第601話 人に優しくないリサイクル
エルフとの交渉はクロードに任せ、アイザックとロレッタは王都に帰還する。
その時、クローカー伯爵に「連れていってください」と泣きつかれたが、それは断った。
いくらなんでも――
併合した国に顔を出したら九歳の男の子を連れて戻ってきた。
――というのは人聞きが悪い。
このあとジュディスやティファニーを寵姫として迎える。
だというのに「男の子まで手を出すのか……」などという誤解は招きたくない。
アイザックは女の子が大好きだが、これ以上
もちろんそれだけではない。
ケンドラと会わせたくはなかったのだ。
もしクローカー伯爵を連れ帰れば、アイザックの弟分のような扱いになるだろう。
そうなれば、ケンドラにとっても弟のような存在となる。
「お姉ちゃーん」と彼女に甘えようものなら、クローカー伯爵を殺しかねない。
アイザックにとって、それだけは絶対に許せなかった。
だから自制の意味も籠めて、当初の予定通りファーティル大公に預けてきたのだ。
そのおかげで、アイザックは家族に集中する事ができる。
まずアイザックは
そう、今のアイザックは所帯を持っている。
だから最初に向かうところはウェルロッド侯爵邸ではなく、妻子の待つ王宮だった。
「アイザック帰還」の知らせを受けた彼女たちは、王宮の入り口で出迎えてくれた。
その時アイザックは、ザックが乳母のレーマン伯爵夫人に抱かれているのを見つける。
(子供をこんなところに連れてくるなんて不用心な……、んっ?)
そう思ったのも一瞬の事。
すぐにザックが小さな靴を履いている事に気づいた。
(まさか……)
アイザックが馬車から降りると、パメラが近づいてくる。
「お帰りなさいませ。長旅、お疲れでしょう」
「ただいま、少しばかり疲れたかな。ところでザックだけど……、もしかして?」
「ええ」
アイザックが考えている事は正しいと、パメラがうなずいて応える。
「ザック、挨拶を」
パメラがそう言うと、レーマン伯爵夫人がアイザックの前にまでやってくる。
そしてザックを地面に降ろす。
――なんと、ザックが自分の足で立っていた。
「おおっ……」
アイザックは感動で打ち震える。
彼はしゃがみ込むと、ザックに手を差し出す。
「パパのところにおいで」
そう声をかけると、周囲をキョロキョロと見回していたザックがアイザックを見る。
「さぁ」
さらにザックを呼ぶ。
すると、トコトコとおぼつかないながらも、自分の足で歩いてアイザックに近づく。
ほんの三歩だけであったが、それでも大きな成長である。
「ぱぱ」
「っ!? そうだよ、パパだよ!」
歩くだけではなく、パパとまで呼んでくれた。
ハイハイをしていた赤ん坊から大きな成長である。
生命の尊さを実感したアイザックはザックを抱き上げ、息子の成長を祝うべくキスしようとする。
――だが、それはパメラの手が二人の間に差し入れられて止められた。
アイザックは「なんで邪魔をするんだ?」という非難めいた目で、パメラを見る。
しかし、パメラのほうも非難がましい目で見ていた。
「大人が赤ちゃんにキスをすると虫歯菌が移るそうです。歯磨きを嫌がらない年になるまで我慢してください」
「そ、そうか。なら仕方ないな」
パメラのもっともな指摘を、アイザックは認める事しかできなかった。
アイザックも一時の感情で、ザックを苦しめたくはない。
仕方がないのでキスを諦め、頬ずりで我慢する。
微笑ましい光景だが、周囲の者達は「
アイザックは、そんな事など気にせずにザックを高く掲げる。
「もう話して歩けるなんて……。この子は天才だ!」
アイザックは親馬鹿ぶりを発揮する。
その光景を見たランドルフが「お前やネイサンも一歳くらいでパパ、ママと呼んでくれていたんだよ」と、昔を思い出していた。
「アイザックと同じくらいの早さなら、ザックも天才かも?」とも思ったが、ケンドラも似たようなものだったので、子供はそういうものだろうと彼は落ち着いて息子と孫の姿を眺めていた。
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帰国初日は仕事をせず、家族でゆっくりと過ごした。
そして二日目からは、早速仕事を始める。
国内の事よりも先に、まずはファラガット共和国への布石を打つ事にした。
そのためにアイザックは、4Wとクーパー伯爵を呼び出す。
――そして今回の主役となる、ギルモア子爵も呼び出していた。
彼は出席者の面子を見て萎縮する。
リード王国を代表する者達が集まる中で、どう考えても彼だけが場違いだからだ。
そんな彼に、アイザックは優しく微笑んで見せた。
「心配する必要はありません。今回はあなたにしかできない仕事を任せようとしているだけです」
「……人身御供でしょうか?」
ファーティル地方で新たにエルフとの交渉が進んでいる事は、彼も知っている。
だから「やっぱりお前は処刑だ」と申し渡されるのではないかと怯え、つい嫌みとも受け取られかねない返事をしてしまう。
だがアイザックに気にした様子はなく、むしろ嬉しそうにしていた。
「それがわかっているなら話が早い」
(えっ、本当に!?)
ギルモア子爵の体が硬直する。
しかし、アイザックの言葉は、彼が思っているのとは違う意味であった。
「ファラガット共和国に大使として赴任してもらいたいのです」
「大使……、ですか?」
アイザックの口から出た言葉は死刑宣告ではなかった。
むしろその真逆。
朗報であった。
他国への駐在大使という役職は美味しい。
特にリード王国のような大国であれば、他国の政治家達がご機嫌取りで多額の賄賂を当たり前のように贈ってくる。
豊かな国に赴任すれば、五年ほどで一生働かずに済むだけの一財産を築けるとも言われているくらいだ。
ファラガット共和国は商人の国だけあって豊かであり、大使の赴任地として人気のある国であった。
そこに赴任してほしいという。
美味すぎる話なだけに、ギルモア子爵はかえって不安を覚える。
「なぜ私なのでしょうか? 大使職であれば、もっと適任者がいるものと思われますが……」
そう、彼は大使として適任ではない。
かつてブリジットの尻を触った事で、社交界にも顔を出せなかったくらいの失敗を犯していた。
アイザックのおかげで社交界には顔を出せるようになったものの、外務省ではずっと冷や飯食らいだった。
当然、そんな人物が大使として送り込まれれば、ファラガット共和国は怒りはしなくとも不快には思うだろう。
そんな人事は喧嘩を売っているようなものでしかない。
(喧嘩を売る……。そういえば、そんな噂もあったな)
――ファラガット共和国侵攻作戦。
その噂は、まことしやかに広まっていた。
情報漏洩に関する意識が低い時代であるため「ここだけの話」を誰もが繰り返した結果、末端の貴族にまで知られる話となっていた。
ギルモア子爵は、その事を思い出す。
それならば、ここにいる面子の豪華さにも合点がいく。
「まったく知らないというわけではなさそうですね」
「かの国に立場をわからせようとしているという話でございますれば、いささか思い当たるところがございます」
「なら話は早い。新年度の人事でファラガット共和国の大使に正式に任命する。妻子を連れず、一人で赴任してほしい」
アイザックの様子から「やはり戦争を仕掛けるつもりなのだ」とギルモア子爵は判断する。
――妻子を連れずに赴任しろ。
この理由は明白である。
戦争になった時、リード王国の人間はファラガット共和国の人間にとって憎悪の対象となるだろう。
交渉窓口を残すために議会は大使に手を出させないだろうが、狂乱した民衆がどう動くかわからない。
安全のために家族を残していけという温情だろう。
ギルモア子爵を選んだのも「死んでも惜しくないから」という理由ならば、先ほどの「人身御供」という話も納得できる。
だがアイザックの温情が、ギルモア子爵には余計な配慮にしか思えなかった。
「大使を引き受けてくれるのなら、ギルモア子爵家の名誉を回復すると約束します。またご子息にも家格に見合った地位を用意するし、相応の褒美も与えましょう。しかし事情があるため今の段階で公文書という形で残せません。ですが、この場にいる各派閥の代表者の前で約束します。彼らが証人になってくれるでしょう」
――各派閥の代表者の前で約束する。
4Wだけではなく、クーパー伯爵まで出席していた理由が、ギルモア子爵にも理解できた。
そして同時に、それだけ重要な任務なのだとも。
ギルモア子爵は、この話を断る事などできなかった。
それは重要な仕事を任せてくれたアイザックの信頼に応えようだとか、王国貴族としての誇りによるものではない。
――ブリジットの尻を触る。
ただそれだけの事。
しかし、そのたった一度の過ちで審議官を解任され、社交界での立場もなくなった。
彼の息子も婚約を解消され、新しい婚約者として力を持たない男爵家の三女をあてがってやるのがやっとという状況だった。
子爵家の跡継ぎ息子だというのにだ。
それでも貴族の娘と結婚できただけでマシである。
この状況から逆転できるのであれば、なんでもしようという気になる。
このようなチャンスをずっと待ち望んでいたのだから。
「それでは妻を連れて赴任致します。そのほうが怪しまれないでしょうから」
せめて家名に塗った泥をそそぐ事ができれば万々歳である。
だから彼も覚悟を決めた。
家族を危険に晒してでも、汚名をそそぐために命を懸けようとする。
「いえ、そこまでやる必要はありません。むしろ、連れて行かれると困るのですよ」
「ですが妻子を連れずに赴任する大使などおりません。それでは戦争を仕掛ける意図があると見抜かれてしまうのではありませんか? 戦争に備えられぬよう、油断させるためならば、この命を惜しみません」
外交は大使だけが行なうわけではない。
婦人間の交流も重要であった。
なのに、ギルモア子爵一人だけが大使と赴任すれば、交流の意思が薄いと思われてしまう。
それでは軍の被害が大きくなってしまう。
それくらいは文官の彼にもわかる事だった。
「あぁ、それは問題ありません。すでに戦争を仕掛けるかもしれないという噂が流れてしまっている以上、むしろ戦争の準備をしてもらっておいたほうが助かるんですよ。だから大使館員も独身者であったり、家督の継承に影響を与えない者達に替えるつもりです」
「戦争の準備をさせる……、のですか。なぜそのような事を」
ギルモア子爵には、アイザックの考えが理解できなかった。
わざわざ不利な状況を作ろうとしているのだ。
これは利敵行為だとしか言いようがない。
それを国王自ら行う理由が、彼にはさっぱりわからなかった。
「そこまで詳しくは話せません。もし拷問にかけられたりして話されても困りますからね。それにファラガット共和国へ戦争を仕掛けるという話は一部の者しか知らない情報でしたが、すでにあなたの耳にも噂として入っているではありませんか。口が軽い人物かどうかはともかくとして、情報漏洩を防ぐためにすべてを教える事はできません」
理由を聞きたいところだったが、アイザックはフッと軽く笑って流したので、それ以上聞けなかった。
この時、モーガン達は動揺しながらも、なにも反応を見せなかった。
それは彼らに心覚えがあったからだ。
彼らは「実はここだけの話なんだが――」や「こういう事が予想されるので前もって準備を――」と周囲に話していた。
ここで下手に「そんな事はありません」などと言おうものなら、過剰反応していると思われかねない。
「情報漏洩なんて私は知りませんよ」という態度を取り繕いながら「おいおい。お前ら、そんな事をしているのか?」という表情を全員が浮かべていた。
「あなたに求めている事は一つ。失態をしでかした人物という経歴を生かして、ファラガット共和国側に『リード王国は我が国を軽んじている』という印象を与えてください。もちろん賄賂の要求なども、送還されない程度になら自由に要求してくださってかまいません。ただ、今後数年は陰口を叩かれるような振る舞いをしてもらう事になるので辛い思いをするという覚悟だけはしておいてほしいですね」
「……本当にそれだけでよろしいのですか? 諜報活動などは?」
「大使として求められる一般的な活動をしてくれれば、特別な事をしなくて結構です。大使館員も入れ替えるので、勝手も違うでしょうしね」
「なるほど……。もしも本当に戦争になった場合に殺されるかもしれないというだけですか」
死ぬかもしれない。
しかし、仕事自体はそう難しいものではない。
強制送還さえされなければいいのだ。
最悪の場合でも、賄賂で子供に財産を残す事だってできる。
ギルモア子爵だって死にたくはない。
だが彼も貴族らしく、家の名誉や存続を考えていた。
それらを考慮すれば、この話はこれまで想像もできなかった魅力的な話である。
「本当に私でよろしいのですか?」
あまりにも旨すぎる話なので、アイザックに確認してしまう。
「ええ、過去に失敗を犯した者なら他にいます。ですが他国に知られているような失敗を犯した者となると限られるのです。このような選ばれ方をするのは本望ではないでしょうが、この任にはギルモア子爵が適任なのですよ」
確かにギルモア子爵としても、力量ではなく過去の行いで選ばれるのは本望ではない。
しかし、国家の命運を左右しそうな仕事を任されるのは、それを補って余りある名誉だった。
ただ「行ってこい」と言われるのではなく、報酬も保証されている。
彼にこの話を断るなどという考えは浮かばなかった。
「喜んでやらせていただきます。この命に代えても、必ずやファラガット共和国を激怒させない程度に軽んじていると思わせてみせましょう!」
「それでは任務の詳細は後日知らせます。任せましたよ」
好条件を提示したので、ギルモア子爵が断るとはアイザックも思わなかった。
だがこうして引き受けてもらえると、やはり安心する。
(たとえ殺される事になったとしても、その命は無駄には使わないさ)
戦争中とはいえ大使が殺されれば、それはそれでファラガット共和国を攻める大義名分として利用できる。
ギルモア子爵が死のうが生き残ろうが、アイザックにとってはどちらでもよかった。
元アルバコア子爵のヒューだけが「リード王国はファラガット共和国の侵攻を考えている」と言っても、爵位を剥奪された逆恨みとしか思わないだろう。
――ではその情報を知ったあとで、過去に大失敗した人物が駐在大使として赴任してきたら?
ファラガット共和国は「捕虜になっても困らない、使い捨てにしてもいい人材を送り込まれたのではないか?」と怪しむだろう。
ヒューの言葉に真実味が帯びてくる。
そういった些細な違和感、疑念といったものを積み上げていく事によって、アイザックが求める状況を作りあげるつもりだった。
「使い捨てにしても心が痛まない人材」という点では、接点の少ないギルモア子爵は適任だった。
人に優しくないリサイクルの対象はヒューだけではないのだ。
だがアイザックは「ちゃんと見返りを提示して、それを履行する意思があるから有情だろう」と、自分では優しいほうだと思っていた。
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アイザックがギルモア子爵を呼び出していた頃、ヒューもファラガット共和国の首都デューイに到着していた。
彼は家族をホテルに置いて、首相官邸へと向かう。
当然、面会の予約のない訪問客が会える相手ではない。
しかしそれでも彼は諦めなかった。
衛兵に対して、重要な案件だと告げる。
「私の名はヒュー・アルバコア。この国は狙われている!」
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