四_071 偉大なる休息
結局、夜になってもバナラゴは戻らなかった。
フィフジャも同じく。
寝泊まりしている建物で、フィフジャが使っていた寝台をニネッタが使う。
彼は用心深く完全に横にはならなかった。探検家として長く暮らしているので、そういう習慣らしい。
休む前に入浴をしたくて、クックラを連れてイルミと共に浴場に行った。
さすがに聖都と言われるような都市だ。
きちんとした入浴施設がある。アスカにとっては非常に喜ばしい。
水が豊富なことは既に知っているが、イルミが使う浴場にはいつも温い湯が満たされていた。
とてつもない労力が……と思えば、案外そうでもなかった。
「これが魔導具?」
「そうですよ」
他の場所と同じように、水道管は敷設されていた。
管というか、石みたいな材質で作られた水路のようなもの。
壁の穴から湧いてくる水が、何やら灰色の雨樋のような水路を通り、やはり石造りの浴槽へと流れ込む。
触ってみると、壁から出てくる時は水だ。
樋を通るうちに温められるようになっているらしい。
「何か書いてあるけど」
「その模様がお湯を作ってくれるんです。ヘレムの恩恵の最たるものかも」
人肌より少し温かい程度の湯に変化させる何か。
化学反応ではないと思うので、やはり何かの魔術要素なのだと思う。
イルミも湯浴みは好きらしく、自由に湯を使えるこの場所を気に入っているらしい。
ここの風呂は数名程度のプライベートな空間だが、町には町で大衆浴場があるのだとか。入るルールも、神様が定めたきちんとしたものがあると聞いた。興味深い。
いくつかある浴場の中、ここはイルミがほぼ独占的に使っている場所。
ヤマト達が使うことも、イルミと重ならなければ構わないとコカロコが許可してくれている。
「クックラ、目を瞑って」
「んっ」
ざばぁっと、頭から湯をかけながら髪を優しく梳く。
出会った当初はひどくぼさぼさだった髪も、切り揃えたり洗ったりしている間にそれなりに艶を感じさせるようになった。
髪の手入れは見た目の印象を変える。
クックラ自身は決して華やかな美人顔ではないけれど、清潔感があれば相応に好印象。
よくフィフジャに髭の手入れをと文句を言うアスカでも、クックラには言わない。
まだ幼いのだし、自分の身成りを整えるなどこれまでろくに教わっていないだろう。
「よし」
洗い流して、浴槽に浸かる許可を出した。
ぺたぺたと石造りの床を速足で歩いて、どぼんと湯船に入るクックラ。
撥ねた水飛沫に目を細めるイルミも楽しそう。
「……」
アスカも桶で汲んだ湯で自分の体を流す。
汚れを丁寧に落としてから湯船に。
イルミとクックラが一緒でも、十分に広い湯船。
このサナヘレムスを建造したという神々も、きっと風呂が好きだったのだろう。
人間にも使わせるために、この町のあちこちに浴場を建設した。入浴のルールまで定めて。
「はぁ……」
温い湯に浸かると、疲労や不安が多少なりほぐされていくよう。
フィフジャのことは心配だけれど、アスカよりずっとこの町に詳しいセルビタやバナラゴが立ち回っている。
今は下手なことをしない方がいい。良い結果を招くかもしれないけれど、逆になる可能性も十分にあるのだから。
わかっていても落ち着かないし、やはり心配だ。
けれど、焦る気持ちで大事なことを見落としたり、気を張り詰めすぎて肝心な時に動けなかったら。
その方がずっと馬鹿々々しい。今は体を休めよう。
温い湯に肩まで浸かり、そのまま口元まで湯に。
「……」
脳まで休まるような気分。風呂は偉大だ。
「きっと大丈夫ですよ」
イルミがアスカに掛けてくれた言葉を素直に受け止められる程度には落ち着いた。
神様も、湯船に浸かる時は嫌なことを忘れたりしたのだろうか。
そもそも神様でも嫌なことなんてあったのか、想像できない。
少なくとも休息は必要だったのだろう。休息神という神様もいたくらいだし。トゥルトゥシノという名前。
フィフジャのことばかり考えすぎても答えはない。だから別のことを考える。
伊田家でも、風呂は大事だった。
夏は、屋根に備えられた太陽熱の温水器がお湯を沸かしてくれる。
冬は違う。
冬に屋根の温水器に水が入っていると凍ってしまうので、中の水を抜く。
代わりにどうするのかと、当初はかなり試行錯誤したらしい。
外で湯を沸かして風呂桶に注ぐだとか。
家にあった図鑑や農機具工作の本などを参考に、水車の制作に取り掛かった。
曾祖父の源次郎や、祖父母、両親が共同で。
同じ形の板を何枚も作らなければならない。
木を、ただ丸く切るだけでは強度が足りない。いくつかの板を接いで、繋ぎ合わせて。
作っては失敗し、また直して試して。
とりあえず形になるまで二年間。そこから安定した形になるまで五年ほどかかったとか。
祖母の美登里が細かな作業を好んだらしく、板と板の継ぎ目がぴったりと合わさるよう削ったり、なめしたり。
家事やヤマトの育児の合間に、飽きもせずにやっていたと言う。
水車の部品が壊れた時の為にと、同じものをまた作っていたのをアスカも目にしていた。あれはまだ納屋のどこかにあるだろう。
山から流れてくる湧き水が川となっていて、そこに水車を据え付けて汲み上げる。家より少し高い位置に設置した水槽から、高低差で流すようにした。
その途中の石椀の下で火を焚き、お湯に変えて浴室に流す。
家族みんなで協力して作ったのだと言っていた。快適な暮らしを維持する為に。
便利なスキルなどなかったけれど、とりあえずノコギリやカンナなど工具はあった。
メジャーや計りなどだって、当たり前に使っていたけれど重要なものだ。
精度の高い工作物を作るには、相応の計測器が必要。
少なくとも、アスカはこれまでの旅の中でそういった道具を目にしたことがない。
度量衡と言うのだったか。
統一された基準というのがないのかも。
「こういう桶の大きさの決まりとか」
手を伸ばして桶を取り、湯を汲み上げてみる。
「水の量とか、どうやって数えるの?」
「水を数えるんですか?」
なんと聞いたものかわからなかったので、アスカの質問も不明瞭だ。
「TANNI……ええと、ほら、お金とか……重さ?」
「水を数えるか知りませんけど、重さなら樽や椀で比べますよ」
イルミが、湯を捨てて空になった桶をアスカから受け取りながら答える。
「食料の重さを樽一つで数えて税を計算するそうです」
世の中の仕組みとして、徴税がある以上は基準が必要だ。
昔の日本で言うなら一俵ということなのだと思う。
「塩なんかは、椀一杯でいくらとか。宝石みたいなものはまた違う測り方があるそうですけど」
宝石。そういえばアスカが船でダナツに渡したハウタゼッタ石は、実際いくらくらいになるのだろうか。
あの時は、なんとなく話の流れでまるごと渡してしまったけど。
「鉄鉱石なんかは荷車一つでいくらとか、そういう取引だって聞きました」
「樽とか荷車の大きさの決まりはあるの?」
「樽って、だいたい大人が一抱えに出来るくらいなんじゃないですか?」
適当だった。
イルミが知らないだけなのか、なんとなくそういう基準で成り立っているものなのか。
幅も深さも、あるいは使っている板の厚みだって。違えばそれぞれ内容量が変わる。精密な計測器などないこの世界では、こういう曖昧な基準でも許されるのかもしれない。
それを悪用する人間だっているのではないか。
「長さの基準みたいなのはあるの?」
フィフジャに聞いておけばよかったかもしれないが、これまであまり疑問に思わなかった。
今、メジャーのことを思い出すまでは。
「こうやって指を広げて、両手を並べた長さを一尺って言うんですよ」
左右それぞれの人差し指と親指をL字に立てて、親指と親指の先端を合わせて人差し指を反対に伸ばす。幅で言えばおおよそ三十センチ弱くらいの長さ。
物を知らないアスカにイルミはお姉さんのような得意げな顔をする。先生役というのが楽しいらしい。
クックラも聞きながら手を広げて、ぐーぱーする。
「実際には大人の男の人の手で計るんですよ。クックラの手だと半分くらいですね」
小さなクックラの手に目を細めながら微笑んで。
この基準も曖昧だ。大きな手の人もいるだろうし小さな手の人も。
「国によっては、王様の手の大きさで作った物差しとかがあるそうです」
「そういうものね」
一応はそれが統一基準か。
人間の手の大きさなのだから、極端な違いは出ないのだろう。
目くじらを立てて気にするよりも、曖昧な中で損をしたり得をしたりしていれば結局は五分五分。
ノエチェゼで見かけた浮浪民も、分け前を目分量で適当に分けていた。
どこかの大きな力を持った誰かが基準を定めない限り、統一した規格なんて絵空事。
不便なこともあると思うが、それも文明過渡期のこの世界では常識として皆が納得している。
仮に統一基準を決めるのなら、ゼ・ヘレム教こそがそういう影響力を持っているのだろうけど、やる気がないのか何なのか。
「それにしたって」
浴場を見回しても、綺麗に作られている。
大聖堂もそうだったし、教会などの建物も一定の基準できちんと作られていた。
神様が作ったというのだから、神様は規則性に基づいた設計をしたのだと思う。
それを人間には伝えなかったのか。あるいは、伝えられたけれど失われたとも考えられる。
長い歴史の中、龍だとか魔王だとか、そういう戦乱もあって。
「……そうね」
神がこの町を作った意図を少しだけ察する。
神は死んだ。
死んだというのが正しいのかわからないけれど、消えた。
滅びたとすれば、永久不滅の存在ではない。
彼らにも死があり、生があったということ。だとすれば病気や飢えなどもあったのかもしれない。
この町を作り、人間と共に暮らした神々。そこには神側の何らかのメリットもあったはず。
食事を大切にしたというのだから、食料生産などの労働用だったのかも。
農耕や畜産による食べ物の確保。
彼ら自身が快適に過ごす為の環境整備として、人間を利用した。互助関係だったのかもしれない。
水源を確保して、下水の整備もして。大衆浴場も衛生管理の一環だったのだと思う。
不衛生な環境では病気が蔓延るし、そもそも汚いのは嫌だというのは神様も同じ。
風呂を愛したのなら、そういうことも考えられる。
割と人間的だな、と。
口に出したらイルミが怒るかもしれない。ヘレムの信者として信仰の対象だろうし。
不思議にも思う。これだけの町を作る力があって、人間の協力など必要だったのだろうか。
挙句に、人間と争うことになり、彼らは消えてしまって。
「……」
奇妙な気がした。
力関係が違いすぎるような。
そもそも、神々が世界を作り、人間がここに現れた?
そうすると人間はどこから来たのだろうか。
もしかして異世界から……地球から来たのではないか。
そう。この世界の生き物が地球と極めて近い部分があることにも、父や母は疑問を呈していた。
日本から連れて来てしまった猫たちや、犬のマクラ。
この世界で出会った似た種族と子を生すことが出来たのは、何か理由があるのではないか。
――もしヤマトが望むようなら、その時はアスカ……
母の言葉を思い出す。
――あなたが嫌でなければ、ね。
「……」
「どうかしたの、アスカ?」
思わず拳を握り黙り込んでしまったアスカに、心配そうな顔でイルミが訊ねる。
「温いけれど長くいたからのぼせてしまったかしら?」
「あ、ううん。大丈夫」
湯は熱すぎない程度のぬるま湯。アスカは本当はもう少し熱いくらいが好きだけれど贅沢は言えない。
「ちょっと考え事しただけ」
「フィフジャのことなら、きっと大丈夫」
そのことではなかったけれど、イルミの気遣いに頷いて応じる。
もっと神々のことを知りたい。
フィフジャを助けることはもちろん優先するにしても。
神々の知識には手掛かりがあるかもしれない。地球とここを繋ぐ何かが。
父や母は、アスカ達が地球に帰れることを願っていた。
両親だって地球に帰りたかったはず。その手掛かりがあるのなら知りたい。元々サナヘレムスに来た目的はその調べものの為だ。
「なんでもないの、平気」
「うん」
アスカを見上げるクックラにもう一度頷いて、湯で顔を洗った。
それから大きく腕を伸ばす。
「うん、大丈夫」
今度は自分に対して。
やはり風呂は良い。
リラックスさせてくれるし、考えをまとめるのにも。
旅の目的。今すべきことや、出来ること。出来ないこと。
全部をまとめて解決など出来ない。そういう力も知識もないのだから。
今、アスカがどうすべきなのか。
見直して、見つめ直して。
フィフジャに頼り過ぎていたことも反省した。彼がいなくて何も出来ないのでは依存だ。
もっと知らなければならない。
この世界の当たり前のことも、当たり前ではないことも。
そうして初めて、自分がやるべきことも見えてくるだろう。
「よしっ」
ぱん、と頬を叩く。
「今日はゆっくり寝る」
宣言した。
思い悩んでも、不安に苛まれても、前に進めない。
なら今は体と頭を休めよう。
「それがいいと思うわ」
「ん」
聞いていたイルミとクックラが、ほっとさせてくれる笑顔で頷いた。
世界は何も教えてくれない。
それがどうした。当たり前じゃないか。
知りたいことを知る。何を知らないのかを知る。
自ら学ぶことを止めない。それだけが世界を知るたったひとつの方法なのだと思う。
◆ ◇ ◆
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