揺蕩ウ箱ノ中ニイル猫ノ短編集 その弐。

旧時代ノ箱(エピソード・ゼロ)。

無名ノ都シ・淺

 大きな英知は海の中の水のようなもの。暗く神秘的で、底が見えない。

 ――ラビンドラナート・タゴール


 Wer mit Ungeheuern kämpft, 怪物と闘う者は、mag zusehn,その過程で dass er nicht dabe自らが怪物と izum Ungeheuer wird.化さぬよう心せよ。  

 ――『善悪の彼岸』 第146節より フリードリヒ・ニーチェ




[1]

 全ては海より始まった。

 命生まれ、育ち、進化する。母なる海。生命史の特異点。

 

 全ては海より来る。

 コルウスの発明。ロングシップ。サンタ・マリア号、トルデシリャス条約、コンキスタドール。サスケハナ号。

 人類史の特異点。


 時は2031年。

 此度もまた、海より来る。ふかい、深い海の底より。特異点が我らを呼び寄せる。



 分厚い耐圧ガラスがはめられている覗き窓の先でははありそうなリュウグウノツカイが深海を我が物顔で散策している。もしこの現象を好意的に取れば「新発見」、否定的に取れば「ありえない」となるだろう。そもそもリュウグウノツカイは群れを作らないし、それ以前にこの深海魚の大きさはせいぜい10メートルほどなのだから。

 なので田所は専門外の人が見たら幻想的に見えるであろうその光景を半ば呆然とした、あるいは恐怖の表情で魅入っていた。


「なんだよありゃぁ……どう見ても新種だぜ。なぁ、お前もそう思うだろ? 小松」

「わかった。わかりましたから。田所、現在の深度は?」

「あ、ああ。現在の深度は……水深11050メートル! だ」

「そうか。遂に来ちまったんですね僕たちは。チャレンジャー海淵かいえんよりさらなる深い場所、超々深海層とも言うべき場所に」

 

 彼らが搭乗している船の名は、「しんかい10000」。現在の地球上で最も深く潜ることができる有人潜水調査艇だ。

 それを覆う極めて強靭な外殻は、強磁性形状記憶合金──超チタン合金を含む──に人工ダイアモンド被膜で覆ったものである。これにより深度10000メートル以上の膨大な水圧にも耐えることができ、計算上では15000メートルまでは余裕で行けるという。また、強磁性形状記憶合金により多少の水圧による凹みは磁気制御により即座に修復されるということもあり、パラメータ以上の強度を持つ。

 また、船内は全てカーボンナノチューブで構成されており船全体の重量はその規模に対し非常に軽い。

 全長20メートル、空中重量は約42トン、最大速力は9ノット、潜航可能最大時間は約20時間、乗務員は3人(+補助AI)とかつて1991年に三陸沖日本海溝(水深6200m)で太平洋プレート表面の裂け目を世界で初めて確認するという活躍をした「しんかい6500」を一回り、いやそれ以上に高いスペックを持つ潜水艇である。それは今まで培ってきた日本の世界トップクラスの技術を全てつぎ込んだかのようであった。


「小野寺さん、周囲の状況は?」

「現在のところ特に異常なし」


 三次元式立体音響、通称ホロ(ホログラム)・ソナーを頭の上から被っているソナーマン(ウォーマン)である小野寺さんが少し気怠げなハスキーボイスで答える。

 この装置はVRゲーム機をより大型にした、ヘルメットのような形状をしている。そして装着者に本来ならば2次元表示、もしくは耳でのみ探知するはずの情報を3次元投影ホログラム化してくれる。おかげで直感的に周囲の状況を素早く把握することができる大変便利なシロモノだ。


 「しんかい10000」はそのまま更に深く、深く潜っていく。マリンスノーの雨がしんしんと降り注ぎ、多種多様な深海生物の吹雪が舞う、まだ世に知られていない海淵、仮称「C海淵」の中を。

 現在位置は日本海溝と南海トラフの境に新しく爆誕した通称「東沖島ひがしおきじま」付近の海中。2ヶ月前に発生した「列島大震災」のおきみやげである。


 列島大震災。のちに11・9と呼ばれる日本列島全体を襲った群発型地震であり最大マグニチュードは10.2という正に規格外の大震災である。

 それまでの群発地震と違い、南海トラフを中心に東日本の複数地点でほぼ同時に地震が発生。震度7~にもなる大地震がまるで押し寄せる津波の如く列島全域を襲った。揺れた時間は累計すると5時間超にもなり、複数の地震波を同時に受けた建物達はご自慢の耐震構造を易々と突破されことごとく大地にその膝を折ることになった。その死者は推定でも1000万人。この数字はの話だ。

 震災発生よりもう2ヶ月も経つというのに未だ国としての指揮系統は混乱しており仮説テントの設営すら満足に進んでいないという。いくら諸外国の──ないよりかはマシ程度の──があるとはいえこのままでは病気や餓死をはじめとする震災関連死の数も加速度的に増えていくだろう。


 国際海洋調査団に所属する田所、小松、小野寺の三人は最初に地震を観測し、それと同時に突如発生した東沖島と新たに発見された海淵が11・9と何か関連があるのか、という調査を行うために「しんかい10000」に搭乗しているというわけである。


[2]

 船内に取り付けられたいくつものメーターを同時に監視しながら田所は震災直後の日本の映像を思い出していた。

 無惨にも瓦礫の山と化した日本の主要都市。札幌、仙台、東京、大阪、福岡。無数の都市たち。どれもまるで都市全体を撹拌機にかけたかのようであり、教科書に出てくる第2次世界大戦末期のB29による大空襲のほうがまだマジに感じるほどの惨状であった。

 その中でも東京スカイツリーがになってしまっていたのは特に衝撃的であった。国会議事堂や首相官邸に至ってはその瓦礫のでその正体を看破する有様。そんな有様なのでこの国のお世辞にも有力とはいえないリーダー達が文字通り全滅したという事実は言われなくてもわかることであった。

 果たして日本は今回も不死鳥のごとく復活し「2度目の東洋の奇跡」と呼ばれるか否か。


それは復興は俺たちの活躍にかかっているかもしれない。頑張らなきゃな!」


 田所はほぼ無意識のうちに自身の決意を口にしていた。それに賛同するように小松も親指を力強く掲げる。その一方で小野寺はやや冷めた口調でこう言った。


「でも、日本はじゃない。オセアニアの国々なんて温暖化による海面上昇の打撃もあって国家自体が消滅寸前だし。例えばさ、昨日ニュースで見たけどツバル、正式に解体されたって聞いたわよ。もうニウラキタ島しか残ってないし、人口の9割は大津波で亡くなったらしいから当然と言えば当然ね」


 そう。何も11・9は日本だけを地獄送りにしたわけではない。大自然は慈悲深くそして公正明大だ。その惨禍は平等に太平洋に面する国ほぼ全てにもたらされたのだ。

 太平洋プレートとフィリピン海プレートの狭間により発生した史上類を見ない規模のS波(主要動と呼ばれる大きな揺れを起こす実体波のこと)と同時期に大津波はその産声を世界に轟かせながら蹂躙した。

 例えば。

 台湾の高雄港や韓国の釜山港は地震と津波により壊滅。膨大な量のコンテナが街を覆いつくし支配した。

 サイパン島、グアム島は民間・軍事施設を分け隔てなく襲った大波により海中に引き摺りこまれた。

 オセアニアの国々は島ごと飲みこまれ、アトランティスのように忽然と姿を消した。

 日本人にとっての憧れの地、ハワイ諸島も惨禍に巻き込まれた。アリゾナ記念館は再び海中へと住処を移し、美しい砂浜で有名なワイキキビーチと周辺の観光地は全て洗い流され消滅した。それはマオリ神話に伝わる困り者、ムツランギのペットである大ダコ、テ・ウェケに襲われたかのようであった。

 神秘の島、イースター島も例外ではなかった。ポリネシア神話に伝わる海と漁業を司るクジラの躰を持つ神タンガロア神が潮の満ち引きの配分を間違えたかのような巨大な波は、島にあるもの大半を飲み込み、かつてそこで暮らしていた民の繁栄と没落をその目で見たであろう石塊は久しぶりにその故郷へと還った。


 最終的に大津波はバルディビア地震(1960年に発生したチリ地震の別名)時に発生し、太平洋を文字通り横断し日本をも襲ったチリ地震津波のコースを逆にたどる形でチリの沿岸部を直撃。コンセプシオン市やバルディビア市を始めとする複数の沿岸都市を荒れ狂う海の供物として捧げた。

 結果、今回の大震災の直接的な死者は世界全体で3000万人、被害を受けた人数は3億人と予想されている。「最低でも」というまえがきをつけて。


 それらの事実を思い出した田所は不覚にも小野寺の一見心がない、ともとれる発言に賛同してしまう。同じく小野寺の発言を聞いていた小松も沈黙という大変日本人らしいやり方で賛意を示す。果たして先の気勢はどこに逝ってしまったのやら、である。


「まあ、そう言われるとなぁ。確かに国土がなくなるどころか日本はマシな方、になるのか?」


 多分にこの発言、というよりこの3人のやや浮いた考えは次の要因によるものがあるだろう。彼ら自身がその目で惨状を観ていないという点と、全員独身で残された家族も特にいない、という点で。まあ自身の周囲の状況のみで物事を判断するという点は如何にも「若者」らしいと言えるかもしれないが。


「しっかし、この先どうなるんだろうな世の中は。アメリカは何年も前に例のウイルス騒ぎで引きこもりみたいなものになっちゃったし。中国はインド・アフガニスタンと、ロシアは難民問題でEUと、それぞれ一触即発な状況だ。今回の震災もそうだけどさ、人類詰んでいるかもな」


 つい数分前まで復興の決意とやらをした口からは全くベクトルが異なるネガティブな愚痴が漏れ出た。

 田所の愚痴によりただでさえ冷たい船内の空気は凍りつく。

 もっとも「しんかい10000」はそんな日本人特有の現象などにもくれず己の命じた役割をこなすべくC海淵を深く、深く潜り続けていた。

 この時点での深度は12500メートル。既に人類にとって完全に未知の領域である。


 そして一時間後。

 異変が起こる。

 ■■が手を揺らす。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る