二_050 道をひらく



「くぁっ⁉」


 雨の中、石造りの家の塀に叩きつけられる少女。

 それを見世物のように見ている群衆と、目にしたものが信じられないという面持ちのフィフジャ。

 周囲の状況に圧倒されているようなボンルの顔もある。


「アスカ!」

「だいじょう、ぶ」


 叩きつけられたと言ったのは嘘だ。

 ちゃんと受け身を取っている。痛かったけれど。



 アスカの掌底を、紙一重で躱したその赤帽子の動きは想像を超えていた。

 躱されるはずがない。

 綺麗に、無駄のない動きで。そんなことがあり得るとは。


「っ!」


 次の瞬間、赤帽子の蹴りがアスカの腹を捉えた。

 それも嘘だ。捉える直前に両手をクロスしたアスカのガードが間に合っている。

 だが体重の乗った蹴りは、アスカの体を元来た方の建物の壁まで数メートルほど軽々と吹っ飛ばしていた。


「ほんっとにすっげぇぞ。チビちゃんのくせに驚かせてくれんじゃんねえか」


 蹴り飛ばした赤帽子が嬉しそうに笑う。


「今の掌底も……こりゃあ相手が俺じゃなかったら死んでるぜぇ、ほんとに」

「るっさい! 絶対殺す!」


 蹴り飛ばされ壁に叩きつけられる直前に手を当てて衝撃を殺した。

 完全には無理だったが、そのままの勢いでぶつかったわけではない。


(って、こんな顔しといてちょっと強いじゃん)


 口元を手の甲で拭う。

 血は出ていない。まあ顔にダメージがあったわけではないので、もし血が出ていたら内臓や肺のダメージということになる。それは致命的だ。


 ふざけた奴め。

 咬ませ犬かと思ったのに、驚くほどの実力だった。

 もしかしてこの世界の戦士ってみんなこれくらい強いのだろうか。アスカが世間を知らなかっただけで。


(……違うわね)


 フィフジャも驚いているし、ボンルも明らかに唖然としている。演技ではなさそうだ。

 他の野次馬たちやツウルウにしても、このヤルルーとやらの実力を知っていて恐れているようだ。


「ヤルルー……プエム、御三家か!」


 記憶を探り当てたようなフィフジャの言葉に、ふんふんと頷く赤帽子。

 いちいちむかつく。


「っても兄ちゃんもひでぇな。こんなうまそ……可愛いおチビちゃんを戦わせて、自分は見物ってなぁ」


 げひひひ、と笑う。

 笑い方も品がない。

 野次馬の何人かもそれに釣られ嘲笑する。女の子を戦わせている情けない男、と。



「何を……」

「フィフ、いらない」


 言葉を繕う余裕がない。

 強敵だ。

 軽くいなしてやろうなんて考えていた自分が間違っていた。舐めていたのはアスカの方だった。


「いらねえってよ、色男」

「アスカ……」

「いらない」


 もう一度。

 言葉は少ないがわかってくれると思う。たぶん。

 大丈夫だ、と。


「……」


 フィフジャの返答はない。雨音だけが響く。

 わかってくれたのだろう。アスカの気持ちが。


「こいつ、絶対に泣かす」

「う、ぶっ……ぶわぁっはっはっは! おもしれえ、おもしれえなぁ。可愛いうえにおもしれえってお前最高だぜおチビちゃんよ。絶対に持って帰るぜ、これは」


 大笑いしているヤルルーに、体勢を整え直して相対する。

 笑ってはいる。けれどこれはこの男の油断ではない。誘いだ。

 常人ではない実力を備えつつ、こんな空気で相手の気を逸らしているのだろう。本当に厄介な男だ。


 様子見程度にと仕掛けた相手に強烈な一撃を食らわせて勝利。そんな手口。

 見事にアスカも引っかかってしまったが。



(だけど)


 やはり油断しているのだ。この男は。


(私の見た目がとてもキュートでセクシーだったから、その一撃を緩めた)


 実力のよくわからない少女を殺してしまわない程度と、本来なら必殺の一撃だったカウンターを適度に弱めた。


(私が可愛かったから)


 もう一度、自分に言い聞かせる。



「……ふふ」

「あん? どうしたよおチビちゃん」


 口元に笑みを浮かべたアスカに、眉を寄せて訪ねてくる赤帽子に首を振る。

 確認しただけだ。やっぱり私って可愛くって天才だな、と。


(もちろんそれもだけど)


 落ち着いてみたのだ。ヤマトならどうするだろうか、と。

 父なら、母なら、どうするだろうか。

 何とかなりそうだった。単純な筋力なら不足するので、それ以外の方法でも。


「おとなしく俺の言うこと聞くってんなら、それも悪くはねえ」

「救いようのないバカみたいね」


 やれやれと嘆息する。息を整える。先ほどのダメージはもう残っていない。

 大丈夫、だ。


「そうそう、その生意気な感じの方がおもしれえ。一昨日のガキもそうだったけどな」

「ガキ? 知らないけど、面白がっていられるのも今だけよ」


 アスカが身構える。


「フィフ、ツウルウが怪しい!」

「見えている!」

「ちぃ」


 成り行きを見守っている野次馬の中、ツウルウだけがアスカの死角へと動こうとしていた。

 指摘するまでもなくフィフジャは把握していたようだが、他の野次馬に対する牽制でもある。見ているぞ、と。


「じゃあ、いく」

「きなよ」


 両手を広げて迎えようと、抱きしめようというかのようなヤルルーの姿に嫌悪感を抱く。

 変態め。


「ほぅっ!」


 ダッシュで飛び込みながら下段への蹴り。

 当然のように一歩引いて避けられる。

 そのまましゃがみながら回転してもう一度蹴り。これも足を上げて回避。

 意識を下段に集中させてから――


「っ!」


 地面を蹴る足と一緒に、左手で雨に濡れた石畳を叩く。

 手足を使っての跳躍。からの顎への右の掌底。


「まだまだってな」


 下段から飛び上がったアスカの掌底を身を逸らして躱すヤルルー。

 空中で姿勢の制御が出来ないアスカを、今度こそ両手で捕まえようと――


「ふ、っぐ」


 掴みたかったのは襟だ。

 まともに打撃技が当たると思っていたわけではない。この男はその手の戦いには慣れているようだったから。

 右手の掌底を交わしたヤルルーの襟元を、左手で掴む。


「っとぉ!」


 引きずり倒す。左手一本で。

 しかしヤルルーの方が筋力も体格も上だ。少し前のめりになっただけで倒れるまでにはならない。


「残念だな」

「でもない、から!」


 左手を引いた反動で、アスカの小さな体がヤルルーの背後に回っている。

 ちょうど頭の後ろ辺りに。


「⁉」

「あんたなんかには勿体ないけど!」


 今度はアスカが抱き着くような格好でヤルルーの頭を抱え込んだ。

 後頭部にアスカの乳房が押し付けられる。さほどなかったが。


(殺す)


 右手と左手で、後ろからヤルルーの服の襟を掴んだ状態。

 そこから腕と襟とで締め上げた。その首を。

 送り襟締めとチョークスリーパーの変形のような締めだった。


「ぅ、ぶぇ……ふ、っ」


 己の頭の背後にいるアスカに手を伸ばそうとするヤルルーだが、おんぶと肩車の間ぐらいの位置にいるアスカは足で肩を抑えている。

 届かない。

 届いたとしても、力が入る姿勢にならない。


「ぅ……がっ……!」


 見る間に顔が赤く、また青黒く血管が浮き出てくるヤルルーを見て安心した。

 わかってはいたが、この世界の人間の体の構造も地球人と大きく変わるわけではない。

 首を絞められれば血流が止まり呼吸も出来ない。

 今まで誰かに試す機会がなかったので、実戦で確認できて良かった。



「ぅ、ぁ……っ‼」


 ヤルルーが力を振り絞って走り出した。壁に向かって。

 近くの石壁に向かって。

 後ろ頭の上のアスカを叩きつけようと背中から体当たりをした。


「ぅらぁぁぁ!」


 声を出せた段階で、絞めは解かれているのだ。

 石壁に肩から激突したヤルルーの後ろで、とんっとアスカが着地するところだった。


「うえ、きったな。涎ついちゃったし」


 首を絞めていた際に腕についたヤルルーの涎を服で拭う。

 雨でも流れるが、やはりねっとりとした涎は気持ちが悪い。


「う、ぉ……」


 石壁に強打したヤルルーは脳震盪でも起こしているのか、ふらふらと立ち上がりながら何かもごもご言う。

 その額から血が流れているのを見て少し気が晴れた。さっきの仕返しは出来た。

 ざまあみろ、と。



「て、てんめぇ……」

「やーい、ばーかばーか」


 べえ、と舌を出してコケにする。


「アスカ……」


 物言いたそうなフィフジャだが、容赦してほしいと思う。

 アスカは精神的に未熟な十二歳なのだから。都合のいい時は。


「まだやるの?」

「き、気に入った……あぁ、すげぇいい、アスカって言ったか」


 名前を憶えられた。嫌悪感マックスな男に名前を呼ばれた。

 今日はなんて最悪な日なのだろう。



「へへ、ぜってえにお前は俺のもんにする」

「うわ、気持ち悪い」

「おいお前ら」


 ヤルルーが声を掛けた。周囲に。


「こいつらを捕まえろ! いくらでも金ならやるぞ。プエムの命令だ!」

「ちっ」


 覚束ない足取りで野次馬に向かって手を掲げて煽るヤルルーに、ざわめきから喝采が起きていく。


 狂気。

 湧き上がる群衆の邪念が、涎よりも気持ちの悪い感触を肌にまで伝えてくる。



「逃げるぞ!」


 わかっている。言われる前に既にクックラから荷物は受け取っている。

 鉈も、手にした。


 こうなっては人死にが出ても仕方ない。さもなければ死ぬのは自分だ。

 人数の少ない方に駆け出すアスカたちと、追いかけようとする群衆。


 フィフジャの蹴りが、前方にいた一人を蹴り飛ばしてついでにその辺の連中もなぎ倒した。

 近付いてきた群衆の一人にアスカはナイフを投げた。牙兎の牙で作ったナイフ。

 腿に刺さったナイフを見て、倒れながら泣きわめく男とそれに躓く連中。


 人数が多すぎてドタバタだ。群衆同士で押し合いになっているのはいいが囲まれてしまうわけにはいかない。


「クックラ!」

「んっ」


 幼女も必死。荷物を持っていないこともあるが全力で走っている。

 おそらく太浮顎や岩千肢に襲われた時も、こんな風に走ったのだろう。

 小さな背中に、生き残りたいという意思を感じる。



「お、お前らやめ――」

「ぬぁぁぁぁぁ!」


 一瞬、聞き覚えのある声に視線を走らせると、丸っぽい巨漢が迫ってくるのが見えた。


「ウォロ!」


 届く。

 手が届く距離にいる。お互いの手が届いてしまう距離に。


 右手の指が折れ曲がっているのに、構わずにアスカを捕まえようと手を伸ばすウォロ。

 胴が、がら空きだった。


「――っ」


 鉈を握る。

 走り抜けるには無理だった。ウォロの位置はちょうどアスカたちが逃げたい道に近い。


 鉈を握る。握りしめる。

 この鉈で、大森林でどれだけの獲物を切り裂いてきただろうか。

 切れ味は悪くない。生き物の皮や肉を割くのに不便を感じたことはなかった。

 骨でさえ断てる。

 生い茂った草木を払うのにも使ってきた。

 役に立つ道具だった。これまでも。


 この状況でも、きっと。

 道を切り開いてくれる。アスカが生きる為の道を――



「――っ!」


 振るった。

 そうして、逃げ延びた。


 雨が勢いを増してくる中、アスカはその鉈の柄を握ったまま、走り続けた。



  ◆   ◇   ◆

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