無名ノ都シ・淵
「……都シ。……ム。…………無名ノ都シ……?」
「? どうした、小野寺?」
「わ、わかんない。でもさっきからこの言葉がアたマから離れないの」
「は? 一体どうしたっていうん……うおっ⁉」
突如「しんかい10000」がまるで急ブレーキをかけたかのように前のめりになり、船内が激しく揺れる。その際田所は付近の機器に体をぶつけた。特に頭部を激しく強打したようで小さなこぶができている。
「いってえなぁ、おいなんで急減速かけたんだ小松?」
「いや、僕はそんなことしてませんよ……なんだこれ。船速が急激に低下している? 小野寺、周囲に何か異常はありませんか?」
そう言い終えるより早く「しんかい10000」は完全に停止してしまう。この異常事態に小松は冷静を装いながら、しかし残念ながら動揺を隠し切れない声で質問を投げかける。
「…………無名ノ都……はっ。いえ、周イにはナにもないわ。ただ両側になだらかな海溝がツヅいているだけね」
「本当に大丈夫ですか小野寺さん? なら仕方ないですね。田所、とりあえず覗き窓から目視で確認してください」
「ああ、わかっ、た…………よ…………⁉ お、おい、小野寺? 本当にホロ・ソナーには何も映っていないのか⁉」
田所は船側面に設置されている覗き窓を見るや否や予告なしに震えた、情けない声をあげた。
「? うん。特にナニもうツっていないけど?」
「じ、じゃあ、あれ、は何だよ。何なんだよあの目はっ‼」
田所の声は怯えから叫びへと変わった。それは悲痛、というスパイスが降りかかっており恐怖の匂いが香ばしく船内に充満する。
ただ事ではないと即座に感じ小松は操縦を
――『善悪の彼岸』 第146節より フリードリヒ・ニーチェ
彼らの脳裏に唐突に揺れ出される一文。何故か。それは。
俺は。 僕は。 ワタシは。
見た。 視た。 ミてしまった。
こちらを。こちらを。コッチを。
覗く。 覘く。 ノゾく。
目を。 眼を。 メを。
────それは巨大な眼球だった。覗き窓の向こうから枠からはみ出るほどの、一つの眼球が3人を覗いている。件の眼球はヒトのものによく似ていた。黒目の形が
眼球が瞬き、ぎょろりと白目の中を黒目が一周する。まるで値踏みするかのように。
そのありえない動きに3人は慌てて後ずさり、窓より距離を取る。
「え? な? なによッ! アレは!」
「だから言ったろうが! 当にホロ・ソナーには何も映っていないのかって! ぜんぜんいるじゃねえかほらぁ!」
「とっとりあえ、ず全方位ライトを付けて全容を確認しましょう!」
恐慌状態に陥る中小松が震える手でライトのスイッチをオンにする。これはバッテリーの消耗を抑えるため基本的にはオフにされているものだ。
さて、ライトが周囲を照らすと周囲の状況が幾分か見やすくなった。そしてそこに映るは──視界一杯を埋め尽くす巨大なナニカであった。
あまりに巨大なので一体何の生物なのか、それすら検討もつかない。だが3人はなんとなく「蛸」をイメージした。何故か彼らがイメージする「蛸」には蝙蝠のような細く、小さな翼がちょこんと生えていた。
表面は蛸らしくぬるりとした粘液で覆われているのか時折光に反射してキラリと輝く。だがその色は我々がよく知るタコの色ではなく名状しがたき深き青色。
その巨大な、奇妙で人智を超越したおぞましい眼球に
「「「ノみコまれる! タベらるれ??」」」
混濁し今にもプルリ、とゼラチンの配合を間違えたゼリーが崩れ落ちるような、危うい状態の精神をどうにか理性の鎖で締め付けつつ、3人はどうにか眼球から目を背けることができた。
そのまま3人は何も映っていない光景を探すべく各々が複数設置されている覗き窓に噛り付く。飢えた犬が肉にかぶりつくように。瞳に何か映っていたら思い出してしまいそうだから。あの奇妙で人智を超越したおぞましい眼球を。
その行動は「逃避」と呼ばれる心理学が定義する「人がストレス・不快より逃れる方法」の一つであった。
「はぁ、はぁ…………何なんだ。なんなんだよアレはっ!」
「はぁ、ふうっ……皆目検討もつきませんが……この海域より急いで脱出するとしましょう!」
「ぜぇ、はあっ……さ、サんセイ。い、イソぐわよ……」
「「「エ?」」」
逃れなかった。
残念ながら。
遅かった。
3人のそれぞれの目線の先には。様々な大きさの。眼球がいつのまにか。「しんかい10000」を囲むように。存在していた──
「「「「う、うわアアアァァァァァっっッ⁉」」」
その悍ましき光景に遂に3人は半狂乱となる。直後、大きく揺れる船内。そして一気に奈落の底へと引き摺りこまれていく。まるで哀れな獲物が触手に囚われ、触手の主に捕食されるように。
あまりの急加速により加速度的に増大する恐ろしい量の水圧が「しんかい10000」を容赦なく襲い船殻をギシギシと締め上げた。
こうして彼らは到着したのだ。
異形の呪われた都に。
どこかで梟と
ホゥホウ……ホホ──ッ! ホホゥ──ッ!
キョキョキョキョッ、キョキョキョキョッ!
[4]
肌を刺し、骨の隋まで凍らせるかのような強力な冷気に3人の意識は強制的に覚醒させられた。
「……うっ。ここは?」
「いや、船内ですよ……船内ですよね?」
「あったりまえじゃん……そんなことより、ねぇ、眼は? あの眼は?」
真っ先に先程の恐怖を思い出した小野寺が全身を震わせながら辺りを見渡す。「眼」のない空間を求めて。
幸いにも今回の努力は報われた。船内には3人と真っ赤な非常灯、そして精神すら蝕むような冷気のみが存在していた。
「眼は、ない! よ、よかったぁぁぁ」
小野寺は一時の恐怖から解放された反動で完全に脱力する。それは残りの2人も同じで、しばらく船内には安堵の空気で満ちることになった。
残念なことにこれより先に待ち受けるはより深みを増した恐怖であったわけだが。
果たしていつまでそのように呆けていたか定かではないが、3人が気づくのは時間の問題でしかなかった。知的生物ならば必ず一度は気にするだろう問題である。即ち
「ところで、ここ何処だ?」
未知の場所に流れ着いた時「そこはどんなところか?」を確かめる、ということである。これはミジンコだろうが、ネズミだろうが、果ては
さて、3人はまず「しんかい10000」に物理的ダメージの有無について調べた。幸いにも損害は船外ライトが全損している、ということのみで生存に必要な機能等は問題なかった。
次に計器の値を確認し、船の現在位置情報を得ようとした。
そして判明した驚愕の事実。
「おい! なんてこった! 2人とも見てみろよこれ!」
「どうかしたんです?」「なんかおかしなとこあったの?」
「ここの深度さ、
水深20000メートルだ!!」
「「は?」」
それは3人の頭脳を
だが機器が壊れていないと仮定するならば現在の深度は20000メートル。ここまでくると船全体にかかる水圧の量は想定を遥かに超えるものとなるため、すぐさま圧壊してもおかしくはない。
当然そのことは3人もよく知っている。なので一時停止から復活した彼らは機器の故障を疑った。
残念なことに機器は故障しておらず、それどころかもう一つ奇妙な事実が判明した。
「現在の水圧が502.3
「仮にこの数値が正しければ現在の深度はせいぜい5000メートル前後になるはず。でも……計器の値は変わっていないか。これは一体、何がどうなって……? 小野寺さん、ホロ・ソナーの調子は、周囲の状況はどうなっていますか?」
ちなみに現在最も深い海溝と言われるマリアナ海溝の最深部であるチャレンジャー海淵の水圧は108.6MPa(パスカル、とは圧力ないしは
「……名ノ……シ……都シ……」
「? 小野寺さん?」
「ハッ。う、うん大丈夫、大ジョウ夫……。ホロ・ソナーは正じょウに機能しているwa」
「どうしたんだ小野寺? お前さっきからなんか、おかしいぞ」
「わtaしは大丈夫だから、daい丈夫……まって。アレは……なに? 何か都シ、の遺跡のようなものが見える!」
「「なんだと(ですって)⁉」」
約10分後。
「しんかい10000」は小野寺が見たという都市遺跡に向かってゆっくりと、5ノットほどのスピードで向かっていた。周囲にはカイコウオオソコエビのような小さな生き物ですら全く見かけず、マリンスノーのような生物の残骸すらない、全くの「無」が支配していた。そのはずだった。
しかし船内の3人はなんとなくだが察していた。
うねりを。
ぬめりを。
ドロリとした半液体の海水が辺り一面を覆っている。それらが自分たちを観察している。そんな奇妙でむずがゆい、うまく言語化できないことを彼らは五感で感じていたのだ。
そんな旅も突如として終わる。
見えてきたのだ。
「見える」? それは決して有り得ないことだ。物理法則に反している、と言ってもよいだろう。
何故か。
ここは水深20000メートルの世界。当然ながら日の光は一切、ない。船のライトも全損した。つまり覗き窓の世界は「可視光では何も見えないはず」である。仮に何か見えるとしたらホロ・ソナーを装着している小野寺だけであろう。
ところが見えてしまったのだ。田所、小松両名にも。
おぼろげに揺れ、揺蕩う都市が。
彼らの脳裏に響く。
無名ノ都シ。無名ノ都シ。 無名ノ都シ。 無名ノ都シ。
無名ノ都シ。 無名ノ都シ。
無名ノ都シ。 無名ノ都シ。
この都市の名は「無名ノ都シ」であると。
「しんかい10000」は都市を見下ろしながらゆっくりと歩みを進める。
田所は、小松は、戦々恐々としながら眼下を見渡した。無名ノ都シは古代ローマ時代の
どうしてこんな表現になるのか。
というのも無名ノ都シはその光景が瞬きするたびに細かく変化するのだ。決まった形を持たず、絶えずその形を変えて押し寄せる波のように。
その現実離れした、
小野寺はいつのまにかホロ・ソナーを頭から外していたことを。
小松は自身が既に操縦桿を手放し何の操作もしていないことを。
田所はその両名の異様さに気づき指摘しようとしていたことを。
各々が各々の役割を果たさず、それを忘却の彼方へと追いやり、ひたすらこの人の理性に挑戦状をたたきつけるような、ある種の冒瀆的な光景をひたすら眺めて続ける。
そして彼らの旅は唐突に終わりを告げる。
無名ノ都シの中央が見えたのだ。
そこには
「しんかい10000」はまるで
神殿の最上部まであと5メートルほど、というところで祀られているモノの正体が見えた。それはとてもシンプルでおおよそこの場に似つかわしくないものだった。
一辺が3メートルほどの。
正方形の、
果たして船内でどのようなkaいワがされたのか、誰も覚えていなかった。
だが「しんかい10000」の前部に取り付けられていたBMI式(ブレイン・マシン・インターフェース。脳波などを利用して機械を操作する技術)マニピュレータがゆっくりと動き、匳に触れた。
匳に一瞬、電流が流れる!
そして──
こうして此度は人の方から特異点へと至った。
この時より4年後、日本国は世界で最も繁栄した国となる。
偽りの君主を従え、90年ぶりに己のアイデンティティを取り戻して。
そして世界に血と炎とベクレルをまき散らした。
それは人類最後の夢でもあった。
そう。奴と出会うまでの、ごく短時間の──。
そは
測り知られざる永劫のもとに死を越ゆるもの
――狂える詩人 アブドゥル・アルハザード
――『無名都市』より H・P・ラヴクラフト
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
■■要塞 アースガルズ
グラズゴールヴの館にて
金の見事な装飾で覆われた扉をギィ……と厳かに開いて一人の男が入室した。男は黒と灰を基調とする見事な執事服を着こなしている。
室内にはポツン、と洒落た腰ほどの高さのビストロテーブルと、簡素な折り畳み式イスがそれぞれ一つ、中央に置かれていた。その横にはぬるりとした鱗で覆われた円錐が直立している。
そこには先客が既におり、座って文庫本を読みながら静かに紅茶を飲んでいた。
液体が喉を通る音と紙をめくる音が静かに響く。
執事がその、丸眼鏡を掛けたカーキ色の古き時代の軍服に身を包んだ男に問いかける。
「何を読んでいるんです?」
男は丸眼鏡の奥に潜む三白眼を輝かせながら答えた。
「とある方の有名なSF小説ですよ。著者は「一度くらい国を失ってみたらどうだ」なんて言った方ですよ。大変……興味深いですねぇ」
そう言いながら男は栞を挟んでテーブルに置いた。置いた手で完全には見えないが「 an Sinks」というタイトルのようだ。
さて、と執事が前置きして懐より5センチほどのカードの束を取り出した。表面に幾重もの波を重ね合わせたような文様が書かれている。
「計画通り、回収してきましたよ。いやぁ苦労しました。2ヶ月もかかったんですよ、波を世界が崩壊しない程度に回収するの。局所的に時を止めたりして」
「何苦労した、みたいな顔をしているんですか全く。時を止めたのは私だというのに」
「おっとそうでしたな」
【どぉぉうヴろでででぇ。Range、ずずぅぅゥがかかがヴにょ!】
「相変わらずヘタクソな言語ですなぁ。仕方ないとはいえなかなか堪える。コミュニケーションは難しいものです」
物体が発する鋏の音にやや辟易しながら執事は物体に向けて答える。
「まあすぐに決めなくてもよいでしょう。なんたってこんだけの量ですからね。
執事は再び懐に手を入れシャーレを取り出しやや上に持ち上げる。館内のやさしい光に透かしているのだ。
やがて示された回答に少し目を見開く。どうも彼にとって予想外の内容だったらしい。
「それは……マッチポンプ、というやつでは? 確かにこの際人類をちょっぴり救ってみるのも一興ですけど」
でも、と執事は続けてこう言い放った。
「まあ、もちろん、人類を絶滅させることに変わりはありませんがね!」
館に形容し難い乾いた笑い声が満たされた。
それに呼応するかのようにどこからともなく梟と夜鷹の鳴き声が響き渡り、アースガルズをその波動で震えさせる。
ホゥホウ……ホホ──ッ! ホホゥ──ッ!
キョキョキョキョッ、キョキョキョキョッ!
無名ノ都シ END
このSSは以下の様々な媒体の作品を参考にして制作しました。
まだまだ未熟な身ですが、ここに敬意と感謝の意を捧げます。
・海底二万海里 ジュール・ベルヌ著
・ソリトンの悪魔 梅原克文著
・魔女兵器 イベントシナリオ 「深潜症」
・アークナイツ イベントストーリー 「潮汐の下」
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