四_072 神々の混迷
湯船に浸かれば、大抵の嫌なことは忘れられる。
大抵の。
忘れられないこともある。誰もいないから余計に考えてしまうことも。
放っておくわけにはいかない。
イスヴァラとアグラトゥとの亀裂は、時間に解決を任せるには少し深すぎる。
ひび割れ。
どうも行き違いがあって、その隙間を埋める何かも足りていない。
このままではもっと大きくなってしまうだろう。誰かが何とかしなければ。
イスヴァラは頑固な堅物だけれど、アグラトゥの方も自分の考えに偏執的なところがある。
お互いに己が正しいと信じて、安易に歩み寄ることはできない。
誰かがやらねばならない。
間に立つのは誰か。
「ルドとプロップは論外」
まず最初に、話し合いの役に立つことのないルドルカヤナとプロペロシオを除外。余計にこじれるかイスヴァラが怒るだけ。
「ノウスもガズァヌもこういうのは向かないし、トゥルルも寝てるでしょうね」
建築と土木のノウスドムス、ガズァヌは不向きで。一年の大半を眠っているトゥルトゥシノにも出来ないだろう。
「ネージェはなんだかんだ言ってイスヴァラ寄りなのよね。あんなののどこがいいんだか」
亡き妹の伴侶であるイスヴァラに対して、ネーグリナティオは色々と思うところがあるようだ。
ヘレムが彼に対しての不満を言い募る時も、やんわりと宥める。
「クロウは……可哀想だし」
争いごとが嫌いなクラワーレトに任せるのも気が引ける。
「結局、私しかいないじゃない」
はぁと、湯気の中で溜息をついた。
面倒くさくなって両腕を投げ出し、浴槽の縁に顎を乗せてもう一度深く息を。
風呂は素晴らしい。嫌なことを全て忘れてしまえそうだ。忘れられないのだけれど。
ノウスドムスとガズァヌに頼んで、専用の風呂場を作ってもらってよかった。
人間の衛生管理や悪臭対策にという理由で町のあちこちにも建造したのだが、その工事の際にちゃっかりヘレム専用のものも紛れ込ませた。
イスヴァラが気付いていたのかどうか知らないが、とりあえず文句は言われていない。
いつでも湯に入れるよう、水温調整の導力回路を作ってくれたのはアグラトゥだった。
液体が流れる力を活用して水温を調整する。
他の元理属と違い、アグラトゥは自然の中に存在するエネルギーを利用する技術が好きらしい。
ヘレム達が主に使う凌霄橋の力とは、まるで比べものにならない程度の力だけれど。
人間たちには喜ばれているし、ヘレムも自分の好みのぬるま湯にいつでも入れるこの浴室には感謝している。
人間たちが喜ぶ。
悪いことではないと思うけれど、イスヴァラはそれを嫌う。
無用なことを教えるなと。
元々、その辺のことで考えが合わないのだ。彼らは。
今回はこじれ具合が見過ごせないのだけれど。
「アグラトゥも、なんで人間に色々教えたがるんだか」
イスヴァラの気持ちだってわかるのだ。
人間たちが知るはずのない技術を手にしていて驚く。驚きが不安に変わる。
いずれ自分たちに害を為すようなところまで届くかもしれない。
どうして使い方によっては危険なことを人間に伝えたのか、と。
アグラトゥも謝らない。
人間がそこに辿り着いたのであれば、彼らの研鑽を賞賛すべきだとか。
仮に人間の力が自分たちに比肩するほどになったとしても、友好的であればそれで良い。
そうでなければ、また人間のいない地を探すこともいいだろうとか。
アグラトゥは、この地に間借りさせてもらっているのだというスタンス。
幼い子を抱えるイスヴァラは、安心して〔あの子〕が暮らせるよう守りたい気持ちが優先。
イスヴァラだって、アグラトゥの考えが正当だという気持ちもあるのだろう。今までそこまで強く言ったことはない。
元々歪みのあった彼らの関係が、最近の人間たちの急速な発展により悪化していく。
人間たちに基礎的な魔導技術を教えて、その使用の為の感覚器官の訓練をした。それはかなり前のこと。
アグラトゥの言う通り、人間たちは自ら研鑽しながら文明を築きつつある。
そうは言っても、力の差はあまりに大きい。
人間が元理属に届くまでには、おそらく数千年は必要。
それでも不可能なのではないか。無限に等しい凌霄橋の力がある限り。
元理属と呼ばれるヘレムたちだって、その凌霄橋の力を身一つで使えるから異質だったのだ。
隔離されていた。ネーグリナティオ以外は皆。
ネージェは妹の付き添いで共にいただけ。
隔離されていたから生き永らえたというのも皮肉な話だけれど。
元の世界。
ヘレム達が生まれた世界は、世界そのものの終焉で消えた。
逃げ延びたこの世界で、自分たちがなるべく快適に過ごせるよう色々やっている。
住居を整え、環境を整え。
食べ物を採取することも難しくはないけれど、同じものを作り定期的に届けてくれる人間は便利だ。
言語を教えて、生きる手法を教えて。
教えることを楽しむアグラトゥにとっては、暇潰しついでにちょうどいい。
人間が増えて、収穫も増えて。
「……増やして食べる、か」
ただ利用するだけでは搾取だとアグラトゥは言う。
何が悪いかと、イスヴァラは言う。
「……どっちが言ったんだっけ?」
呟いてみて思い返すが、思い出せない。
言い争いを聞いていたくなくて聞き流していた。
「人間を食い物にしている、だなんて」
そんな風に言い出す人間が出て来たのだとか。噂を聞いた。
知恵をつけた人間たちの中から、そういう見方をする者が出てくるのも不思議はない。
噂に尾ひれがついて、町の一角にある森林浴の公園奥には人間を食う魔獣を育てているのだとか。
人間を入れないようにしている町の北西区画で、非道な人体実験をしているのだとか。町の住民のいくらかが消息不明になっているのはそのせいだ、なんて。
本気で言っているのか、下らない冗談が変な形で広まったのか。
面白くはないが、じゃあそれを言う人間を見せしめにどうにかするのでは本当に非道な行いになってしまう。
イスヴァラは、必要ならばと。
アグラトゥは、逆効果だと。
そもそも人間に余計なことを教えたアグラトゥが悪いと非難するイスヴァラ。
アグラトゥは、そんなつもりはないと。
両者の諍いが言い争いの域を超えてしまいそうで、引き離した。
少なくとも、今すぐ何か深刻な問題が起きるわけではない。どちらにも頭を冷やす時間が必要だ。
アグラトゥには、これ以上人間に知識を与えることを控えるように頼んだ。
イスヴァラには、あまり人間たちに強圧な言動をしないように言い含めた。
お互いに一応は頷いたものの、罅の入った関係はそのまま。
放っておくわけにもいかない。
数少ない仲間だ。時間の制約を消し去った今ではもう、増えることのない同胞。
人間たちのことはとりあえず差し置いても問題ないが、こちらはどうにかしておかなければ。
「……私がやらなきゃ」
義務がある。ヘレムにはヘレムの。
いつもただ甘えているだけではいられない。
息を吐き、大きく伸びをしてから湯船から立ち上がった。
浴室を出て体の水気を拭く。
この布も、別の地域に町を作った人間から献上されてきたもの。
神への感謝と。
地域性なのだろうが、この辺りで作られる手ぬぐいより水分の吸収が良く、肌触りも柔らかい。
アグラトゥから得た知識を活かして生活圏を広げ、そこで手にした恵みがまたヘレムの手に還ってきている。
間違ってはいないのだ。アグラトゥの言い分も。
この世界のことはヘレム達にも把握しきれていない。調べようにも手が少なすぎて、自分たちだけでは億劫だ。
人間がこうして新たな何かを手にして、その恩恵をヘレムも受け取る。
お互いの関係とすれば、この形は正しい。
「……?」
浴場の建物を出た所で、少し驚いた。
小さな影がある。
この区画内で、ヘレムより小さな影。
ノウスドムスの他にはもう一人しかいない。
「こんなところで、どうしたの?」
まさかヘレムの入浴を覗きに来たとか。
一瞬頭を過ぎるが、有り得ないと苦笑した。
覗けるような建物の造りにはしていないし、まあ望むのなら一緒に入ってあげたっていい。
「イスヴァラが心配するんじゃない?」
「父様は、その……」
口籠る〔この子〕を見て、微笑を浮かべながらも苦い感情も湧く。
イスヴァラの過保護の影響だ。それなりの年月を過ごしたはずなのに、見合った成長をしていない。
身体的な成長については元理属だからということとは別に、この世界だからなのだろうか。
時間の流れ方というか、影響が異なる。
異世界出生の自分たちと、この世界で生まれた生き物とでは。
世界呪、とアグラトゥは言っていた。過去にない言葉で説明できるものがないそれを。
「……父様は、怒っているから」
「あれは心配しているの。あなたをね」
イスヴァラが過敏になるのは、自分たちへの危険ではない。〔この子〕に対する危険だ。
「それを使ったのね」
手にあるモノを見て納得した。
よくここにいるとわかったものだと。
「あ、うん。ヘレムがここだって見えたから」
「外でもちゃんと使えているみたいでよかった」
ちゃらっと音を立て、先ほど衣服を身に着けた時に袖にしまった円環を取り出し、つなげた鎖でくるくる回す。
「十個ともちゃんとわかる?」
「うん、父様はいつもの最上階。プロペロシオは……食糧庫かな?」
「あの馬鹿……」
イスヴァラたちとは別に放っておくのがよくない。食べ過ぎだ。
そういえば、喧嘩するとお腹が空くよなんて言っていた。
争いごとに疲れて風呂に入ったヘレムも似たようなものか。だとしても、食べ過ぎはよくない。
〔この子〕が困った時の為に、誰がどこにいるかわかるよう作った。
「アグラトゥは……あれ?」
「?」
「此方にあり。此方にあるぞ」
疑念の声を受けて、すぐ近くから返事があった。居場所の反応が近すぎて戸惑ったらしい。
「アグー、あなたまで」
「あの……父様が、ごめんなさい」
「謝るのは誤りぞ。父が子を思うのは至極当然ゆえ」
頭を下げた〔この子〕の頭を、全身を覆う貫頭衣の隙間から伸びた触腕が撫でる。
親の喧嘩のことなど気にするなと。
イスヴァラの激しい感情は子を守りたいことに起因している。アグラトゥもそれはわかっている。
「アグーには悪いんだけど、私もこれ以上人間にものを教えるのは反対よ」
会えたついでに意思表明しておく。
「もう十分だと思う。後は人間次第でしょ」
「然り、然り。我も思うところではある」
「だったら」
「しかし、しかし」
ヘレムの言葉に頷いてから、首を横に振った。
それを見上げる〔子〕の、少し不安そうな目を受けて、もう一度ゆっくりと首を振った。
「我にもわからぬこともあるゆえ。ゆえに面白いこともあり」
「アグー、だからそれを」
「ヘレムよ」
白いフードに隠れた視線がヘレムを見つめるのを感じた。
彼は、クラワーレトとは違った形で外見が少し変わっているので、怖がらせないよう隠している。
その姿を怖いと思ったことはない。
けれど、飽くなき知識欲というか、知らないことを知らないで済ませない彼の貪欲さは時々怖い。
「……なに?」
「人と我らとの間に子が成せるか?」
「不可能よ」
間髪入れずに返答した。
不可能だ。わかりきっている。
「……私たちの間でさえ、今はもう」
「まさに」
アグラトゥは深く頷いた。
イスヴァラが過保護になる理由でもある。
「……それが成せるなら、とな」
「馬鹿なことを」
「先ごろ巷の人間たちの噂に聞く。そうした夢想と試みと」
「アグー! 何を考えているの!?」
アグラトゥの触腕が伸ばされた。
思わず、〔この子〕を抱えて後ろに飛びずさった。
「畏れるに能わず」
アグラトゥの伸ばした触腕に、鎖のついた円環があった。
「我にもわからぬ。わらかぬゆえに、知りたいとも思う」
敵意ではない。
ただの興味なのか、知識欲なのか。
「ヘレムよ、頼みがある」
「……」
「我が願い、どうか聞き届けてはくれぬか」
やや怯える〔子〕と、それを抱えるヘレムに。
アグラトゥの告げた願いは、ヘレムには全く理解できない、理解したくないことだった。
◆ ◇ ◆
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