座った、座った 」

山南にそこまで言われると断るわけにもいかず浮かした腰をまた落とす。


 着物の前を腹まではだけさせた背の高い男が酒の入った徳利と湯飲み茶椀を平助の前に置き、酒をなみなみと注ぐ。ちらっと腹に一文字の切り傷が見えた。

「そう来なくちゃな、酒は好きかい? 俺は原田左之助。よろしくやろうぜ。まあ、むさくるしいところだけど気楽にやんな 」

「おいおい。左之助、むさくるしいの筆頭のお前が言うなよ。 だいたい近藤さんに失礼だろ 」

それを聞いて「違いない」などと他のみんなも大笑いしている。


土方が原田をたしなめた男に声をかける。

「新八、左之助に礼儀を教えておけって何度も言っただろう 」


 新八と呼ばれた男を山南が手招きして平助を紹介する。

「申し遅れました、藤堂平助です 」

「この永倉君は神道無念流の遣い手で試衛館であの沖田君に勝てるのは永倉君くらいだろうって言われてる。私も稽古のたびに刺激を受けているよ」

「平助君とやら?びびらなくていいよ。俺は総司と違って優しく手合わせするから」永倉がニッと笑う。

 

あの鬼沖田と同等か、もしかしたらより強いかもしれない人がいる試衛館、見た目同様やはり妖怪屋敷なんでは……自然に笑みが出た。

それなりに自分の剣に自信があったがもっともっと強くなりたい。ここでならそれが叶う気がする。


  その時がらっと音を立ててふすまが開くと鍋を持った男が入ってきた。

「できたぞ、近藤家特製のたまごふわふわだっ!」四角い将棋の駒のような顔が大きい口をあけて笑う。


「藤堂君もいただくといい……」箸を取るといそいそと山南が近藤の持ってきた料理を皿に取り分けて皆に配っている。

近藤は初対面の平助にも当然のように「新顔さんも遠慮せずに。美味いぞ! 」などとお代わりを勧めてくれる。


 ここは本当に道場なのか……俺の知っている道場は神様のような道場主を中心に規律正しく礼儀正しくというものだったが、ここはまるで違う。

試衛館の人たちは礼儀知らずで馴れ馴れしい……そんな風に感じていた気持ちはいつの間にかなくなっていた。そして今まで会った人たちより強い。憧れにも似た気持ちがわいてくる。


 普段はあまり飲まないが楽しくて、つい酒も進む。

悪酔いしそうな安酒に心地よく酔いながら意識が途切れる瞬間に、決めていた。


俺も山南さんみたいにここで……


 


 翌日、伊東道場に戻ると今更のこのこ戻ってきやがってという皆の冷たい視線に突き刺されながら

平助は伊東に頭を下げ試衛館へ修行に出たいということを願い出た。

 

 伊東先生は何を思ったんだろう、あっさり認めてくれた。

道場破りに簡単に負けて道場に泥を塗ったうえ その道場破りと一緒に

出て行ってしまった俺に愛想をつかしたのかもしれない……


「今まで過分なご厚意を賜りましたのに本当に申し訳ございません 」深々と畳に頭をつける。

「顔を上げなさい、きみが試衛館に行くことでうちの道場にもまた流派を超えた新しい風も吹こうというものだ。

昨今の不安な情勢で今後のことも見据えていろんな手を打つのも悪くはない。だからそんなにかしこまらずに、あちらで励んできなさい」

「もったいないお言葉です……伊東先生のご恩は一生忘れません。必ずいつかお返しします。」

「それは楽しみだね。行ってきなさい」


  平助が感謝の言葉を尽くして出ていくと伊東の門弟の篠原が不満そうに

「先生は藤堂にあまいようですな……」

「そう見えますか? 篠原君、『捨てた』ものに価値があったとわかっても

拾った人に返せとは言えないが

『貸した』だけならあとで何倍にもして返してもらうこともできるとは思わないか……」



 伊東先生に愛想つかしをされたわけではないのだと知って安堵した。身勝手な俺の言い分を快く許してくれた先生のために将来尽くそう、そう心に決める。

少ない荷物をまとめるとその日のうちに試衛館に向かった。試衛館での稽古に心が浮き立つようで足取りも早くなる。


 

こうして平助が試衛館に食客として住み込むようになってから一年が過ぎた。


 試衛館の雰囲気にもすっかり慣れ、天然理心流の荒稽古にもくらいつき日野方面の出稽古も任されるようになっていた。

あれから沖田とは手合わせしていない。時々永倉と木刀で稽古した時にしこたま打ち込まれて床に伸びているとまだまだ沖田には勝てないなと自嘲しているだけだ。


 私生活も変った。稽古に今まで以上に励む反面、真面目が着物を着ているとからかわれてばかりいたころとは打って変わって遊びにも精を出す。

だいたいは永倉や原田と一緒に騒ぎ酔いつぶれても 翌朝には誰より早く起き井戸で水を浴びるとすぐ道場で汗を流す。

 

 そしてまた夜 稽古を終えるとその高揚感のまま永倉たちと遊び歩く。

酒と女で騒ぐだけではない、短気な原田に巻き込まれての喧嘩騒動や攘夷志士を気どって流行りの異人斬りをしようぜという話になり横浜まで行こうとした時は、目に余ったのか近藤に呼び出され『平助、やんちゃが過ぎる。改めないなら伊東道場に返す』と長々と説教まで受けた。

説教が終わり廊下へ出ると沖田がにやにやしている。

「ほんっと、平助さんって真面目だな。悪いことも近藤先生に怒られるくらい全力でやるんですね。

まったく手を抜かないんだから……」

 

 

 ほどなくして、平助だけでなく試衛館の面々の運命を大きく変える日が訪れた。

『幕府が京へ上る将軍の警護をする者を募集する』という話を顔の広い山南と永倉が持ってきたのだ。

みんなが興奮し京で一旗揚げようと盛り上がっているのを後目に平助の顔は暗い……


みんな、京へ行ってしまうんだな……

なんとなくその場の雰囲気に流され自分も京へ行くと答えてしまったが本当に京に行くのか? 行けるのか? と自分で自分に問いかけるも答えはすっきりしない。


このまま行ってしまってもいいのか……


京へ行く話が出て以来、連夜のように遊び歩いていたのが嘘だったかのように夜の稽古の後も一人で試衛館の縁側で物思いにふけることが多くなっていた。


今夜は雨か。 月が見えない、答えが……見えない


俺は試衛館の門弟でもないし、新八さんや左之助さんみたいな古株でもないし。

京へ行くなら当然伊東道場にも許可をもらう必要もある、もし伊東先生も京へ行くつもりだったなら?


そちらと合流して京へ行くのが筋のはずだ……


 試衛館に来てからの厳しい稽古や永倉や原田としでかしたやんちゃ遊びや未遂に終わった攘夷斬りの真似事、それを本気で叱る父親のような近藤先生。

 

……俺は父親に叱られたことが無い


 実を言うと父親の顔すら知らない……なんでも、いいところの妾の子、らしい。

腰に差している刀は皆が驚く上総介兼重という上物で拵えも大身の家柄のものが持つようなもので 

この刀を見ている時だけ唯一、自分は身分の高い父親の息子だったのだなと思い出す。

母親は花屋で生計を立てて俺を育ててくれた。

学問や武芸には惜しみなく通わせてくれていたのは

いつ迎えがきてもいいようにという思いもあったんだろう。

結局、迎えどころか父には会ったことさえない。 

花屋の稼ぎがどのくらいのものか知らないが俺の稽古代に困る様子がなかったことを思えば金銭的には

援助があったのかもしれない。 

おかげで好きな剣術に打ち込めているのだから顔も知らない父親に不満などあろうはずもない……

事情を知らない試衛館の人たちは、

藤堂という由緒正し気な雰囲気の名前を『ご落胤様』などとからかうこともあった。黙って笑うだけで受け流したが、羽目を外すような遊び方を始めたのもご落胤と言われるのがいやっだせいもあるかもしれない。


温厚で理路整然とした話し方をする伊東先生とは違い、いつも豪快で熱い口調の近藤先生のことがどんなに厳しく叱られたとしても嫌いではない、むしろ好きだ。


 そういえば沖田さんが言っていた……伊東先生のことが好きか? と。

師のことは好き嫌いで判断するものではない、とその時思ったのに近藤先生のことは好きだと思っている。

いろいろ矛盾してるな……肩をすくめた。



「すごい雨だな……」突然声を掛けられ平助の思考が途切れる。

隣、いいか?というように土方が平助の顔を見て横に腰を下ろした。


珍しいな、と思う。土方はあまり話しかけてこない。今日はどういう風の吹き回しなのか……


「どうしたんです? こんな夜半に……」

「……別に 」

「ああ、わかりました。 沖田さんと間違えたんですよね? 」

「そんなところだ 」


なんだ、自分に用があったのではないんだな……なんとんく物寂しい気持ちになり苦笑する。

「正直ですね、土方さんは 」

「まあ、おまえでも用は足りる 」


「私が? どういうことですか 」

「京へ行く話だよ……みんなが浮かれて大騒ぎしてやがる。もちろんこんな機会めったにあるもんじゃない。

俺だって飛び上がりたいくらいだ 」


 うれしくて飛び上がる土方を想像して思わず笑ってしまう。

「土方さんが? 冗談はやめてくださいよ、雨がやまなくなります 」

「……なのに、お前ひとりだけが浮かない顔してる」

「! ……心配してくれてたんですか。ありがとうございます 」

「ふん、馬鹿じゃねえのか……一人だけそんな暗い顔していたらみんなの士気に関わるだろうが。

平助、お前がここに出入りするようになって一年くらいになるか 」

言葉を切った土方が雨を見ながら口を開く

「……一句詠めたぜ。霧雨も驟雨(しゅうう・激しい雨)も降ってしまえば同じ水 」

「え? それって……」

沖田からひどい句作について聞いてはいたがここまでとは。予想の上を行く土方の句作の下手さに笑いが止まらない。


「笑うなよ。つまりだな、何が言いたいかっていうと。

平助、試衛館に来てから新八や左之助と一緒に無茶な遊び方してるようだが。

無理に悪ぶろうとするな、お前はお前。

新八や左之助もお前のことが好きなんだよ 」

「え……ええ 」何が言いたいのかわからず目をそらす。


説教なら近藤先生からたびたびされたし、最近は遊びにも出てないというのに……


「お前が無茶な遊びをやめて昔の品行方正なお前に戻ったところで試衛館の連中は誰もお前にがっかりなんかしない。平助は平助だ。だがな、お前が京へ行かなきゃみんながっかりするだろうってことだ 」


「ああ……」

なんだ、それが言いたかったのか。 やっと得心がいく。

わざわざ下手な句作までして京へ行こうと誘ってくれたんだ……


答えが見えた。


「行きますよ、みんなと一緒に京へ行かせてください。 それと……土方さんもせっかくの句作を沖田さんに笑われてばかりではがっかりでしょ? 私は土方さんがどんな句を詠んでも笑ったりなんかしませんから。一緒に京へ行かせてください 」

「馬鹿か……お前さっき笑ったじゃないか。 じゃ俺はそろそろ寝るぜ。お前も早く寝ろよ 」

「はい、おやすみなさい 」


試衛館の皆と過ごす日々、自分はまだ受け入れてもらえてないと線引きしていたのは自分だったのかもしれない。そんな気持ちが無理にバカ騒ぎをしてみる事だったりしたのか……

新八さんも左之助さんも、バカ騒ぎをやめてもきっと何も変わらない。刺激的ではあったがどこかで無理していたのも土方さんは気づいてたのか。


土方さんの言葉のほうが石田散薬よりよほど効きますよって、いつか教えてあげないと…… 



平助は京への旅立ちに心を弾ませた。


 そして文久三年二月 京へついてすぐ将軍警護のために集まった浪士隊は発起人の清川八郎の裏切りで

すぐに江戸へと戻ることになる。京へ残った試衛館一派と芹沢一派は芹沢の尽力でなんとか会津藩の庇護のもとに不逞な浪士を取り締まるという仕事を得ることができた。

だが、破天荒で酒癖の悪い芹沢の暴挙に悩まされることになる。

土方の命でいつも芹沢の行く先々へとついていき狼藉するのを阻止するという任務が平助に課された。


 あの雨の日に島原で名都に出会ったのはそんな任務のときのことだったのだ……





  その日最後の客を見送ると名都は自分に与えられた小さな部屋に戻る。


お白粉、落とさんと……


本当は化粧を落とすのも面倒なくらい疲れてる、早く寝たい

急いでお白粉を落とし薄い布団に体を横たえると眠いはずなのに昼間の出来事が思い出される。


あのお侍さんの名前聞くの忘れてしもうた


雨上がりの朝の草露みたいな涼やかなひとやったなあ……名都は若侍の凛としたたたずまいを思い出す。


もう会うこともあらへん……忘れよう


名都は布団を頭からかぶって泥のように眠りに落ちた。


 ー 翌日の夕刻

 昼の客が帰ってしまうと夜に遊び来る客に備えて早めの夕餉を済ませるのが店の習慣となっている。名都も簡単な食事を済ませ化粧しようと鏡に向かったところで、店のおかみが新しい反物を何本か抱えて名都の部屋に入ってきた。

「名月ちゃん 」店での名前で呼ばれる

「白菊が春からお座敷にでるようになったさかい新しい着物作るんやけど、名月ちゃんもよう稼いでくれてるから着物一枚作ってもかまへんえ。

好きなん選びなはれ 」

 そういって持ってる反物を広げ 目についた一本を名都の肩から合わせてみる。


「……でもぉ、うちはお座敷には上がらへんし お客はうちの着物なんか気にせんからもったいないわ。

白菊ちゃんに二枚つくったげてええんよ 」

肩からかけられた美しい反物をお母さんに返す。

「まあ、そう言わんと。ほれ、これなんかように合うとるわ。外見もきれいにしとかんと新しいお客がつかへんさかいな。何本か置いておくさかい明日までに決めといてや 」

この店での外見と中身とは“容姿”と“心根”といったものではなく

“装飾品”と“身体”ということになる。


これ、きれいやなぁ……濃紺に金の刺繡が入った反物を見ていると

襖の外から男衆に声を掛けられる


「名月はん、ご指名でお客さんやけど……」

「……はぁい。お仕度したらすぐ行きます」貝殻に入った紅を唇にひくと幼さの残る名都の表情に色気がさす。

それがよいという客も多い。お白粉を丁寧にはたく。

うちは太夫さんみたいに格式はあらへんけど、うちがええと思ってきてくれはるお客さんのために

きれいでおりたい……そんな気持ちから化粧も丁寧に施す癖がついていた。


おかあさんのいうとおり新しい着物も作ってもええかもしれんわ……


 化粧を終えると自室を出て客の待つ部屋へと向かう。部屋の前で襖にそっと手をかけ中にいる客に声をかけながら襖を開け挨拶するしきたりとなっていた。


「名月どす、ようおこしや……す 」

息をのむ、客として座っていたのは昨日の若侍だったからだ。

若侍が丁寧にお辞儀を返した


「……来ておくれやしたんどすな、おおきに 」

部屋に入って若侍の隣に座る。ついてきた禿が簡単な酒肴を並べ部屋を出ていくと二人きりの部屋は静かさが増す。

「まさか来てくれはると思わへんかったから、えらいびっくりしました 」銚子を取り目配せすると

若侍が盃を取るので酒を注ぐ。

「お酒、お強いんどすか? 」


場をつなぐ言葉を探しながら名都は混乱する。またこの人に会えてうれしい、そんな気持ちが沸き立つのは初めてだった。


「いえ、嗜みますが……格別というわけではありません 」


恥ずかし気に微笑みながら初めて若侍が口を開いた。その返事が酒は強いのかという質問に対する返事だと気づくのにしばらくかかる。


うち、どないしたん……


そうや、この人の名前!


「せや、昨日はお侍さんのお名前聞くの忘れてしもうて……お名前なんていわはるんどすか 」

「藤堂平助と申します。 」そう言って盃の酒をぎこちなく飲み干した。

品のある平助のなんとなく落ち着かないそぶりに部屋の空気はよそよそしいままである。


  気まずい空気を先に破ったのは平助だった。

「あの……今日はお借りしていた手拭いを返しに来ただけなんです。店からちょうど出てきた男衆さんに、名都さんがいるか尋ねたところ客と間違われ部屋に通されてしまいました 」

懐から小さな包みを取りだしさらに包みをほどいて丁寧にたたんだ手拭いを出すと名都のほうへ差し出した。

「こちらは洗っておきました。新しいものを返すと言ったのにまだ買いにいけてなくて申し訳ない 」

「これ、うちのお気に入りで大事にとってたんどす。持ってきてくれてうれしい 」


 わざわざ洗って届けてくれた気持ちがうれしくて名都に笑みがこぼれた。

その笑顔にようやく平助も緊張がとけたような笑顔を見せ盃を差し出した。

「もう少しいただいてもいいですか 」

「このお酒、お口にあいましたん? おかわりもらってきましょか 」

「ええ……緊張したら喉が渇いてしまいました 」


名都が目を丸くして平助の顔を覗き込む。


「藤堂はん、こういうお店に上がるのはじめてどすか? 」

「そういうわけではありません……いえ、京では初めてですが……参ったな 」


照れたように笑う平助を見て名都はクスクスと小さく笑う。

「京へはいつ来はったん? 」


「2か月ほど前になります。 江戸から……」

「江戸からどすか。ええなぁ、行ってみたいわ 。京とは全然違うんやろなぁ…… 」

「そうですね、 全然違います。 京ではまだまだ戸惑うことばかりです。

名都さんは江戸でやってみたいことありますか 」

「……そやなぁ、墨田川の花火見ぃたいわ 」

「ああ、それなら特等席知ってます。 道場の仲間と早くから場所を確保するんです。

そこに酒を持ち込んだりして結局花火より酒盛りになってしまいますが。

夜店で飴細工を買ったりもしたなぁ……甘いものは好まないのですが細工が細かくて飴屋が作ってるところを見るのが楽しいんです。 」

「そうなんどすか……楽しそうやなぁ。 うち紙風船取るのやりたいなぁ 」

「紙風船のコツがあるってしってますか? 」


目を輝かせて語る平助をかわいく思い笑顔で聞き入る名都に

「すみません。 一人で話してしまいました 」と照れる平助に本当にいいひとやわと好感を持つ。


「そんなこと……お話聞いてるのん楽しいどす。 せや! 昨日、いっしょに来てはった上役さんも道場のかたどすか? 藤堂はんは幕府のお役人さんなんどすか? 最近は京にいろんな藩のお侍さんが来やはって島原も賑やかになったんどす 」


京へ何をしに来たのか、気になって当然だろう。


「幕府の役人ではありませんが志を持って京に上りました。 でもいまだに何も果たせずです……」

「志……? 」


「はい……黒船のことは知ってますか? 」


名都がうなづく


「黒船来航以来、世の中騒がしくなりずいぶん住みにくくなった。 帝を敬い、上様の警護をするために京へ来たのに何もなさずにただ壬生でくすぶってる…… 」


壬生?……まさかこの人は……

江戸から浪士が大挙してやってき壬生を占拠しているのは知っている。その浪士たちはツケで島原でも遊んでいる。 名都の店はまだ被害にあってないが刀を振り回して暴れるなどやりたい放題と聞く。


この優しそうで品のある人が……すこぶる評判の悪い通称“壬生浪”やったなんて。


顔を曇らせた名都に平助は静かに語る


「京で浪士組が嫌われていることも知ってます…… 」そう言って苦笑している。

「壬生だけではなくこちらの島原でも迷惑をかけていると思います。でも江戸を発つとき心に誓いました、立派にお役目を果たしたいと……その気持ちは今も忘れていません。 いつそういった機会に恵まれるかわからず焦るばかりですが…… 」


名都は顔を上げまっすぐに平助の目を見た。

「……うちには難しいことはわからしまへんけど、藤堂はんは今はまだ…… 」

「まだ?」名都の視線を受け止めて平助が先を促す。

「かくれんぼぅの鬼なんやと思います…… 」

「……鬼、とはどういうことでしょう? 」

「かくれんぼぅの鬼は最初に目ぇつぶって数を数えますやろ 」

「……ああ 」


 平助も子供のころには学問所や道場の子供たちと鬼ごっこやかくれんぼなどして遊んだものだ。

今でも沖田などは壬生界隈の子供たちを集めて鬼ごっこをしている、芹沢に同行する用がなく

平助が暇そうにしていると沖田に駆り出されることも何度かあった。


「せやからまだ何も始まってへんのやと思います。 今は追いかけっこを始める前の用意を整えてるとこなんやないんどすか……でもいつまでも数を数えてる鬼はいてません。

藤堂はんもうすぐ志が叶う日が始まるん違いますやろか……偉そうに聞こえたらかんにんどす。でもうちはそう思います 」


志を持つ男子たるもの、特に真面目な平助ならどれほど今の状況が苦々しく、焦燥感に苦しむ日々を送っているのか計り知れないと思う。


昨日は上役が廓遊びする間、従者のように雨の中傘もささずに待っていた平助……


そんなことのために京へ来たのではないだろうに。そんな日々にいら立つこともあるだろう。


名都は平助が膝にきちんとそろえた手の上にそっと自分の手を重ねる。


「……! 」


驚く平助の目を見つめて「藤堂はん、つぅかまえたっ! 」そう言ってほほ笑んだ。


そうだった、平助は理解する。なぜ、今日ここへきてしまったのか……この女の笑顔がもう一度見たくて

やってきたんだと。


「私のことは、藤堂ではなく平助と呼んでください。 では今日はこれで帰ります 」

自分の手の上に重ねられた名都の手をそっと離すと立ち上がり廊下に出る襖に手をかけようとした時、

名都が襖の前に立ちふさがる。


「……名都さん 」平助が少し困った顔をしている。 自分は平助を困らせているのか……


「平助はん……次は平助はんが鬼の番どす。 鬼やのに逃げたらずるい 」


行灯の灯りに照らされた名都の瞳が揺れ、紅をさした唇がわずかに開いている


「……もう 」平助は名都の細い手首を強くつかんだ


「もう、つかまえてる…… 」名都を引き寄せ抱きしめた


そのまま平助が顔を近づけ唇が触れ合いそうになる直前、名都がいやいやという風に小さくかぶりをふった。

「あきまへん……」


我に返ったように平助は名都から身体を離す


「また来ますから……会ってください 」


平助が部屋を出ていくと名都はその場にしゃがみこんだ。 


なんで……? 初めて身体を売った日以来流したことのない涙が溢れる


あの人はお客でうちは遊女や、好きになんかなったらあかんのや……





夜でも賑やかな島原も大門を抜けると屯所まで壬生菜畑をひたすら歩くだけの田舎道である。

高ぶる気持ちを静めるにはちょうど良い距離だろう……


男衆に部屋に案内されたときに代金も支払わされていた。 

なけなしの金をはたいても会いたい……そう思った


抱きしめた時、かぶりを振った名都が腕の中で震えているのが分かった


俺は客だ、あのまま押し倒してもよかったはずだ

だけど……できなかった

また会ってほしい、などと口走ってしまった


ばかすぎて自分に腹が立つ……

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