伊田家 第二十四話 老練
「すごい、すごいよ源さん」
「まあ……そうだのぉ。はあぁ……」
駆け寄る寛太を横目に、源次郎は肩で息をしながら座り込んだ。
ウシシカはもう立ち上がることはない。
「……あぁ、そこらに、はぁ」
源次郎の息が切れているのは仕方ない。
駆けつけてきた寛太に源次郎が何か言いかけるが、その前に寛太は足場を失って前のめりに転んだ。
「ぶっ!?」
「そこら、掘ったんじゃ」
気ぃつけい、と言う言葉は遅かった。
顔面から転んだ寛太が涙目になりながら見たのは、息絶えたウシシカの顔のどアップだった。
いや、まだかすかに口がひくひくと動いているが、その目はもう生きた動物の目ではなかった。
野生動物の臭いに顔をしかめながら立ち上がる。
「なる、ほど、ねぇ……落とし穴か」
この辺りではよく転ぶ寛太だった。
よく見れば草むらの中に、長さ三メートル、深さは二十センチから三十センチほど溝が掘ってある。
掘った泥は湖の方に捨てたのだろう。溝の末端は湖に程近い。
先にその溝を掘ってから獲物が来るのを待ち、この溝に足を突っ込むよう追い込んだのだ。
平面だと思っていた地面が急にへこんだら、走っている動物からすれば地面が抜けたように感じただろう。
階段の上り下りで、最後の一段だと思っていた後にもう一段あった時の感覚。何かに追われて逃げている時にそれがあったら転んで当然だ。
「この深さでも十分に意味があるんだね」
「たまたまうまいこと嵌ったちゅうもんじゃ」
とりあえず試してみた、という程度のことだったらしい。だが効果はバツグンだし成果も素晴らしい。
念願の牛肉らしきものを手に入れた。
「すごいよ、源さん」
「まあ、こんなもんかの」
謙遜している風だが、顔は得意げだ。
この老人のわかりやすい性格は、周りを安心させてくれる。
「ほんと、すげぇや」
小さい頃から知っている爺さんだが、大人になった今でも勝てる気がしない。人生の楽しみ方を知っているような。
経験が豊富で、それを活かして生きている。見倣いたい先達だと思う。
彼の妻、住ヱがいた頃のことも寛太は知っている。源次郎の収穫を控えめに褒め称えて、得意になる源次郎を優しく見守るような女性だった。年上女房だったとか。
「これで芽衣子たちに牛肉を食べさせてやれる。喜ぶだろうな」
「ちょうどええ、解体してしまうからあっちの水場までむそんで(運んで)くれ」
寛太の手を借りて、湖のほとりの方へとウシシカを運ぶ。
「一人だったらどうするつもりだったのさ?」
「……まあ、なんとかなったじゃろ」
考えていなかったらしい。
ウシシカの重さはかなりのものだ。一〇〇キロ近いのではないかと寛太は思った。
まだ微妙に息があるようで、時折足が震える。
湖のほとりの浅瀬まで来ると、源次郎はウシシカの首をステンレス製のナイフで切った。
溢れるように真っ赤な血が流れ出して湖に滲む。
「冷やせばええんじゃがの」
源次郎が言う。
「血抜きよりも、はやに肉を冷やせばうまい肉になるんじゃ」
湖にウシシカの血が流れていく。
源次郎は靴を脱ぎ素足になって浅瀬に入る。
(ワイルドだなぁ。ヒルとかいないのか?)
「そこらの、ああその、こまいススキをまとめて切ってくれんか」
源次郎から渡されたナイフで、岸辺に群生しているススキを小さくしたような草を一掴み切り取る。
「ああ、真ん中くらいで畳んで、もう一度切ってな」
折り曲げて、もう一度その折れ目を切る。
そうすると、切り口がつんつんとした、稲刈り後の切り口のようなものになった。
それを受け取った源次郎が、水の中でその草の切り口でウシシカの毛皮を梳いていく。
ブラシだ。
細長い草をまとめて切り取って、その場で簡単なブラシを作ってしまった。
泥やらなんやらで汚れた野生動物の体毛を、その自前のブラシで洗い流す。
「源さんは何でも知ってるなぁ」
「こぎゃんもん何でもないわ」
そう言いながらもちょっと誇らしそうにしている源次郎。
自然にあるものを利用してそのまま生活に役立てる。
寛太は素直に感心するしかなかった。
あらかた汚れを落としてから、ウシシカの身を水で冷やしながら腹を裂いていく。
血抜きも冷蔵も決して十分だとはいえないのだが、精肉工場でもないのだから仕方がない。
出来る範囲で、出来ることをするまでだ。
ひっくり返してみたところ生殖器が見当たらないのでメスなのだと思った。そういえば角もなかったか。
臍より少し下の辺りを、縦に薄く切り裂いていく。
「深くやるとはらわたが破れてクソ塗れで食えんからの」
寛太としても、こういう哺乳動物を解体するところは初めてみる。決して気分が良いものではないが、そんなことを言っていたら生きていけそうにもない。
源次郎の言葉と手順をよく見て学習する。
薄く裂いていくと、ある一定のところを超えた途端に腹の内部から内臓が飛び出してきた。
ぶりゅんっと。
ナイフでそれを裂かないように咄嗟に手を引っ込める源次郎。
「腹圧、ってやつか」
体内での内臓はそれなりに圧迫して詰め込まれているという。それが切り口からあふれ出してきた瞬間だ。
溢れた内臓を避けながら、股間から喉あたりまで縦に裂いてしまう。
「そっちは?」
「肛門のとこらを切っとかんと、内臓がうまいこと取れん」
肛門の周辺にもナイフを入れていた。
「ああ、ノコを忘れとった」
「ノコギリがいるんだ」
「骨を切るにの、ノコがあったがよかったわ」
まあ仕方ないといった風に、ナイフを置いて手斧に持ち変える。
股関節の骨と胸骨を切断しないと、内臓が取り出せないらしい。
そんなようなことを言いながら作業を進める源次郎に、ふんふんと頷きながらマクラと一緒に見守る寛太。
一応、警戒もしている。
血の臭いで危ない生き物が寄ってきたりしないだろうか、と。
湖には、そういう様子はなかった。時折、寛太が釣ったような魚が姿を見せるが、人の気配を感じるとすぐに姿を消してしまう。
寛太が心配したサメやピラニアのような生き物は、やはりこの湖には存在しないらしい。
コケや藻、あとは小さな虫を主食とする川魚ばかりの様子。日本の河川とあまり変わらない。
そうこうしているうちに、無事にウシシカの内臓は分離が出来た。
「これでいいの?」
「そげだの。あとは皮を剥いでやりゃあええ」
言いながら、源次郎は切り取った内臓を先ほど自分が掘った穴に放り込み、そこらの土で埋めていた。
残っているのは、まだ半分水に浸かっているウシシカの肉。血や内臓がなくなって軽くなったとはいえ、まだ五〇キロ近くあるのではないだろうか。
「あ~、これを家まで運ぶのはかなりきついかな」
「猫車がいるじゃったの」
ウシシカの皮をはぎながら、ふうと息をつく源次郎。
狩猟が成功した場合のことは考えていなかった。往々にしてそういう時に当たりが出るものだ。
「俺、取ってくるよ」
「あぁ、そげだの」
危険はなさそうだと判断して、早足で家に戻っていく寛太。急いでも往復で二時間はかかる。
その間に解体を済ませてしまおうと源次郎は作業を進めた。
ウシシカの皮は、切れ目からぴりりいっとかなりの範囲が繋がってめくれる。
これが猪だとそうはいかない。皮が少しずつしかめくれないものだ。やはりこの生き物はシカに近いのだろう。
こういった解体の手順や、どうするのが適切なのか。
家のどこかに狩猟関係のことが書かれた本があっただろう。源次郎も自分の経験則ほどのことしかわかっていない。
正しい手順でやっているというわけでもない。
「健一や日呼にも、教えておかんとなぁ」
狩猟もだが、解体にはかなり体力を使う。いつまでも自分も若くはないのだと。
不便な生活だ。
不便になったから、家族として、親子として話が出来るようになったところもある。
「ま、悪いことばっかりじゃあないの」
『クゥン』
源次郎の独り言に応えるマクラ。
今はマクラも群れの仲間として立派に貢献してくれる。
「わしは、こういう生活も悪くはないかの」
共に生きているという実感が嬉しい。
健一に聞かれたら怒られるだろう。のんきなことを言うなと。
日呼壱は、どうなのだろうか。もやしっ子だと思っていたのだが、案外と図太くこの生活に適応しつつあるように見えた。
芽衣子は、今は何も問題ない。キャンプ生活を楽しんでいるようにも見えるが、さすがにまだ幼い。文明社会から切り離されて、今後不満が耐えられなくなることもあるだろう。
「芽衣子ちゃんだけでも帰れるとええんじゃがの」
伊田家全員の共通の思いだが、その方策が思い当たらない。
今は、出来るだけストレスのない暮らしをさせてやろうとするだけだ。
◆ ◇ ◆
寛太が戻ってくる時、一緒に芽衣子もついてきていた。
朝飯も食べていなかった源次郎に握り飯を届けてくれる。具は塩焼きした川魚の白身のものと自家製の梅干のものがあった。
「本当に湖だ」
初めてここまで来た芽衣子は湖の景色に喜んでいる。
これまでは危険があるかもしれないと連れてくることはなかった。
握り飯を食べながらその姿を眺める源次郎と寛太。
「夏になったら泳げるかな?」
「どうかな、それまでには帰りたいけど」
芽衣子の希望に苦笑しながら寛太は自分の希望を言う。
「そうだけど、帰れなかった時だってば」
「サメみたいなのはいないみたいだけどね」
本当に泳ぐのなら、もう少し入念に調査しないと不安だ。
夏になってもこのままなら、芽衣子が泳いでも危険がないか確認してみようと源次郎は思うのだった。
遊ぶことで芽衣子のストレスも減るだろうし、日呼のストレスも減るのではないか。
水場ではしゃぐ美少女。
悪いものではなかろう、と。
源次郎は、健一よりも柔軟な思考の出来る理解のある大人だと自負しているのだ。
ウシシカ肉はとても柔らかかったが、日本で購入する肉よりも少し臭みがあった。季節の影響もあるだろうが、狩った後の処理を適切にしたらもっとうまくなると源次郎は言った。
そんなことは些細な問題で、皆を笑顔にしてくれた。
◆ ◇ ◆
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