第343話 ピストンとクランク
数多くのドワーフが街の外に集まっているという事もあり、休む前に気球を披露する事にした。
改めて集めるよりは、この方が手間がかからない。
それに最初に見せておいた方が、このあとジークハルト達と話す時に、より好意的に受け取ってもらえる。
この二つの計算から、アイザックは早速行動に移す。
ノーマンに命じて気球の準備をさせる。
準備の最中、ドワーフ達だけではなく、ウェルロッドで合流したエルフ達も興味深そうに気球を見ていた。
王都で行ったお披露目の事を考えれば、彼らも驚いてくれるはずだ。
気球に暖かい空気を送り込むのをブリジットに手伝ってもらい、途中から木炭に変更する。
この手順にも慣れてきたので手際がいい。
やがて、気球が浮かび始める。
「おおっ!」
皆から感嘆の声が漏れた。
「凄い、凄いよ! あれは魔法で浮かんでるの?」
ジークハルトがアイザックに浮かぶ理由を尋ねる。
アイザックはニヤリと笑った。
「いいや、魔法は気球を早く暖めるために使っただけで、今は木炭の熱だけで浮かばせている。この大きさなら木炭でも大丈夫だけど、もっと大きいもの。例えば、人が乗って空に浮かべるくらい大きなものになると、魔法を使わないと暖めきれないだろうね」
「人が空に浮かぶ!」
ジークハルトが――いや、この場にいた者達全員が目を輝かせる。
未知の世界への挑戦は、やはりドワーフ達にはかなり魅力的に見えるようだ。
アイザックも、前世の記憶がなければ彼らと一緒にはしゃいでいただろう。
「今年は色々と忙しくて、飛行機関係の研究ができなかったんだ。だから、簡単にできそうなものを代わりに用意したんだよ。飛行機は飛ぶけど、気球は浮かぶ。移動手段としては飛行機に劣るだろうけど、空を楽しむという点では気球でも十分なものになると思う」
「いやいや、簡単じゃないよ。こんなの。いや、まぁ作り自体は簡単みたいだけどさ」
気球の作りは、見る分には至って簡素なもの。
一度見れば、真似をするのも簡単に思える。
問題は、その発想だ。
暖かい空気を溜め込めば、それで空に浮かぶなどと誰が考えるだろうか。
「理論は簡単です。お湯を沸かしたところを思い出せばわかりやすい。温めた水は蒸気となって空へと飛んでいく。つまり、これは暖められた物質の比重が小さなものになるという証明です。気球内部の空気を暖め続ける事で、気球の外部に存在する空気との比重の違いによって浮かび始める。くそっ、蒸気機関の開発で、吹き上がる蒸気を毎日のように見ていたというのに……」
空に浮かぶ理屈を理解している者が一人いた。
ピストがジークハルトに、気球がなぜ浮かぶかという事を説明する。
彼の顔は悔しそうだった。
気球の理屈はわかっている。
あとは軽い布の中に空気を閉じ込めるという発想にたどり着くだけだったのだ。
だが、その発想にたどり着くのが非常に難しい。
日頃から目の前にヒントがあっただけに、今一歩届かなかった悔しさは大きいものがあった。
「エンフィールド公の創造力が見事だったとしか言いようがございません。私も王都に残っていれば……。いやしかし、こちらでの生活も捨てがたい」
ピストが「うーむ」と悩み始める。
――アイザックのそばにいて、新しいものの開発を手伝うか。
――ドワーフ達と共に蒸気機関の実用化に向けて頑張るか。
どちらも捨てがたいほど魅力的な内容だった。
何か思いついたのか、彼は手をポンと打つ。
「エンフィールド公がこの街に住めば解決ですね!」
「却下で」
「なぜ!?」
ピストは本気でわけがわからないという表情を浮かべている。
だが、その考え方こそアイザックには、わけがわからない。
「僕はまだ学生ですし、王都でやらないといけない事もあります。卒業しても、ウェルロッドに帰って領主の勉強をしなくてはいけません。そのあとの事もどうなるか。研究開発にだけ打ち込む時間はありませんよ」
「もったいない……」
「本当にもったいない……。人間の寿命は短いというのに……」
ピストに同調して、ヘルムートまでもが残念がる。
人間の寿命は、ドワーフの寿命の四分の一程度しかない。
余計な事はせず、アイザックには研究開発に打ち込んでいてほしかった。
その方が世界の発展に繋がると、彼は信じ込んでいた。
「研究所でも蒸気機関の開発が進んでいるそうじゃないですか。新しい部品を考えたとか。多くの事に手を出すよりも、まずは一つずつですよ。そちらの話も聞いてみたいので、もうしばらくしたら街に入りませんか?」
アイザックは、気球が降りてきたらお茶でも飲みながら話そうと話題を変えた。
このままでは、流されるままに研究員にさせられそうな予感がしたからだ。
エリアスなら「やってみるべきだ」とか言い出しかねない。
いつまでもアイデアを思いつく自信がないので、それだけは避けなければならなかった。
「では、私は部品を研究所から取ってきます。クランもエンフィールド公と会いたがっていたので連れていきます」
「クランさん? そういえば、ここに来てませんね。病気ですか?」
アイザックは返事をしながら周囲を見回す。
確かに彼女の姿はない。
怪我や病気ならば、こちらから出向く必要があるだろう。
(とはいえ、そんな状態ならいくらなんでも連れていくとは言わないだろう。研究が良いところだったからとか、そんな理由だろうな)
「妊娠五ヶ月くらいですので、長い時間待たせるのも体に障るという判断で待機させていました」
「妊娠!?」
今度はアイザックが驚かされる番だった。
夫婦生活とは無縁に思えるピストが相手なだけに、クランが妊娠したという事実が信じられなかった。
(へ、へー……。やる事やってるんだ……)
前世の自分は女性に興味津々だったというのに、まったく女性とは縁がなかった。
研究一筋で女性に興味のなさそうなピストに先を越されたので、アイザックは精神的なダメージを受けていた。
「先生、なかなかやるね……」
「はぁ……?」
先ほどまでは「ピスト」と呼んでいたのに、アイザックが突然「先生」と呼ぶようになった事をピストは訝しむ。
彼にはその理由がサッパリわからなかったせいだ。
――夫婦として当たり前の行為。
その当たり前が、アイザックにはとてつもなく大きな壁に見えていた。
あっさりと壁を乗り越えたピストに、アイザックは自然と敬意を覚えていたのだ。
そんなくだらない理由が原因だと、いくらなんでも彼にわかるはずがなかった。
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気球を回収すると、アイザック達はジークハルトに連れられてホテルへ向かう。
かつてアイザックが、この街を訪れた時に泊まったホテルだ。
隊長クラスではない騎士達は違うホテルへ案内された。
荷物の運び入れはノーマン達に任せ、アイザック達はジークハルト達と食堂で話をする事にした。
「さて、遅くなったけど紹介いたします。こちらはフィルディナンド・ハリファックス子爵。僕の母方の祖父です。そして、こちらはニコラス・ソーニクロフト。僕の又従兄弟です」
まずは身内の二人を紹介する。
それから、エルフの紹介もした。
この街に住むヘルムートは知っているかもしれないが、ジークハルトはエルフとの接点が少ない。
アイザックと一緒にバネの馬車に乗せたブリジットの事は覚えているだろう。
だが、あまり話さなかったクロードの事は覚えているのか怪しいところだ。
念のために紹介し直しておいた。
他にも近衛騎士の隊長クラスの者達も紹介した。
彼らはアイザックの護衛をしているが、アイザックの部下ではない。
国王直属の騎士なので、別の命令系統を持つ代表者として同席させていたからだ。
同行者の紹介が終わると、次はドワーフ側の紹介だ。
「あちらのヘルムートさんは、この街で一番大きいヴィルヘルム商会の商会長です。ヘルムートさんの隣に座っているのが、僕の友人のジークハルトです。彼は評議員のルドルフさんのお孫さんでもあります。そして、武装されている方がウォルフガングさんです。ドワーフと交流を再開するきっかけになった方でもあります」
紹介自体は至って平凡なもの。
だが、ウォルフガングを紹介すると、人間側の出席者が目を大きく見開いて彼に注目した。
ウォルフガングは「いやー、お恥ずかしい」と照れる。
しかし、彼の所業は照れて終わるようなものではなかった。
――ザルツシュタットに近いアルスターを襲撃しようとしていた。
こう聞けば、誰だってとんでもない奴だと思うだろう。
アイザックが交易を持ち出さなければ、そのまま街で暴れていた可能性が高いからだ。
交流再開のきっかけを作ったと言えば聞こえはいいが、実際はとんでもないトラブルメーカーである。
平然とこの席に座っているのが不思議なくらいだった。
「初めてお会いした時のウォルフガングさんの行動は驚くものでしたが、問答無用で暴れたりするような事はせず、理性的な話し合いをして問題を解決できる方でした。今回、僕達の手助けを申し出てくださるなど、男気も持ち合わせた方でもありますね」
「それは褒め過ぎだ。人間やエルフが仲間を助けようとしてくれているのに、ドワーフが動かんわけにはいかんと思っただけだ」
ニコラス達が引かないようにかなり気を使った表現をされているだけだが、それでも褒められて悪い気はしない。
ウォルフガングは、ガハハと豪快に笑った。
「私もウォルフガングと同感です。物資の面で皆さんを支援させていただきます。とはいえ、魔剣や魔槍などは在庫がございませんので、通常の武具や食料といったものになりますが」
ヘルムートがウォルフガングとは違う形での協力を申し出た。
彼にも「人間やエルフに任せきりにはできない」という思いがあるのは事実だが、協力する事でドラゴンを退治した時の分け前を望める立場を確保するためでもあった。
ウォルフガングとは違って、少し回りくどいやり方をしているのは彼の根っこが商人だからだろう。
「そういえば、魔剣ってドラゴンの骨を使ってるんですか?」
魔剣の事が話題に出たので、アイザックは気になっていた事を質問する。
「ええ、その通りです。よくご存じで」
「魔力タンクにドラゴンの素材を使われていると聞いて、もしかしたらと思ったんですよ。魔剣も魔力を溜めて使うものですし。二百年前の戦争で魔剣の類を使い切っていなければ、自分達でなんとかしていたはずです。新しく量産しないのには、自分達に剣を向けられた時の危険以外にも理由があるんじゃないかとね」
「さすがですね。ですが素材があっても、もう魔剣は作らないでしょう。魔力タンクに加工して、平和利用に使う方が価値があるとみんなわかっていますから。まぁ、こういう時に困るんですけどね」
ヘルムートが苦笑を浮かべる。
ドラゴンと戦うには、ドラゴンの骨がいる。
「卵が先か、鶏が先か」という難しい問題だ。
魔力タンクに使われているものを分解すればいいのだが、誰も提供しようとはしない。
相手は空を飛べるのだ。
空に逃げられてしまえば刃が届かない。
魔剣は使い捨てなので、素材の無駄遣いになってしまう可能性が高い。
それでは、魔力タンクを壊すだけの大損である。
被害に遭っている街を助けたいが、現存するものしかない以上は慎重になるしかない。
「だからこそ、今回はどうなるか期待していたんだ。アイザックが動くのなら、きっと何か秘策があるってね。でも、退治はしないんだよね? どうするつもりなの?」
ジークハルトがアイザックのやり方を尋ねてきた。
倒さないのであれば貢物の提案くらいだが、それで済むならとっくに解決している。
どんな方法を使うのかが気になっていた。
それは他の者も同じ。
ヘルムートやウォルフガングもアイザックを食い入るように見つめていた。
「失敗した時の事を考えて被害地域だけの協力を得ようと思っていたけど、どうせならノイアイゼン全体の協力を得るのもいいかもしれない。ウォルフガングさんにも、戦いじゃなくて違う形で協力してもらえますしね。僕が考えている方法は――」
アイザックは、ジークハルト達にドラゴンの被害を抑えるために考えた方法を説明する。
ニコラス達が初めて聞いた時と同様に、ジークハルト達も首をかしげる。
「そんな方法で大丈夫かな? 罠を仕掛けて退治する方が、まだ理解できるんだけど……」
ジークハルトの素朴な疑問が、皆の気持ちを代弁していた。
何か罠を使ってドラゴンの身動きを取れなくしてから、魔法の集中砲火を浴びせて倒す方が理解できる。
せっかく近衛騎士とエルフが大勢きてくれているのだ。
その力を活用する方法が理解しやすい。
アイザックのやり方は、周囲の理解を得られるものではなかった。
「闘いになれば被害が出るだろ? 戦う人だけじゃなくて、戦場になる街にもだ。僕は
「なるほど。何を目的とするかの違いか。そして、被害をなくすという結果は他の方法と同じでも、アプローチの仕方を変える事で目的を達成しやすくしているんだね」
今度はアイザックの考えに理解を示す。
アイザックの方法は回りくどいものだ。
だが、目的を考えれば、そういうやり方もあるのかと思わされる。
「ドラゴンの被害をなくすためには、ドラゴンを満足させるだけのものを差し出さなくてはいけない。けど、貢ぎ物は受け取らないから、違うアプローチの方法を取らなくてはならない。だから、変わったやり方を試す……か。なるほど。成功するかどうかまではわかりませんが、少し意図が理解できたような気がします。相手の性格も計算に含めた素晴らしい考えだと思います」
ニコラスもアイザックの考えに納得したようだ。
だが、彼らとは違い、ハリファックス子爵はヘルムートと見つめ合っていた。
その姿はまるで――
「わかりました?」
「いや、ほんと無理」
「若い者の頭の回転の速さにはついていけませんね」
「そうですよね」
――とでも目で語り合っているかのようだった。
どうやら若い者の柔軟さにはついていけなかったらしい。
しかし、口に出して言うと若者に侮られそうなので詳しく聞くに聞けない。
理解できない者同士、二人の間に不思議な連帯感が生まれていた。
「さすがはアイザックの又従兄弟。理解が早いね」
「いえ、ジークハルトさんの言葉があったからこそ思いついたんです。自分一人だとわからないままでした。お二人ともさすがです」
「本当に凄いのはアイザックだけさ。僕はあとからあーだこーだと言っているだけ。最初に考え付いた者だけが称賛されるに値するというものだよ」
「アイザック兄さんのようになりたいと思っていましたけど、自分で発想できるかどうかの部分が非常に難しそうですね」
二人はアイザックを尊敬の眼差しで見る。
――人にはできない事を真っ先にやる。
先駆者は理解されにくいものだ。
だが、アイザックのやる事は理解しやすい部類である。
意図を説明されれば、まだ理解できる。
――とある人物と比べれば。
特にジークハルトは、そう感じていた。
「お待たせいたしました」
そのとある人物が、妻を連れて食堂にやってくる。
「エンフィールド公、お久し振りです」
クランがアイザックに挨拶をする。
彼女はピストの妻。
つまり、アイザックの家臣の妻という立場である。
さすがにもう「アイザックくん」とは呼ばなくなっていた。
「クランさん、お久し振りです。幸せそうで何よりです」
アイザックの視線は、彼女のお腹に向けられる。
今は九月半ばなので、五ヶ月くらいという事は結婚してすぐに子供を作ったという事になる。
ザルツシュタットに来るまでの道中に、しっかりと仕込んだのだろう。
科学に関する事以外の積極性がピストにあった事に、アイザックは驚きを覚える。
彼女はアイザックの視線に気付き、お腹をさすりながら顔を赤らめた。
「結婚してすぐに赤ちゃんができちゃうなんて、結婚前は考えてもみませんでした」
「ええ、僕もですよ。本当におめでとうございます」
「ありがとうございます」
クランが幸せそうに笑う。
彼女もピストが相手なので、夫婦生活がどうなるか不安だったのだろう。
予想以上に上手くいって、彼女自身も驚いているようだ。
「話は終わりましたか? では、こちらを見てください」
クランが、そういう反応をしてもおかしくない。
予想外だったと話されている本人が、二人の話の内容をまったく気にしていないせいだ。
科学の事ばかりに気を取られていて、子作りの事など眼中にない。
彼は二人の会話が終わるのを待ちきれないとばかりに、馬車の模型をアイザックに見せる。
ただし、模型は台車部分だけで、台車にはバネで固定された四角い筒と凸凹に曲げられた棒がつけられていた。
「こちらが新しく開発した部品です。エンフィールド公が開発された蒸気で車輪を回す方式よりも、より効率的に強い力を引き出せるようになりました」
ピストの鼻息は荒い。
よほど自信があるのか、アイザックに顔をグイッと近付ける。
彼の鼻息が吹きかかるので、アイザックはのけぞって距離を取る。
「蒸気機関に使っていた安全弁を覚えていらっしゃいますか?」
「覚えているよ。あれもよくできていた」
水の再利用を考えて作られた試作品に取り付けられていたもの。
蒸気の冷却が間に合わないので、パイプが破裂しないように一定以上の圧力がかかると、蒸気を外に出す仕組みだった。
「よくそういうものを思いついたな」と印象深かったので、アイザックもよく覚えている。
「安全弁に使っていたバネは、かなり硬いものでした。その硬いバネを押し上げる力が蒸気にはある。ならば、その力を活用した方がいいのではないかと考えました。その結果がこれです」
ピストはバネにつけられた筒を押す。
すると、筒に取り付けられた棒が動き、いくつかの歯車を通じて車輪を動かした。
指先で押しているだけなので、これに使われているバネは普通のバネなのだろう。
押して離す。
それを繰り返すだけで、車輪は勢いよく回っていた。
「蒸気は安全弁を動かすほど強い。その力を利用して、このピストンと名付けた部品を上下に動かします。この動きは上下という直線的な縦の動きになるので、普通の軸では力を伝えられません。そこで、この折れ曲がったシャフトを作り出しました。こちらはクランクシャフトと名付けました。この形なら上手くピストンの力を伝えられます。そしていくつかのシャフトや歯車を通じ、蒸気の力で車輪を回せるようになる……予定です。今はまだ研究中ですが、将来的には馬車を蒸気で動かせるようにだってなるでしょう」
ピストは早口にまくし立て、話し終わると誇らしく胸を張る。
この発明には余程の自信があるのだろう。
「なるほど、力のロスは少なければ少ない方がいい。従来のやり方では、タービン部分に触れない蒸気が無駄になってしまう。ピストンは、蒸気を溜めて力を使うから力のロスが今までより少なくなる。ロスが少なくなった分だけ、より強い力を引き出せるようになる。これは素晴らしいものだと思いますよ。あなたに研究を任せていてよかった」
アイザックは、ピストを素直に褒めた。
ピストンやクランクは、車などでも使われているもの。
つまり、彼はこれから先何百年も使われ続けそうなものを作り上げたのだ。
まだピストン一つだけのものだが、複数のピストンを使ったエンジンを、彼はいつかは作り上げるだろう。
本物の天才を目の当たりにして、アイザックは感心する。
(ジークハルト達は俺を褒めてくれているけど、本物の天才はピストだ。前世の知識なしでも、こんなものを作りあげるんだもんな。……名前からすると、元々ピストンを作り上げる設定だったのかもしれない。クランと結婚したからクランクなんだろうけど、ニコルと結婚していたらニコルク? それともニコルン? そんなものがパーツの名前に使われるのは嫌だな)
――ニコルに攻略される前に逃がしてよかった。
良い事をしたとアイザックは思った。
「部品の名前には、私とクランの名前を付けようと考えていました。しかし、そのままでは『ピスト』と呼ばれた時に部品の事なのか、私の事なのかわかりません。それで、一文字だけ追加したもので名付けたのです。この二つの部品はクランがいなければ作り上げる事ができませんでした。彼女がそばにいてくれるのが、これほどまでにありがたいとは思いませんでした。本当に結婚してよかったと思っています」
ピストがクランを見つめる。
彼女は、やはり照れていた。
(夫婦の力は偉大……か。ちょっと羨ましいな)
アイザックも、リサがそばにいれば「よし、ドラゴン対策を頑張るぞ!」と気合が入っていたのかもしれない。
愛する人と常に一緒にいられる事を羨ましく思う。
「どうやって思いついたんですか?」
――ちょっとだけなら、惚気話も聞いてもいい。
そう思ったアイザックだったが、すぐに聞いた事を後悔する事になる。
「クランと子作りをしていた時ですよ」
この時、ちょうど飲み物を口に含んでいたブリジットがブフッと噴き出す。
あまりにもストレート過ぎる内容に驚いたからだ。
クロードが「なにをやっているんだ」と咎めるが、内心では「気持ちはわかるけども」と思ってハンカチで拭いてやっていた。
「クランに腰を振っ――痛っ!」
アイザックの素朴な疑問にピストが答えると、その途中でクランがピストの顔を引っ叩いた。
「そんな事を今言わないでもいいでしょう!」
「なぜだ?」
(いや、当然だろう)
この感想は、この場に居合わせた者達と共通したものだ。
夫婦の営みが順調なのは、クランのお腹を見れば一目瞭然。
しかし、実際に言葉にして話してもいいかどうかは別問題である。
その辺りの配慮ができないのが、ピストの困ったところだった。
「アイザック、これが本当に王立学院の教師だったのか? しかも、お前やティファニーの担任だったとか」
ハリファックス子爵が眉をひそめながら、アイザックに耳打ちする。
彼の疑問はもっともなものだ。
ピストの発言は教育者としてどころか、人としてあまりにも非常識なものである。
貴族の子供達を相手に教えていたとは信じられないのも無理はない。
「一年の一学期だけですけどね。能力だけは確かです。科学に関する能力だけで教師をやっていたようなものでしたね」
自分自身も騙されて科学部に入れられそうになった経験がある。
アイザックも、さすがに庇いきれないし、庇う気はなかった。
ハリファックス子爵は「なんという事だ」と呟くと、アイザックから顔を離す。
そして、大きな溜息を吐いた。
気球を含めて、ここ最近の出来事は不可解な事ばかりだった。
ピストが教師だったという事も、空に浮かぶ気球並みに信じられない事実だったのだろう。
「それにしても、今の話でよく理解できましたな。私にはさっぱりです。さすがはエンフィールド公といったところでしょうか」
ハリファックス子爵は、他所向きの言葉でアイザックに話しかける。
今度は声をひそめていない。
「そうだよ。たったあれだけの説明で、説明されていないところまで理解しているんだもん。僕なんて何度も説明されて、ようやく理解できたからね。やっぱり、アイザックは凄いよ」
ジークハルトもハリファックス子爵の意見に同意する。
ピストの説明は、相手がある程度の知識を持っている事が前提のものばかり。
先ほどの説明も抽象的過ぎて、普通なら仕組みを理解できないものだった。
あの説明で理解できたアイザックの非凡さが光る。
「いやぁ、偶然だよ」
(そうか、驚いて知らないフリをしないといけなかったんだ)
アイザックは愛想笑いを浮かべながら、自分の行為を反省する。
ピストンやクランクシャフトなどは、前世の記憶で名前と仕組みを知っていた。
だから、画期的な発明だとわかっていても、特別な驚きはなかった。
これはアイザックが、今まで発明する側だった事が大きく影響している。
ゼンマイバネはバネの延長線上のものなので、ピストに新規開発で先を越されたのは蒸留器以来だ。
それに、前世の記憶で様々なものの存在を知っている。
そのため、今回の発明も「よく作ったな」と感心しただけだった。
ピストに自由に研究させている以上、もう少し未知のものに接する反応を考えなくてはならなかった。
「いえ、きっとエンフィールド公は似たような仕組みを考えておられたのでしょう。だから、驚かなかったのです」
(違う、そうじゃない! いや、確かに知ってはいたけどもさ)
反省しているアイザックに、ピストが追い打ちをかける。
こんな風に言われては、ジークハルト達の手前知ったかぶりをしなくてはならなくなってしまう。
もうこれ以上ハードルを上げられたくはなかった。
すぐさま否定しようとする。
「なるほど!」
ジークハルトとヘルムート、ウォルフガングが声を合わせて納得する。
今まで話についていけずに黙っていた近衛騎士も「ほう」と感嘆の声を漏らす。
ニコラスもキラキラと目を輝かせて、アイザックを尊敬の眼差しで見つめていた。
(やめろ、そんな目で見るな……)
アイザックは、特にニコラスに対してそう思ってしまう。
こんなに自分を慕ってくれている相手に、ケンドラの事で嫉妬して「亡き者にできないか」と考えていた事が後ろめたいからだ。
人を利用したり、罠にかけてやろうという視線の方がまだ受け止められる。
純粋な敬意であるとわかるからこそ、アイザックは口をつぐんで目を逸らした。
その姿がまた「自分も考えていたって言ったりしないんだ」と、より強くニコラスの敬意を高め、より強くなった尊敬の眼差しがアイザックの心にダメージを与えていった。
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