四_078 深緑の奥_1
掻き分けた茂みの中、腕についた虫を振り払う。
気持ちがいいものではないが気にしていられる場合ではない。
住み慣れた森でも日当たりが良い場所は茂みが多かった。
木々の影になる場所では他の植物は少ないが、日差しが入る場所には茂りやすい。
いくらか茂みを抜けるとそれらがなくなり、視界が多少は良くなった。
後ろから近づいてくる物音はない。ミドオムの身のこなしはヤマトを上回るが、物音を立てずに茂みを進めるはずもない。
足跡を辿って追ってくるのなら風上からになるので、グレイが先に察知してくれるだろう。
警戒は解かないが、ミドオムが追ってくる様子は感じられなかった。
「クックラ、大丈夫?」
「うん」
アスカに声を掛けられたクックラが割と落ち着いた声で返すのを聞いて、ヤマトも少し肩から力が抜ける。
そういえばクックラは岩千肢から逃げて森やら岩場やらを走っていたのだった。
こんな事態にも案外慣れているのか。生まれつき咄嗟の判断で逃げることに迷わない性分なのかもしれない。
クックラの逞しさに助かると考える一方で、こんなことに慣れてほしいわけではないと苦い気持ちも過ぎる。
「グレイ、どうだ?」
『……ウゥ』
ヤマトが訊ねる意味がどこまでわかるのか知らないが、後ろを振り向き小さく唸った。
注意を向けても何も感じなかったのか、また向き直って足を進める。
とりあえず即座に追ってくるということはなさそうだ。
油断はしないが、張り詰めすぎても良くない。
見知らぬ森だ。緊張しすぎて見誤ってもいけない。
どんな獣がいるかもわからない。
地形だって、どこかに不意に窪みや縦穴があったりするかもしれない。
多少は視界がよくなったと言っても見通しがいいわけでもない。逃げ込んだのだからあまり見通しが良すぎても困る。
「アスカ、グレイに前に行ってもらおう」
「わかった、そうね」
どう頑張っても銀狼より鋭い感覚があるわけではない。見知らぬ場所を先行するならグレイが最適だ。
危険な役割になってしまうけれど、グレイは自分の役回りを理解しているように少し前に出た。
案外、ここ最近は町の中で安穏としていたので退屈だったのかもしれない。
森の中で、グレイにとって適性の高いフィールド。
ふと気の根元に口を突っ込んだと思ったら、小さな鳥を咥えていた。ベジェモの仲間だろうか。
「ああ、食べていいよ」
『ウゥ』
許可を得てそれを咀嚼するグレイ。
ヤマト達も足を止めて、出てくる前に用意していた水筒から水を飲んだ。
喉を潤し、喉が渇いていたと気付く。
気持ちが急いていたのだろう。クックラとアスカも一口、二口と水を飲み、息を吐いた。
「あいつ」
思い返して、表情が苦く歪む。
「そうか、あの円環があるから教会の中を自由に行き来できるんだ」
「遠回りしてた私たちより先回りできるわけね」
さっきは急だったので考えている暇はなかったが、思い返せば当然だ。
ミドオムは教会のほとんどどこでも素通りできる。
教会東の宿舎区画に先回りして、衛士に近寄らないよう命じた。真なる円環を使って。
どういう理由であんな狂人が強い権限を持つ身分証を持っているのか知らないが、迷惑な話だ。
ミドオムがあれの本来の持ち主を殺して奪った、とかではないのか。
答えは出ない。
とにかく、ミドオムはかなり自由に教会内を出歩くことが出来る。
いったんミドオムのことは置いておこう。優先して考えなければならないのはフィフジャのことで、とにかくこの森を抜けなければならない。
引き返すことは出来ない。反対側に抜けてれば町に出るはず。
サナヘレムスの町の中、東の区画に存在する森。
神の手で造られたというこの町で、いつからあるのかわからない。最初からなのだろうか。
そういえば先日、イルミがこの御苑に関して書かれた本を読んでいた。衛士の記録帳だったが。
あの中に御苑内部のこともいくらか書かれていた。役に立つかもしれない。
耳を澄ませる。
歩いてきた方からは僅かに虫の声が聞こえてくる。
ヤマト達に驚いて一度は息を潜めた虫が、通り過ぎたのを見ておずおずと確認するように鳴き声を。
やはりミドオムは追ってきていない。いれば虫はまた沈黙するだろう。
それ以外の方角からは虫や鳥と思われる鳴き声と、葉や枝が弱い風に揺れて掠れる音。
水音は聞き取れないが、どこからかとても小さく低く響く音が聞こえる。
低い笛の音のような。
「……?」
音のしない方角がある。
何の音も聞こえない。ぽっかりと。
森の中心側になるのだと思う。物音がまるでしない。
何があるのだろうか。
「あ、これ」
アスカの声を受けて、耳から目に注意を戻した。
先頭を行っていたグレイも、アスカの呟きに足を止めている。
「あの本に書いてあったやつね」
「道?」
深緑卿の御苑内には、人が散策できるような道があるのだと。
言われた通り、明らかに場所が開けている。緩くカーブを描くように人が数人並んで歩けるほど。
開けているのに、入り口付近にあったように生い茂るものはない。
地面は、あちこちから伸びて来た蔦や雑草でで覆われているけれど。
とりあえずその道に立ち、周囲を見回した。
緩やかに曲がる道は、西北西側から南東に向かっているようだ。曲がっていて先は見えないけれど。
立ってみて、地面が妙に硬いことに気が付く。踏み固められたというのも違う。
靴で地面を蹴り、蔦や薄っすらと生えていた短い雑草を削ってみた。
「……舗装されてる」
「本当に道路みたいね」
サナヘレムスの道とは少し色が違う。赤茶色の煉瓦のようなものが下に敷かれていた。
これの為に樹木が根を張れないらしい。
道路の上に長年に亘り堆積した枯れ葉。それらが腐り崩れ、砂や土となって道を覆い隠した、そこに雑草やら蔦が伸びていたのか。
この道もサナヘレムスを造った神々の手によるものなのだろう。
人間の造作物なら、数百年も耐久性があるとは考えられない。
「散歩道、かな」
「公園ってやつかも。そういう習慣が神様にあったのか知らないけどね」
今ではすっかり樹木が大きくなり過ぎてしまったけれど、元々は緑を楽しむ場所だったのではないか。
ヤマトもアスカも実際の公園というものを見たことがない。
家からさほど遠くない湖は、程よい遊び場になっていた。開けていて水場もあって。
あれと似たようなものだと思えばいいのかと。
神々が季節の移ろいを感じる為に作った場所なのかもしれない。
夏には夏の、冬には冬の景色があるだろう。
「……こっちに行くか」
道に出てしまうと、道沿いに進みたくなってしまう。
歩きやすいし距離や方角も感じやすい。
敵に見つかる可能性も考えなくもないが、ミドオムが追ってこない以上は気にする必要もない。
北西側では元来た方角になってしまうので、南東側に進む。
前をグレイとアスカが、間にクックラを挟んで後ろにヤマト。
警戒を完全に解くわけではないものの、先ほどまでよりは楽になった。
「ってこれ、ぐるっと一周するだけじゃない?」
しばらく歩きながらアスカが言う。ヤマトもそう思ったところだ。
深緑卿の御苑内部に描かれた円のような道。
これではどこまで行っても出口には辿り着かないし、来た方角も見失ってしまう。
「とりあえす、仕方ない」
左手に見えた枝が飛び出した樹木に、手にしていた棍棒を叩きつけた。
妖魔〈青小人〉が落としていった鉱石っぽい棍棒。ずっしり重く感じるが、実際の重量はいつもの槍よりは軽いはず。
小さいのに重量があるので重く感じる。
枝を折り、真新しい木の断面が目立ようになる。
一周してしまった場合の目印として。折れた枝もついでにそこらに突き刺した。
「?」
何か聞こえたような気がして、周囲を見回す。
「ん?」
クックラが見上げて首を傾げるのに軽く頷いてから、目を閉じてまた耳に神経を集中した。
鳥の声、虫の声、木々のざわめき。
そういった物とは別に聞こえる何か。
森に入った時にも感じた低い笛の音のようなもの。人の声のようにも感じる。
非常に小さな音だけれど、呼吸するように膨らみ、沈む。
いや、声ではないか。風のうねりと同じリズムだ。たぶん違う。
どこかに隙間があって、そこに空気が行き来する時の音だ。笛の音のように聞こえるのも当然。
――ウ……ゥ……
笛のような音に混じって、ヤマトの耳が捉えたのは何かの声だ。
獣が漏らすものとしては奇妙に感じる。潜んでいる獣であれば声など漏らさぬはず。
危険な魔獣がこちらを狙っているのなら無音で忍び寄ろうとするだろうし、先ほどからヤマトたちの進む傍から逃げていく獣の気配はあった。
肉食獣だとすれば、それらの獣に反応するのが先だろう。
「何か聞こえ――」
言いかけたアスカの目の前を、小さな山狸らしい生き物が横切った。
森でもそうだったが、時折獣がこちらの前を慌てて横切ることがある。
そのまま潜んでいればいいのに、進行方向を不意に横切る小動物。何が彼らをそう動かすのかよくわからない。
「……なんか聞こえる気がするね」
毒気を抜かれたように息を吐いて、改めてアスカが呟いた。そして森の奥に視線を向ける。
今ほど目印に枝を折った方角。左手側。
「……」
危険なのか、そうではないのか。
よくわからないけれど。
アスカの視線がヤマトと重なった。
どうしようか、と。
アスカも判断を迷っている。左手側は御苑の中心側で出口とは真逆。進むべき方角ではない。
なのに気になる。
意識が逸らせない。
妙に気持ちが引っ張られるような。
呼ばれているような、そんな気がした。
◆ ◇ ◆
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