第437話 友の屍を越えて

 アイザックは走りながら、アマンダの行動について考えていた。


(ジュディスがやってきたみたいに「どんな形でも渡せばOK」という裏ルールがあるのかもしれない。なんとか受け取る前に家に逃げ帰るしかないな)


 ――バレンタインデーの告白は、アイザックにとっても前世から待ち望んでいた一大イベント。


 雰囲気に流されてしまえば、ハンカチを受け取ってしまうかもしれない。

 万全を期すのであれば、誰からも告白されないのが一番である。

 アイザックは外聞を気にする事なく、廊下を走り続ける。


「アマンダさんが来る! こっち!」


 職員室の前を通りかかったところで、中から声をかけられた。

 アイザックは反射的に職員室の中に入る。


「ありが――」


 礼を言おうとしたら、相手がジュディスだった事に気付く。

 嫌な予感がするが「あんなにハッキリとした声を出せるんだ」という考えも頭に浮かぶ。


「アイザックくん、レイモンドくん。廊下は走っちゃダメだよ」

「はい、申し訳ありませんでした」


 だが、彼女が何か話す前に教師から注意された。

 アイザックは謝る。

 教師は「まぁ、今日は大変そうだから大目に見る」と半笑いで職員室を出ていった。


(わかっているなら、言わなくても……)


 アイザックはそう思ったが、すぐにジュディスに視線を戻す。

 彼女の考えはわかっているつもりだ。

 しかし、なぜここなのかがわからなかった。

 そんなアイザックの考えを見透かしたのか、彼女はクスリと笑う。


「もうすぐきます」


 ジュディスの口から発せられた言葉は、その事に関しての説明ではなかった。

 彼女の言葉から数秒して、パタパタという軽い足音が聞こえてきた。


「アマンダさん、廊下を走ったらダメだよ」


 先ほど職員室を出ていった教師の注意が聞こえる。

 どうやら本当にアマンダがやってきたようだ。


「ごめんなさい! でも……、でも今日だけは見逃してください!」

「まぁ、今日はねぇ……。だけど、そんなに急がなくても――あっ」


 教師は「アイザックくんは職員室にいるよ」と言おうとしたのだろう。

 だが聞き終わる前に、またパタパタと廊下を走る音が聞こえだした。

 アマンダは、かなり焦っているようだ。

 もう少し落ち着いていれば、アイザックがすぐ近くにいると教えてもらえたという事にすら気付かず走り去っていった。


 アイザックは、最大の脅威が去ったのでホッとする。

 しかし、まだ終わりではない。

 すぐ目の前に脅威は残っている。


「……なぜアマンダさんに追いつかれるとわかったんですか? さすがにアマンダさんの行動を調べられるほど占いの精度は高くなかったはずですが」

「友達に頼みました……」

「友達に?」

「はい」


 ジュディスが説明を始める。

 彼女は友人に「バレンタインデーは、〇〇の教室の前で待っていて」と頼み、その状態で当日どうなるかを占っていた。

 アイザックの姿が見えなければ、違う場所を指定して待っていてもらう事にする。


 ――アイザックの姿が確認できるまで。


 彼女は自分の未来を占えない。

 だから友人を定点カメラとして使い、適度に移動させながら占いで未来を覗き見ていたのだった。

 その時、アイザックが職員室前でアマンダに捕まっているのを見て、助けるために職員室で待っていたらしい。


 そんなジュディスの行動に、アイザックはドン引きしていた。

 助けてくれた事には感謝しているが、彼女の行動は「好きな人のカバンにGPSを仕込んで行動パターンを調べるストーカー」そのものである。


 時代を先取りしているのか。

 占いなので時代遅れなやり方なのかはわからない。

 だが、そんな事はどうでもいい。

 未来を占えるジュディスの恐ろしさを、アイザックは改めて実感させられていた。


 ジュディスがアイザックに抱き着いて、背中に手を回してくる。

 胸の柔らかい感触が触れる。

 彼女の胸が邪魔をするので体までは密着しない。

 これは彼女特有の現象である。

 しかし、それに気を取られるわけにはいかなかった。


「ジュディスさん、いきなり何を……」

「私の胸……、大きいですよね?」

「そりゃあ、まぁ……」


 アイザックが答えるまでもない。

 誰が見ても、ジュディスの胸は特別サイズである。

 彼女とアマンダのサイズの違いを見て「これが格差社会というものか!?」と実感したものだ。

 それをなぜ今になって、抱き着きながら話すのかがわからなかった。

 ジュディスは、その事についても説明を始める。


「胸が大きくても良い事なんてなかった……。家族と抱き合っても……。他の人がするのとは違って、距離を感じるもの……。でも、無駄じゃなかった……」


 彼女は頬を赤らめて、アイザックを上目遣いで見る。


「アイザックくん、大きい方が好きみたいだから」

「い、いや、別にそんな事は……」


 アイザックの目が泳ぐ。

 その時視界に入った教師達が「へー、巨乳好きだったんだ」と考えているかのように見えてしまう。


(教師……、そうだ! ここって職員室だ!)


「ジュディスさん、ここは職員室だから離れて――」


 アイザックは、抱き着いているジュディスを引き離そうとする。

 だが、彼女はギュッと強い力でアイザックを抱きしめたままだ。


(あれっ、なんで?)


 再度挑戦するが、彼女の腕は身じろぎもしない。

 非常に強い力で抱きしめられている。

 アイザックは、その力に思い当たるところがあった。


(……そういえば女子の護身術ってハイレベルだったな)


 王立学院は共学であるため、女子生徒を襲って既成事実を作ろうとする者がいる。

 彼らから身を守るため、女子生徒は男子生徒から身を守る護身術を身に付けるのが常識となっていた。

 ただの文学少女にしか見えないティファニーですら、素手ではかつてのアイザックを凌駕する強さだった。

 伯爵令嬢のジュディスは、子爵令嬢のティファニーよりも鍛えられているのだろう。

 アイザックの力では簡単に離せそうにない。

 ふと、アイザックの脳裏に一つの考えが思い浮かぶ。


(既成事実って、女子だけの問題じゃないよな)


 ――もしも、ここが保健室だったら?


 ジュディスに押し倒されていたかもしれない。

 既成事実を作ろうとするのが男子生徒だけとは限らないのだ。

 女子生徒だって既成事実を作ろうとしてもおかしくない。

 特に力の差がある相手ならば特に。


 今の状況は危ない。

 危険から逃れられないように、ガッチリ捕まえられている。

 カマキリのメスの鎌でガッチリと捕らえられた、食われる直前のオスの気分がわかる気がした。

 アイザックの背筋に冷や汗が流れる。


「占いの力も欲しがらない……。私自身に興味を持ってくれた初めての人……」


(やばい! 告白が進んでいる!)


 危険を感じたため、アイザックは近くの教師に助けを求める事にした。


「先生、職員室でこんな事をされても困りますよね?」

「職員室でやらなくてもとは思うが……。今日はバレンタインデーだからな。大目に見よう」


 だが、教師は助けてくれなかった。

 それもそのはず、バレンタインデーは婚約者のいない女子の救済措置ともいえる特別な日だ。

 王立学院は婚活の場としての側面もあるので、教師が邪魔をするはずがない。

 むしろ、ジュディスを応援する立場だった。


 しかし、誰も助けてくれないというわけではなかった。

 レイモンドがアイザックの体にしがみついたジュディスの指を外してくれた。

 アイザックはこの隙を逃さず、ジュディスの体を引き剥がした。


「どうして……」


 ジュディスの言葉は「どうしてこの気持ちを受け入れてくれないの?」というものではなかった。

 その証拠に、彼女の視線はレイモンドに向けられていた。

 視線からは「どうして邪魔をするの?」という意味だという事が読み取れた。


「アイザックにその気があるなら邪魔はしませんでしたよ。だけど、アイザックにはその気はない。例えアイザックが巨乳好きでも……。いや、巨乳好きだからこそ、抱き着いて色仕掛けを仕掛けるのは見逃せないよ。僕らは男だからね。綺麗な人相手だと一時の感情で心が揺らぐ事もある。でも、そういうのがきっかけで仲良くしようとするのはよくないと思うんだ。きっと後悔する事になる」


 レイモンドが自嘲気味にフッと笑う。


(お前……、過去に後悔するような事があったのか?)


 レイモンドの言葉には不思議な説得力があった。

 彼は婚約者であるアビゲイルの尻に敷かれている。

 可愛い子に見惚れて、後悔させられるような事でもあったのかもしれない。


「アイザックが受け入れているのならいい。だけど、そうでないなら黙って見過ごす事はできない。アイザック、ジュディスさんは僕が足止めしておく。行けっ」

「レイモンド……。すまない!」


 アイザックは、またしても友人に助けられた。

 一人ではない事のありがたみを知る。


「ダメッ……、邪魔しないで……。あなたに邪魔されたと、お爺様に相談する……」

「くぅっ!?」


 レイモンドとしては痛いところを突かれた。

 子爵家では伯爵家の圧力には勝てない。

 それも領地持ちの大貴族相手の前では消し飛んでしまう程度の力しかない。

 伯爵令嬢の婚活を邪魔するという事の意味を考えれば、即座に前言撤回したいところだった。


「大丈夫だ。お前にはウェルロッド侯爵家がついている。ランカスター伯爵の事は気にしなくていい。問題になればこちらでなんとかする」


 アイザックはレイモンドを守ると約束する。


 ――友人が身を張って守ってくれるのなら、自分も精一杯守る。


 これは当然の事だった。


「助かる。……さすがに親に迷惑はかけられないから、本当に助けてくれよ」

「あぁ、もちろんだ。ここは任せた」

「あっ、待って……」


 ジュディスには食べられるような恐ろしさがある。

 アマンダよりも危険な人物にしか思えなかった。

 この場はレイモンドに任せ、アイザックは颯爽と逃げる。 


 ――目指すは昇降口である。



 ----------



(くそっ、ジュディスに時間を取られたせいで回り込まれたか)


 昇降口付近には、アマンダの友人達が待機していた。

 アマンダが校内を探し回っている間、アイザックが校外に出るかどうかを調べるためだろう。

 当然ながら、足止めもしてくるだろう。


(マズイ、マズイぞ。突破できるビジョンが浮かばない)


 アマンダの友人という事は、みんな体育会系だろう。

 ジュディスですら、あれだけの力を持っていたのだ。

 ティファニーに勝つのがやっとのアイザックでは到底敵わない。

 別の道を探した方がよさそうだ。


 アイザックは違う道を探そうと、昇降口から離れようとする。

 しかし、踵を返したところで人とぶつかった。


「ごめん、前を見てなか――」

「いいんだよ。ちょうどよかったから」


 ――ぶつかった相手はジャネットだった。


 肩をガッシリと掴まれる。

 彼女はアイザックと互角の体格をしている。

 それはジュディス以上に力もあるという事だ。

 アイザックの力では、彼女の手を振りほどけそうになかった。


「アマンダの告白を聞いてやってくれないか? 頼むよ」


 ジャネットは切なげな顔を見せる。

 アマンダの事を自分の事のように心配しているのだろう。

 彼女の気持ちは理解できる。

 しかし、アイザックは受け入れなかった。


「ダメだよ。今日はバレンタインデーだ。この日に人生を賭ける人も多いと聞く。今日の告白だけは聞くわけにはいかない。断るにも勇気がいるじゃないか……」

「そこはハッキリと断ってやるのも男の務めじゃないかい?」

「いつも断ってはいるんだけどね……」


 そういつも断っている。

 なのに不屈の闘志を燃やして諦めないアマンダがタフすぎるだけだ。

 普通ならば、もうあきらめているはずだろう。


 あと強制されるのは、さすがに勘弁してもらいたい。

 アイザックは腕を振り払おうとする。

 だが、できなかった。

 ジュディスは両手でガッチリとホールドされていたが、ジャネットは肩に片手を置いているだけだというのに。


「ジャネットさん、手を放してくれるかな? マットの婚約者なんだから、言う事を聞いてよ」

「ダメだね。カービー男爵の婚約者ではあるけれど、今はまだ結婚しているわけじゃない。アマンダの友達として、足止めさせてもらうよ」


 アイザックは奥の手であるマットの事を持ち出したが、彼女には効果がなかった。

 今はまだアマンダの友人としての立場が優先されるらしい。


「話は聞かせてもらった!」


 ここで救いの神が現れた。


 ――ポールである。


 彼はアイザックの肩からジャネットの手を払いのけた。


「ジュディスさんの友達に邪魔されて教室を出れなかったから、もうアイザックは帰ったんじゃないかと思っていたら……。こんなところで足止めされているとは……。ここは俺が対処してやるから、帰ってもいいよ」

「そうはさせない!」

「それはこっちのセリフだ」


 アイザックを掴もうとするジャネットの手を、ポールは掴み取った。

 正面から手と手を組み合い、お互い睨み合う形となった。


「行けよ、アイザック。でも、アマンダさんには後日ごめんと一言くらいは謝っておいた方がいいぞ」

「ありがとう、ポール!」

「逃げるのかい!」

「あぁ、僕は逃げる。こんな男を好きになるなとアマンダさんに伝えてくれ」


 アイザックは、またしても逃げる。

 しかし、昇降口方面にはいけない。

 他の場所を探す必要がある。


(連絡通路なんかも待ち伏せされているだろう。だとしたら――) 


 思い浮かんだのは空き教室だった。

 空き教室の窓から外に出る。

 行儀は悪いが、そんな事を言っている場合ではない。

 

「いたたたたた! 待って、ジャネットさんの力が思っていたより強い。助けてくれ、アイザック!」


 ポールの悲鳴を背に、アイザックは廊下の角を曲がってジャネットからの視界を切る。


(どうして、どうしてこんな事になったんだ……)


 アイザックの耳には「助けてくれ」と叫ぶ友の声が残っていた。

 走りながら廊下の窓から外を見る。

 女子生徒に告白されて、照れながら喜ぶ男子生徒の姿が視界に入った。


(なんであいつはあんな風に喜べるんだ? ちくしょう! なんで俺は学校を休まなかったんだ!)


 バレンタインデーは、学内での告白が基本だった。

 家にまで押し掛けてハンカチを渡そうとするのは、バレンタインデーの趣旨に反する。

 あくまでも「意中の相手に婚約成立のために動いてもらうきっかけ」でしかない。

 学校を休んでいれば、避けられた事態だった。

 バレンタインデーに賭けるアマンダ達の想いを軽く見積り過ぎたようだ。


 アイザックは空き教室を見つけると、中に静かに入る。


「アイザックくん?」


 すると、そこにはニコルがいた。


 ――逃げ延びた先には、ラスボスが待っていた。


「逃げる」という選択をしたせいで、最悪の結果を引き寄せてしまったようだ。

 墓穴を掘るとは正にこの事だろう。


(今日はなんてツイてない日なんだ……)


 アイザックは「本当に休んでおけばよかった」と深く後悔する。

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