二_048 舐められるアスカ_1
舐められたら終わり。
どう繕ったところで自分たちはまだ若く、この世界のことをよく知らない。付け入る隙を見せたらお終いだと。そう思っていた。
しかし間違いだったと認めざるを得ない。
舐められたところでそこで終了ではない。相手がこちらを食い物にしようとするのであれば、それを後悔させてやればいいのだ。
舐められっぱなしで終わり。そうならなければ敗北ではない。
「っく」
「あっしはこっちでもいいんですがね」
肘の辺りから手首にかけて、濡れた芋虫が這い回るような感触に怖気立つ。
白い――いや、日焼けしているので別に白くはないが、精神的に純白と言ってもいい肌を、不愉快なぬめった感触がなぞる。
「この」
腕を掴んで自由を奪う者の顔を睨みつける。
にやけた糸のように細い目の隙間から、汚泥のように濁った瞳が覗いていた。
狙っていた獲物を手に入れた
気味が悪い。
こんな気持ち悪い生き物に、大切な自分の肌が舐められているなんて。
「やめなさい、よ!」
「おっと、おっかねえ」
ツウルウは、アスカのばたつかせた足をひょいと避ける。身軽なのは見た目だけではなかったらしい。
捕らわれ抱えあげられている体勢では満足な抵抗ができない。
「アスカ!」
叫ぶフィフジャは、別の男たちに纏わりつかれている。
纏わりつく。その言葉通り、周囲にいる連中は戦いに慣れたものでもないし、まともな武器も持っていない。
それでも六人もの人間がフィフジャに向けてタックルを仕掛ければ、狭い所では避けようがなかった。
室内。
薄暗い小さな個人食堂のような建物。
みすみすそんな場所に入ってしまった理由は単純だ。黒鬼虎の毛皮を裏ルートで買い取ってくれる当てがあると。そう聞いたから。
(信じて……違う、油断してた。こんな)
周囲を取り囲む男どもがフィフジャに抱き着くようにしがみつき始めた時、何が起きたのかわからなかった。
もしかして何かの挨拶かと戸惑う。そんなアスカを一番後ろから入ってきたツウルウが拘束した後になって、自分の油断に気が付いた。
拘束ついでにアスカの体をまさぐるツウルウに激しい嫌悪感を覚えるものの、体格では圧倒的に小さなアスカの体は宙に浮いて踏ん張りが利かない。
掴まれ吊り上げられた二の腕にツウルウの舌を這わされ、思わず息を飲んだ。心臓が止まるほどの不快感。
こんな下衆に肌を舐められるなんて、死にたいくらいの屈辱だ。ただで死んでやるつもりはないにしても。
とにかくどうにかして――
「うぅ!」
ふら、とツウルウの体勢が崩れる。アスカが暴れたからではなくて、その膝の後ろ辺りにしがみつくクックラが。
「っと、こんガキ」
「っ!」
揺れたおかげで、ほんの少し向きがが変わる。
建物の中は広々としているわけではない。小さな食堂くらいとなれば、数人が入ればやや手狭な程度。
その壁に、アスカの足が届いた。
「ぬああああぁぁつ!」
思い切り蹴った。壁を。
不安定な姿勢だったので全力ではなかったが、体勢を崩しかけていたツウルウの細い体躯を押すには十分だった。
「ちぃっ」
転んでしまうことを嫌って、アスカから手を放して距離を取るツウルウ。
「ありがと、クックラ」
「ん!」
フィフジャにまとわりついているのが戦力に数えられない人間の塊だというのなら、クックラもそうだ。それでも全くの無力というわけではない。
必死にツウルウの足に体当たりをしてアスカを助けてくれた。
自由になり改めて敵に対する殺意を込めた視線で睨みつけた。
「この、裏切り者!」
「あっしはあんたらの仲間ってわけじゃあないんでね。ウォロ!」
「っ!」
「このっ、どけよ!」
フィフジャがしがみついてくる男どもを殴り飛ばすが、彼らはまた起き上がってフィフジャの腰辺りにしがみつこうとする。
金で雇われただけの貧民。殺意を持って襲ってくる相手ではないので、フィフジャ自身も対応に戸惑っているようだった。
まともな戦力でもないくせに、フィフジャの動きを阻害するためだけの障害物として。
「ウォロ、あなたも裏切るのね」
「うぅ、だってなぁ……」
ドアの外から入ってくるウォロにも、ツウルウに向けるのと同じ冷たい視線を突き刺した。
段取り次第では、外に出たアスカたちを襲うために屋外で待機していたのだろう。
舌打ちしながら左手の内側を服の腹あたりで拭う。さっき舐められたところを。
元から湿っている服が重い。屋外の小雨のせいで水分を吸った服からいくらか水滴が落ちた。
「ボンルさんがなぁ」
「……」
ボンルが裏切ったということか。
手下二人にこんな罠を仕掛けさせて、当の本人はどこにいるというのか。
(卑怯者)
少しでもいい奴かもしれないと思った昨日の自分を恥じる。
「何のつもりよ!」
とりあえずフィフジャはいいだろう。亡者のように纏わりつく連中もいずれ力尽きる。意識を失ってまで動きはしないはず。
少し時間を稼ごうと問いかける。こんな連中ともう語る言葉などないが。
「あんたらは、自分の持ってるもんの価値がわかっちゃいねえ。あっしらがもっとうまく使ってやろうかってんで」
「ふざけたことばかり」
「それに、あんたですぜ。お嬢ちゃん。あっしなら、お嬢ちゃんをお求めのところにうまく運んでやれるかと」
ひひ、と舌なめずりするツウルウに夏だというのに寒気を覚える。
お求めのところというのが何なのか、いちいち気にしたくもない。
「フィフ!
それでも一応は言った。言ってから、なぜそんなことを口にしたのか自分でも不思議に思うが。
既にこれは戦いだ。命と財産と尊厳の奪い合い。
宣言する必要があったのかどうか。
許可が欲しかったのかもしれない。甘えだ。人を殺す許可を得ようなどと、フィフジャに責任を押し付けている。
もう一度、胸中で舌打ちした。甘ったれた考えに。
「あ、ああ! だがアスカ、俺が……ええぃっ!」
「うぎゃあああああああああっ!」
フィフの苛立った声に被せて大きな悲鳴が上がる。それを聞いてフィフジャに絡みついていた連中が後ずさる。
「う、腕がぁ、うでがァ……」
「ひっ」
腕をへし折ったか、斬ったか。
躊躇している場合ではないし、相手は本職の戦士などでもない。腕を折られれば戦意も失うだろう。
ちらりと見れば、完全にあらぬ方向に曲がった腕を床に転がして泣き伏せている男と、怯えたようにやや距離を取る他の襲撃者。
「っとに、何をやってんですかね。その男に噛みつくなりなんなりすりゃいいんだって話したでしょうが」
「……次は殺すぞ」
ツウルウにけしかけられる貧民に向けてフィフジャが短く言い放つ。
今までアスカが聞いたことがない声だ。対象ではないはずのアスカでさえ、ぞくりとするような声音。
腕をへし折られた仲間と冷たい声音に、取り囲んでいた連中がやや離れる。
誰だって真っ先に殺されるのが自分というのは避けたい。
「アスカ、俺がやるから――」
少し余裕のできたフィフジャが声をかけたところで、
「っとにしゃあない」
ツウルウが手にした何かを投げつけてきた。
撒く、といった方がいいか。腹の辺りから手にした粉のようなものを、アスカとフィフジャに向かって放つ。
――毒!
のはずはない。こんな狭い空間でそんなものを使えば自分たちも無事には済まない。
目くらましか何かだ。
「はああっ!」
アスカの手元から突風が吹き荒れた。
「っ⁉」
さっきから用意していたのだ。
隙をつくる為に、大きく空気を振動させようと思って。
アスカの手の中に、わずかな水を用意していた。
外の小雨で服に染みついた水を絞って。どこから出たものでも水分に違いなどない。
手の平に集中して、代償術の要領で強い力を込めた。感電とかそういうことは考えていなかったが、体内に流れる電気風なエネルギーは制御できた。
一瞬の間に、その水分にだけエネルギーを与える。
水分が蒸発すると膨張して水蒸気になる。
地球の落雷事故でもある。水たまりが一気に蒸発して破裂するように衝撃を発生することが。
咄嗟の思い付きではない。実は既に実験済みだった。フィフジャには隠れて。
ウォロが入ってきたドアは開いたままだ。巨漢のウォロはドアを閉じると窮屈だと感じてちゃんと閉めなかった。
突如として発生膨張した水蒸気が、瞬間的な突風になってドアの外に向かう。
ちょうどツウルウたちが通せんぼしている方に向かった突風は、ツウルウが撒いた何かの粉も一緒に吹き返していた。
「う、ぉっ⁉ っち、なんつう……」
「クックラ!」
駆けだす。
クックラの小さな体がウォロとツウルウの足元をすり抜けて外に。
投げた粉を反対に顔に返されたツウルウは前が見えていない。アスカもクックラの後を追いかけつつ、足を止めた。
「たぁっ!」
ツウルウの腹あたりを蹴り飛ばす。
今度こそ、渾身の力を込めて。
だが少し硬い感触だった。何かしらプロテクターを仕込んでいたらしい。
「ぼふぇ!」
それでも背中を壁に叩きつけられた衝撃は殺せなかったらしく、反吐を吐いて倒れるツウルウを見て少しだけ気が晴れた。
(こんなもんじゃ……)
とどめを刺したい。
けれどそんな余裕はない。フィフジャが後ろから駆けてきてアスカを外に押し出そうとするけれど。
「ぬぉぉ!」
目を潰されているウォロだった。
満足に見えないまま、手探りでアスカを捕まえた。
「こ、このっ!」
腹を掴まれ、持ち上げられた。
足をばたつかせるがその程度で離れてくれるわけではない。
「こ、のおおおぉぉ!」
全力で引きはがそうとするアスカだが、ウォロの力の方が強い。
「アスカ! ちぃ!」
助けようとしてくれるフィフジャに、動揺していた貧民の男たちがまた群がってきた。
殺されると怯んでいたけれど逃げるアスカたちを見て優位だと思ったのだろう。このまま逃がしたら金がもらえないという理由だったかもしれないが。
「ぅぅう!」
ウォロの力は強い。全力のアスカよりも強い。
だが、指一本だけなら違う。
アスカの脇腹辺りを掴んでいるウォロの人差し指を、両手で強く握りしめた。
「こんなのぉぉ!」
ぐきゃり、と。
「ひっぎぁぁぁぁぁぁぁ」
悲鳴と共に床に落とされるアスカ。丁寧に下ろされたわけではないので床に転がる。が、すぐに立ち上がる。
掴まれた際に落としてしまっていた自分の荷物を掻っ攫うように拾い上げた。
「ばっ、デカブツ!」
視界を取り戻しつつあるツウルウが喚く。
本人は自分が何を撒いたのかわかっていて、突風に対して咄嗟に対応が出来たのかもしれない。完全に防げたわけではなかっただろうが。
「アスカ!」
まとわりつく男たちを振り払ったフィフジャと共に外に飛び出した。
◆ ◇ ◆
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