第333話 空への第一歩

 夏休みに入ったので、アイザックは宿題を早めに済ませる事にした。

 まだまだ金を借りにくる者も多いので、余裕のある行動を心がけていた。

 そこでアイザックは友人を招いて、一緒に宿題をやる事にした。

 婚約者ができた事でポールがやる気を出しているので、彼の勉強を助けるためでもある。 

 将来の事について話し合いながら、ワイワイと宿題をやっていた。


 そして、昼食の時間。

 アイザックの友人達も一緒に食事をとる。

 クロードやブリジットだけではなく、マーガレットもいるので彼らは緊張気味だった。

 当然、アイザックは家族と食事をとるようなものなので、緊張はしない。

 チーズリゾットを食べながら、呑気な事を考えていた。


「そういえば、白米では食べないけど、リゾットにするとみんな食べるんだね」

「こういう料理なら美味しいし」

「白米だと味がないからイマイチなのよね」


 返事をした前者はレイモンドだが、後者はブリジットだった。

 エルフのブリジットまで反対意見を口にするので、アイザックは目を丸くする。

 しかし、すぐにそれは間違いだと気付いた。

 彼女は元々和食を好きではなかった事を思い出したからだ。


「パンみたいな主食として考えれば、白米は白米で美味しいのに……。しかも、食べるだけじゃなくてのりとしても使えるんだよ」

「よくそんな事を知っているな。障子とかが使われなくなって久しいというのに」


 アイザックがエルフの若者よりも文化に詳しいのは知っていたが、米糊の事まで知っていたのは意外だった。

 もしかすると、ブリジットよりも詳しいのかもしれない。

 人間の方がエルフの文化に詳しい事を思うと、クロードはつい苦笑いを浮かべてしまう。

 アイザックはクロードが苦笑した事ではなく、言った言葉に反応する。


「障子? あぁ、米で作った糊って障子紙を貼るのに使うんですね」

「そうだ。今はほとんどの家が人間の家と同じ作りになっているから、使っているところは限られるがな」


 クロードは米糊を知っていても、何に使うか知らなかったアイザックの偏った知識に呆れてしまう。

 しかし、すぐに障子紙を貼り付けるのに使うというのに気付いたところには感心する。


「そういえば、接着剤での工作とかやった事はなかったなぁ」


 前世では夏休みの宿題で工作などがあったが、この世界ではない。

 幼い頃は色々と忙しかったので、物作りはしていなかったせいだ。


(そうだ、あれを作ってみよう)


 冬になればきっとジークハルトも来るだろう。

 その前に、作っておきたいものもある。

 気分転換にちょうどいい機会だ。


「クロードさん、米糊って作れますか?」

「作れる。難しいものではないからな」

「それじゃあ、お願いしてもいいですか? ちょっと作ってみたいものがあるんです」

「わかった。あとで作っておこう」


 クロードにはアイザックの頼みを断る理由がない。

 簡単なものであるし、アイザックが何をしようとしているのか気になるからだ。

 自分の好奇心を満たせるので、喜んで手伝うつもりだった。


「作るところを見てみたいんですけど、お邪魔じゃなければいいですか?」

「あっ、俺も見たい」


 ルーカスがクロードに見せてほしいと頼むと、ポールも見たいと言い出した。


「ああ、かまわない。でも、本当にたいしたものじゃないぞ?」

「それでもいいんです。エルフの文化に触れられるだけでも嬉しいので」


 クロードも子供達が自分から興味を持ってくれている事を喜び、満足そうだった。

 ブリジットももっと興味を持ってくれればいいのにと、チラリと見る。


「精米とお湯、すり鉢とすり鉢を覆う事ができる鍋の蓋を用意してくれないか? 食後に作ってみせよう」


 クロードは使用人に米糊を作るのに必要なものを要求する。

 その要求したものは、本当に簡素なものだった。

 アイザックとクロード以外は、そこからどんなものができあがるのかわからないので、興味深そうにしていた。

 表面上は落ち着いているマーガレットも、興味を持つ一人だった。




 食後のお茶を楽しんでいる時に、クロードが頼んだものが運び込まれた。

 ここでアイザックに一つの疑問が浮かぶ。


「米糊って炊いたり水に漬けたお米を、練って作るんじゃないんですか?」

「確かにそういうやり方もある。でも、エルフのやり方は違うんだ」


 クロードはすり鉢に米を入れて、鍋の蓋を閉める。

 そして、右手を蓋の上に置いた。


「少しうるさくなるので、耐えられないと思ったら耳を押さえてください」 


 これはマーガレットに対しての忠告だった。

 アイザック達はまだ子供だが、マーガレットは貴族の夫人として騒がしいのを許容できるかわからなかった。

 パーティーのざわめきと、これから起きる事の騒音とは別物だからだ。

 波風立たせないためにも、一声かけておくに越した事はない。


 周囲の様子を確認して、クロードが魔法を呟く。

 すると、すり鉢の中から激しい音がし始めた。

 おそらく風の魔法でも使って、すり鉢をミキサーのように使っているのだろう。

 この世界では珍しい大きな音なので顔をしかめる者ばかりだった。

 そんな中、アイザックだけは懐かしさを感じていた。


(懐かしいな。ミキサーの音ってこんな感じ……だったかな?)


 前世では母がミキサーを使ってバナナと牛乳を混ぜてジュースなどを作ってくれた。

 しかし、わざわざ作らず直接フルーツジュースを買えばいいという事に気付いてからは、徐々に出番がなくなっていった寂しい機械である。

 違う世界で前世と似たような調理方法を見る事ができて、アイザックは少し寂しい気分になる。

 この世界にも慣れてきたが、やはり前世は前世で良いところもある。

 せめて、家族に別れくらいは言っておきたかった。


 激しく米が砕ける音がしていたが、しばらくすると、ザーっと砂のようなものが擦れる音がした。

 頃合い良しと見たのか、クロードが魔法を使うのをやめて鍋の蓋を取る。

 アイザックの予想通り、中には米が細かく砕かれて白い粉になっていた。


「小麦粉みたいになってる!」

「風の魔法を使って細かくしたものだ。すりこぎ棒を使ってもいいんだが、こっちの方が楽なんだ」

「魔法を使ってるところを見られないのが残念かな」

「あんなに激しい音がしていたんだ。蓋をしないと中身が飛び散るんだろうから仕方ない」


 ガラス製の鍋の蓋なら中が見えるが、そんなものはこの世界にはない。

 その点はアイザックも残念ではあるが、ないものねだりをしても仕方がない。

 子供達が物足りなさを感じていても、クロードは注目を浴びて機嫌が良さそうだった。

 エルフには使えて当然の魔法を見て、はしゃぐ子供の姿を見られるのが嬉しいのだろう。


「じゃあ、次は私も手伝うわ。何をすればいい?」


 クロードだけがちやほやされているのを見ていられず、ブリジットが協力を申し出る。

 彼女も魔法が使えるというところを、みんなに見せてやりたくなったのだ。

 この申し出に、クロードがニヤリと笑う。


「ちょうどよかった。手伝ってほしいと思っていたところだ。なら、このすり鉢を持って温めてくれ」

「えっ……」


 クロードがすり鉢をブリジットに渡すと、ブリジットは微妙に嫌そうな顔をした。

 思っていたのとは違う地味な役割だからだろう。

 しかし、ここで「やっぱりやめる」と言えば意味がない。

 渋々ながらも引き受ける事にした。


 クロードは、すり鉢にお湯を入れると蓋をしてブリジットに渡す。

 すり鉢を受け取ったブリジットは、両手ですり鉢を持って魔法を唱える。

 見た目ではわからないが、それで温めているのだろう。

 クロードがまた鍋の蓋に手をおいて、すり鉢の中を魔法でかき混ぜ始めた。


(地味だな……)


 ミキサーのような魔法の使い方を見て前世を思いだしたが、冷静になって今の光景を見てみれば地味過ぎる。


 ――温めながら混ぜる。


 この世界では凄い事なのかもしれないが、やっている事自体は地味である。

 電気があればどちらも簡単にできる事なので、冷静になったアイザックの感動は小さかった。

 魔法を使わず、普通にすりこぎ棒で作っていた方が見えていた分感動していただろう。

 視覚による刺激というのは、それほど重要なものだった。


「これでしばらくすればできあがる」

「そうですか。なら、僕も準備しないと」


 クロードが作ってくれている間に、アイザックは目的の物を作る準備をし始めた。

 といっても、難しい事はない。

 薄い紙を折り曲げて、のりしろの部分を作り始める。


 ――アイザックが紙で作ろうとしているのは、縦長の長方形の箱だった。


 紙を糊で貼り合わせて、スカイランタンのようなものを作ろうとしていた。

 飛行機は羽を作ったり、バランスを取ったりするのが難しい。

 浮かぶだけなら、気球のようなものの方が作りやすいと思ったからである。


 とりあえず、皆に空への興味を持たせる事ができればそれでいい。

 いきなり飛行機を作ろうとするよりも、簡単な方法で済ませてもいいだろうと考えたのだ。

 二年後までドワーフが自分の味方でいてくれればいいのだから、必要以上に凝る必要はない。

 力の入れどころを間違えてはいけない。

 あくまでも補助的な役割さえ果たしてくれればいいのだから。


「何をしているんだ?」

「紙を空に飛ばす準備さ」

「空に?」


 尋ねてきたカイの質問に答えると、彼は他の友人達と顔を見合わせた。

 またアイザックがおかしな事を言い出したと思ったからだ。

 他の友人達も、同様の事を思っていた。

 しかし、今までもおかしな事を始めながら実現させてきたので、本当にやってみせるのかもしれないという期待感もあった。


「そんなのが飛ぶわけないじゃない。魔法でも使うつもり?」


 ブリジットが鼻で笑う。

 魔法を使って飛ばすのでは意味がない。

 それなら、紙以外のものも飛ばせるからだ。

 だが、アイザックはそんなつもりはなかった。


「魔法を使わずに飛ばすつもりです。……と言えたらよかったんですけどね。さすがに食堂に火を持ち込みたくないので、今ブリジットさんがやっているように、魔法で暖かい空気を作るくらいはしてほしいなぁとは思っています」

「へぇ、暖かい空気ね。まっ、楽しみにしとくわ」


 地味な役割を任されたせいか、ブリジットは少々ご機嫌斜めだ。

 それがアイザックへの態度に出てしまっている。

 その態度を見て、クロードが注意する。


「アイザックに当たっても仕方ないだろう。お前が手伝うと言い出したんだ。魔法の凄さは部屋を涼しくしただけでも十分にわかってもらえてるさ」


 暑い時期なので、クーラー代わりの魔法は大助かりだ。

 王宮ならば近衛騎士がいるから部屋の温度を下げられるだろうが、一貴族には代替手段がない。

 クロードやブリジットがいるからこそ、ウェルロッド侯爵家でのみ味わえる至福の空間だった。


「そうですよ。こんなに快適な暮らしができる事には感謝しています」

これには・・・・ね」


 ブリジットが何か含むところがある目でアイザックを見る。

 アイザックはその目が意味するところを理解した。

 言い方が悪かったのだ。

 機嫌が悪いブリジットには、それが気に入らなかったのだろうと考えた。


「他にも感謝していますって。リサと一緒にティファニーの説得をしてくれましたしね」

「それだけ?」


 ティファニーの時に助けてくれた感謝の気持ちを伝えたが、なぜかブリジットは満足しなかった。

 彼女の目からは「もう一声!」という言葉が聞こえてきそうだった。

 理由はわからないが、アイザックは仕方なく応えてやる。


「ブリジットさんのような美しい方と同じ屋敷に住める幸運に恵まれて男として幸せです。というわけで、そちらに集中してくださいね」

「なーんか引っ掛かる言い方だけど、まぁいいわ」


 アイザックに、今の言葉を言わせたかったのだろう。

 その理由はわからないが、ブリジットは満足して引いた。

 ここで、今のやり取りを見過ごせないと思う者もいた。


 ――マーガレットだった。


「ブリジットさん。子供達に魔法でいいところを見せられなくて残念なのはわかるのですけど、アイザックに当たるのは筋違いです。女性に優しいからといって、あまり甘えてもらっては困りますよ」

「ご、ごめんなさい。つい、昔のノリで……」

「怒っているわけではありません。こういう事を覚えておかないと、困るのがあなただから言っているだけなのですよ」


 マーガレットは本当に怒っているわけではない。

 言葉通り、ブリジットのための注意だった。

 今までブリジットが他の男の優しさに甘えるような素振りを見せた事がない。


 ――そんな彼女がアイザックにだけ甘える理由とは?


 その事に関して考えた時、マーガレットは厳しく怒る事ができなくなってしまった。

 ブリジットの存在は、本人が考えているよりも大きい。

 やはり、エルフの女という事実は無視できないものであった。


 アイザックの婚約者はリサしかいない。


 ――もし、正妻を選ぶのなら誰にするのか?


 この問題は難問だった。

 マーガレットとしては、ロレッタが最適な相手である。

 彼女が選ばれれば、リード王国とファーティル王国の関係が強化される。

 実家もファーティル王国内での立場がより良いものとなり、アイザックも国王になるチャンスがある。

 これはアイザック本人にとっても良い話だった。


 しかし、アイザックの女性の好みがわからないという問題があった。

 子供の頃はパメラの事を好きになっていたので美的感覚は普通のようだったが、成長した今はニコルの美しさを否定するようになってしまった。

 マーガレットの目から見ればロレッタは美しい方なので、アイザックの好みではないかもしれない。

 もう一人の候補者であるアマンダも可愛らしい女の子だから、アイザックが選ぶかどうかわからない。


 そんな中、ブリジットは有力な候補者だった。

 もちろん、彼女がブサイクだというわけではない。

「人間ではない」という事が、アイザックの興味を惹くかもしれないと思っていたからだ。

 それに、エルフという種族の違いが大きかった。

 彼女がアイザックの正妻になれば、種族間の友好に最適なので他の者は文句を言えないだろう。


 ブリジットは爵位を持っていないが、エルフの世界ではそんなものは存在しない。

 しかしながら、人間にしてみれば爵位を持っていないからといって平民扱いするわけにはいかない相手だ。

 エルフの価値を考えれば、ブリジットの価値は下手な貴族よりも高い。

 公爵夫人になったとしても格では負けないはずだ。


 マーガレットは自分の望む方向だけではなく、アイザックに選択肢を与えるためにも、ブリジットに貴族としてふさわしい教育をする必要を感じていた。

 当然「アイザックのため」とは言えないので「貴族と関わる事も多いので、ボロが出ないように」という名目で教えるつもりだった。

 礼法に関しては今までも教えていたので、自然な形で教えられるというのも大きい。


「まぁまぁ。ブリジットさんも場をわきまえて態度を変える事ができていましたよ。やる時にはできる人なんだと思いますよ」

「そうよねっ、ねっ」


 アイザックが援護してくれたので、ブリジットが笑顔を浮かべて他の者にも同意を求めた。


「そうですね。大使就任パーティーでは貴族令嬢にも負けない振る舞いをされていました。やるべき時にはできる人だと思います」


 パーティーに出席していたカイがブリジットをフォローする。

 完璧ではなかったが、周囲に礼儀知らずと馬鹿にされるほど酷くはなかった事を覚えていた。

 少なくとも、相手の頭を抱えて飛び膝蹴りを食らわすような人物には見えなかった。


「だよね。カイもいい事言うじゃない」


 アイザックとカイに庇ってもらったブリジットは上機嫌だ。

 安堵の笑みは、この場にいた男の子達を魅了させる。


「しかし、ブリジットもそろそろ彼らが大人になる直前の男の子だという事を理解するべきだな。人間の成長は早い。小さな時から知っているにしても、私的な場でも大人に対する態度を取る事を意識した方がいいだろう」


 クロードがブリジットに態度を改めるように指摘する。

 これには彼女も思うところがあったのだろう。

 チラリとアイザックの顔を見ると、すぐに視線を逸らした。


「努力は……する」


 ブリジットが返事をすると、クロードがうなずいた。

 そして、マーガレットに顔を向ける。


「これからは私の方からも注意します。ですが、人間社会で通じる礼法に精通しているわけではありませんので、手助けをしていただけると助かります」

「ええ、私も協力させていただくわ。礼儀作法の時間を増やしましょう」

「えっ……。増えるの?」


 ブリジットが露骨に嫌そうな顔をする。

 今までも時間のある時に教わっていたのだが、礼儀作法の授業は堅苦しいばかりで面白いものではなかった。

 それどころか、ちゃんと教えてくれている分、マーガレットの事を怖い教師として苦手意識を植え付けられていたくらいだ。

 その時間が増えるというのは、ブリジットにとって楽しいものではなかった。


「侯爵夫人から直々に教わる機会など普通はないんだぞ。ありがたく受けるんだ。私も一緒に受けてやるから」

「わかった……」


 ブリジットも貴族社会に関わるなら、礼儀作法はちゃんと身に付けておいた方がいいと理解している。

 気分的に嫌なだけだ。

 今後の事を考えれば、渋々ながらも受けるしか道がない。

 こういう時は、気楽な時代を懐かしく思う。


「さて、そろそろいいだろう」


 クロードが魔法を使うのをやめると、ブリジットも「話題が変わった」とホッとする。

 すり鉢を覆っていた鍋の蓋を開くと、ドロドロとした白い液体がすり鉢の中に溜まっていた。


「うわぁ」


 アイザックと友人達が驚きの声をあげる。

 ただし、その意味合いは違う。

 アイザックは「白いスティックのりを液状にしたらこんな感じかな」という懐かしさの声だったが、友人達は「汚らわしいな」という意味での声だった。

 彼らが汚らわしいと思ったのは、一定の年齢に達しているからだった。


「じゃあ早速」


 アイザックが糊を紙に塗ろうとして手を伸ばす。


「ちょっと待って。触って大丈夫なの?」


 その手をレイモンドが止める。

 見た目がいいものではないので、心配になったからだ。

 そんな彼をアイザックがなだめる。

 

「大丈夫さ。見ていただろう? 材料は米とお湯。害になるものは含まれてないよ」

「お手が汚れますので、こちらをお使いください」


 様子を見ていたメイドが、そっとスプーンを差し出した。

 材料がわかっていても、ドロドロとしたものを指で直接触れるところは見たくない。

 一部のメイドはアイザックがそういうものに触れているところを見たいと思うだろうが、彼女はそうではなかった。


「ありがとう」


 そんな彼女の思いなど知らず、アイザックはただの親切だと思ってスプーンを受け取った。

 そして、紙ののりしろ部分に塗って紙を貼り始めた。


「……あれ? すぐには付かないんだ」

「ある程度は付くが、しっかり貼り付けるなら一日くらいは必要だな」

「そうなんだ……」


 前世で使っていた文房具の糊はすぐに使えたが、米糊はすぐには使えないようだ。

 効果は一緒でも、やはり化学薬品の発展の差は大きかったらしい。

 アイザックが「計算違いだ」と肩を落としていると、クロードが微笑む。


「安心しろ。魔法を使えばすぐに乾く」


 クロードが魔法を唱え、右手の人差し指と中指で糊を塗ったところをなぞる。

 そして、紙を触ってちゃんと貼り付いているのを確認した。


「魔法ってそんな事までできるんですか!」

「そうだ。……戦場で魔法が飛び交うのを見ていたのに、なんでこんな地味なものに驚くんだか」

「火の玉が飛んできたり、雷が飛んできたりするのは怖かったですね。あっちの方が驚きでした」


 アイザックの驚きのポイントがズレている事にクロードは呆れる。

 戦場にいたカイも、クロードの意見に賛同した。

 しかし、すぐに「アイザックだから仕方ないか」と考え直す。

 人と違うのは今更だ。


「いやぁ、それにしても魔法のおかげでこんなにあっさりと問題が解決できるなんて。やっぱり凄い。僕も魔法を使えたらよかったな」


 アイザックは彼らの話よりも、完成した気球もどきに集中していた。

 縦に長い長方形の筒。

 これは暖かい空気が逃げにくいようにと考えて縦長にしたものだった。

 糊は貼り付けるだけではなく、接着面の隙間を埋めるためにも必要だったのだ。


「次は火の玉とか出せますか? 飛ばしたりせず、手のひらの上に出すだけでもいいので」

「できるわよ」


 今度こそいいところを見せようと、ブリジットが名乗りでる。

 彼女は手のひらに火の玉を出すと、アイザックの方に差し出す。

 アイザックは作った気球を火の上に掲げる。


「近付けると燃えるんじゃない?」

「ある程度暖かい空気が必要なんです。うーん……、もう少し火力を強くできます?」

「オッケー」


 ブリジットが火力を強めると、アイザックは気球が軽くなったような手ごたえを感じた。

「いける」と思ったアイザックが気球から手を放すと、一瞬浮かび上がる。


 ――しかし、すぐに横倒しになった。


「……何がしたかったの?」


 ブリジットの冷たい視線は、この場にいた者達の気持ちを代弁していた。

 他の者達は浮かび上がったところよりも、すぐに横倒しになったところの印象が大きかったからだ。

 だが、アイザックは問題点に気付いて、彼女の言葉が耳に入ってこなかった。


「あー……。やっぱりバランスがダメか……」


 細かい計算をして作ったわけではないので、バランスが崩れたという事はすぐに理解できた。

 一瞬は浮いたので、熱い空気を溜めれば宙に浮かぶ事ができる事もできる。


(そうか。上の方が大きくて、下にいくほど狭まる形にしなきゃダメだったんだ)


 前世で見た気球の形が最適なものだと思い知る。

 横着して、ノートを長方形に張り合わせたものではバランスが悪く、温まった空気がすぐに出ていってしまうのも当然だ。

 しかし、今から作り直すのも面倒である。

 このままの形で解決できる方法がないかを考える。


(そういえば戦争物の小説で、武装を盛り沢山に載せた軍艦が転覆する事故とかあったな。トップヘビーだっけ。重心を下げれば、多少はマシになるかもしれない)


「裁縫用の糸と針、ボタンをいくつか持ってきてくれない?」

「かしこまりました」


 アイザックは使用人に、この事態を解決するのに必要な道具を用意させる。


「アイザック、何をするつもりなの? それが何かの役に立つというの?」


 事態を見守っていたマーガレットも、アイザックの行動を不審がって質問してしまう。

 アイザックはブリジットの火の玉の上に、テーブルにあったナプキンをかざす。


「このナプキンを見てください。炎の上にある時は強くはためき、横にある時は微かにはためきます。お風呂もそうです。温かいお湯は浴槽の上側に、ぬるま湯は底側にたまりますよね?」

「そうね」

「空気も同じ。暖かい空気は上にいこうとします。その空気を逃さないよう、糊で隙間を埋めた薄い紙なら空中を浮かぶかと思いましたので実験しているところです。これが成功すれば、いずれは人も空を飛べるようになるでしょう」


 アイザックの説明は、話を聞いていた者達にもわかるものだった。

 しかし、空を飛ぶという点については疑問が浮かぶ。

 空気は触れないし、見えないものだ。

 そんなものを使って、空を飛べるとは彼らには思えなかった。

 だが、馬鹿にした笑いは起きない。

 アイザックには今まで不可能を可能にしてきた実績がある。

 結果を見るまでは、なんとも言えなかった。


「空を飛ぶんなら、紙飛行機っていうのを大きくすればいいんじゃないの?」


 ブリジットが当然の疑問を口にした。

 アイザックは首を横に振りながら答える。


「確かに飛べるかもしれません。ですが、技術的に難しいものがあります。人を宙に浮かばせるという点では、このやり方の方が簡単だと思います。まぁ、まずは実験ですね」


 アイザックとしては、本当に少し浮かぶだけでもよかった。

 気球という考え方が正しいかどうかのお遊びだ。

 ダメならダメで、ハンググライダーのようなものをドワーフに作ってもらうつもりだった。


「お待たせしました」


 使用人がアイザックが要求したものを持ってきた。

 アイザックは自分の手で針を使い、気球の四隅に糸を通す。

 その際、気球とボタンの重さをよく調べ、横転しない程度の重りとしてボタンを糸に吊り下げる。


「じゃあ、もう一回お願いします」

「いいわよ」


 ブリジットは何も期待しないまま、また火の玉を出した。

 アイザックはまた気球をかざし、暖かい空気を内部に溜め込む。

 そして、頃合いよしと思ったところで手を放す。


「あっ、浮かんだ!」


 それは友人達の声だった。

 気球は一メートルほど浮かぶと止まり、そこからゆっくりと床に落ちていった。

 

 ――アイザックの言った通り、暖かい空気で宙に浮かんだ。


 友人達だけではなく、マーガレットやクロード、ブリジット、そして使用人達も目を丸くして驚く。

 食堂の中が驚きで静まり返った。


「浮力が足りなかったか。それとも、形が悪いせいで中の空気がすぐに冷めたか。魔法の火力で強引に浮かべたようなものだしな……。素材も含めて要検証ってとこかな」


 だが、アイザックだけは冷静だった。

 人が乗れるような大きなものではなくても、気球を空に浮かばせるのが難しい。

 その原因について考える。


(やっぱり気球の形が重要だな……)


 アイザックは玉葱をひっくり返したような形の気球を思い出す。


(あぁ、そうか! 地面に立てたり、海の上に浮かべるわけじゃない。空に浮かぶんだから、重心を下じゃなくて上に持っていけばいいんだ!)


 今回は四角いものだったので、ボタンを重りにしてバランスを取る必要があった。

 だが、前世で見た事のある気球の形なら、その必要がない。

 あの形なら、横転する心配はないだろう。

 なぜなら、左右に傾くよりも上に行こうとする力の方が強いからだ。


(布であの形を作らせれば、ちゃんと浮かぶものができるかな? 実際に色々試してみないとわからないな)


 そう思うと、アイザックは自分の友人達に向き直る。


「レイモンド、ルーカス。ピスト先生はいないけど、科学部としての活動はできる。ポールやカイが部活でいない時にやってみないか?」

「やるよ」

「僕もいいの?」


 レイモンドは即答し、ルーカスは自分も参加していいのか確認する。


「もちろんだ。時間があればだけどね。部活に入ってないからといって、勉強ばかりでは気が滅入るだろ? 気分転換に丁度いいと思うよ」

「なら、やりたい」

「わかった。歓迎しよう」


 ルーカスも参加する事になった。

 しかし、こうなると他の二人が不満を持つ。


「俺も参加したい」

「けど、夏休みも練習があるしなぁ……」

「だったら、空いている時間に参加すればいい。完成した時もちゃんと呼ぶから安心してくれていいよ」


 アイザックは優しい声をかける。

 彼らが興味を持ってくれるのは良い事だ。

 ドワーフなら、きっともっと強い興味を持ってくれるという証明でもあるのだから。


「アイザック……。あなたは何をしようというの?」


 強い興味を持ったのはマーガレットもだった。

 だが、未知のものに接する恐怖の顔色をしていた。

 アイザックの考えがさっぱりわからないせいである。

 アイザックは、フッと小さく笑うと両手を広げた。


「空は鳥だけのものではない。その証明の第一歩ですよ」


 アイザックは自信に満ちた笑みを見せた。

 気球を作れるかどうかの問題はあるが、いざとなればドワーフに泣きつけばなんとかなるかもしれないと思っていたからだった。

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