伊田家 第二十三話 家長たち
健一は、少し不思議だった。
彼は今日、自分より体重の重い野生動物に跳ね飛ばされたのだ。それにしては怪我がない。
打ち身での痛みや、あざのようなものがあるのではと浴室で見てみたが、体のどこにも見当たらない。転んだ時の擦り傷程度だ。
「打ち所が良かったのか?」
疑問に思うが答えはない。不満があるわけではないのだが。
運が良かったのだろうか、と。
「いや、幸運だったらこんな事にはなっていないんじゃないのか」
少なくともここまでは、誰も命にかかわるような大怪我などはしていない。それは喜ぶべきことだろう。
健一は考えるのをやめて、頭から湯を浴びてから浴槽に体を沈めた。
「はあ……いい湯だ。風呂は最高の贅沢だ」
こんな状況でも風呂に入れるのは、やはり幸運なのかもしれない。
そこまで考えて、屋根の上の太陽光発電やソーラー温水器のことを思い出して苦い顔をする。
「……まあいい。それにしても、カメハメ波ってなぁ。スペシャル光線みたいなもんか」
いつだか日呼壱が行っていた奇行を思い出して意地の悪い笑みを浮かべる。
健一の世代で言うと特撮の必殺ビームなのだろうと。そういうものが使えれば狩りも楽かもしれないと思うが、そううまい話はないようだ。
敵も同じくそんな必殺技は使ってこないようなので、一方的に不利というわけではない。
条件が同じなら、人間の知恵を使って有利に生きる方法を模索する。
健一は家長だ。一家を守る責務がある。
日本ではそんなことを真面目に考えたことはなかったが、環境が人格を形成するのだと実感していた。
それと同時に、疑問というか不思議な気持ちもある。
(日本に帰らなければ、という焦りが湧いてこないんだよな)
地球に帰還するという意志がないわけではないが、最優先で何が何でもという強さではない。どうにも薄い。
帰れなくてもいいと思っているわけではない。
ただ、この状況から日本に帰って元の生活を続けたいのかと言われると、それを強く望んでいるとは言えない。
サラリーマンとしての責任やしがらみは、日本で社会生活をしている以上はなかなか避けられない。
それを合法的にというか、こういう状況でなし崩しに切り捨てざるをえないようになった。
(案外、自分で思っていた以上にストレス抱えていたのかもしれんな)
心を削って倒れた同僚もいる。健一は自分は大丈夫だと思っていたが、無意識に抱え込んでいたのかもしれない、と。
そういう人間ほど精神を病むという話をされたが、自分には関係ないと。
この森では、上司や顧客といったしがらみはないが、他に誰も助けてくれるわけではない。困っても全て自己責任で解決しなければいけない。
だがそれも、なぜだか妙に上手く噛み合ってきているような気がするのだ。
一番の問題になる食料のことも、住居のことも。息子との関係も日本にいた時より良好になってきた。ような気がする。
まあまだ十日やそこらのことだが、とりあえず生活していく目処はついてきた。
不便ではあっても何とかなりそうだと、どこか楽観できる状況が、日本へ帰るという気持ちを薄くさせているのかもしれない。
ただ、本当にまだわからないことだらけだ。
この森の生態系を見てきた限りでは、おそらく気候は地球と大きく変わるということはないだろう。だが先日の石猿のような生き物もいる。
猿だけではない、もっと危険な生き物がいるかもしれない。どんな予測不可能な状況があるかわからない。
「誰も失わないように、な。俺がちゃんとしないと」
湯舟に浸かりながら両頬を手ではたき、気持ちを引き締めた。
◆ ◇ ◆
「お爺さん、朝から見当たらないのよね。マクラを連れてどこかに行ったみたい」
という美登里の言葉を受けて、寛太は一人で湖に向かった。
釣りは早朝にやることもある。昨日の失敗を教訓にして、何かやっているのではないかと。
湖に近づいた時に、声を上げてウシシカを追う源次郎が見えた。
「うおおぉぉ!」
『ガゥゥゥ!』
(いや、そんな無茶な……)
いくらなんでも野生生物と追いかけっこで勝てるはずがない。
短距離走の選手などであればともかく、源次郎はもう七十近い年齢だ。
逃げていくウシシカの方に必死さは感じられない。バカにするような感じで――
「っ!?」
こけた。
前のめりになって顎から地面にぶつかった。
慌てて体勢を整えようとするが、
「ぬぉぉぉぉっ!」
源次郎がその背に飛びついて、手にしていた小さめの斧を振り下ろした。
音は、寛太の耳には聞こえなかった。
源次郎が飛びついたのはウシシカの尻辺りで、振り下ろした斧は背中に突き刺さっていた。肉や骨を切っても派手な効果音はない。
『ンガルルゥゥ』
苦し紛れに源次郎を蹴り飛ばそうとしたウシシカの後ろ足にマクラが噛み付く。
『ギュルルゥ!?』
ウシシカの口から漏れる悲鳴。
その間に源次郎は斧を再度振りかぶり、ウシシカの延髄に目掛けて振り下ろした。遠目にもわかる致命的な一撃が生き物の首に。
◆ ◇ ◆
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