第144話 ケンドラとパトリック

 ブリストル伯爵領はウェルロッド侯爵領の西隣にある。

 だが、岩塩の採掘場はウェルロッド侯爵領にしかない。

 そのため、ブリストル伯爵領は売りのない平凡な領地だった。

 しかし、それはブリストル伯爵領だけではない。

 この世界、この時代は他の領地も似たようなもの。

 リード王国内で特色のある産物があるのは、ウェルロッド侯爵領とウォリック侯爵領くらいだった。

 だからこそ、ブリストル伯爵も王都の商人達の提案に乗った。


 ここで不安を覚えたのがモーガンだった。

 さすがにアイザックの祖父だけあってか――


「カーマイン商会の時のような真似をしないように。王都の商人が多く後援しているので、下手に手出しをして流通が混乱したりすると、さすがに庇い切れんぞ」


 ――と、アイザックが行動する前に、先に釘を刺しておく事を忘れていなかった。


 モーガンが言ったように「王都の商人に手出しをすると厄介な事になる」という事。

 それこそが彼らの狙いだった。

 彼らだって馬鹿ではない。

 カーマイン商会やウェルロッド侯爵領で活動する商会が、アイザックにどのような扱いを受けたかは知っている。

 だから手を組んでアイザックが手出しできなくした。


 参加している商会の中には食料品を扱う商会もいる。

 カーマイン商会のように装飾品を扱っている商会とは違い、痛い目に遭わされた場合に王都の経済に大きな影響を与える事になる。

 言わば、王都に住む者全てを盾にしているようなものだ。

 当然、その中には王族も含まれる。

 下手に手出ししようものなら、自分の方が痛い目に遭う事になってしまう。

 そこで、アイザックはブリストル伯爵の方に弱点はないかを調べ始めた。


(そうは言っても、弱みがないんだよなぁ……)


 ここでアイザックは困った。

 調べられる範囲では弱点となるところがなかったからだ。

 それもそのはず、少し調べて見つかるような弱点などあるはずがない。

 あれば、とっくの昔に他の貴族が弱点を突いているはずだ。


(強いて言うなら、異母弟の存在かなぁ)


 しかし、腹違いとはいえ兄弟仲が良く、優秀だと噂の弟にも重要な仕事を任せるなど信頼は厚いようだ。

 アイザックとネイサンの関係とは大違いである。

 だが、その情報もアイザックが手に入る程度のもの。

 実際はどういう関係なのかはわからない。

 何かをするのなら、とりあえずその辺りを狙ってみようとアイザックは考えていた。 


(でもまぁ、実際にやってみないとどうなるかわからない。妨害に失敗した時の事も考えておいた方がいいな)


 一度考える事をやめ、ケンドラのもとへと向かう。

 荒んだ心を癒すのは妹の存在だ。

 心にゆとりができれば、それだけ良い考えも浮かびやすい。

 そして、今回はケンドラのために、お友達を紹介する予定だった。




「ケンドラ、パトリックだよ」


 アイザックは、ケンドラをパトリックと会わせた。

 去年はまだケンドラが小さかったので会わせなかったが、今年は少し大きくなったので大丈夫だろうと思ったからだ。

 念の為にマーサも一緒にいる。


「わんわん?」

「そう、わんわんだよ」


 絵本か何かで犬の事を知っていたのだろう。

 興味はあるようだが、大型犬なので体が大きいパトリックに近づこうとしない。

 代わりに、パトリックがゆっくりとケンドラに近づいてきた。

 すると、鼻を近づけて匂いを嗅ぎ始める。

 何をしているのかわからないケンドラは、ジッとパトリックを見つめていた。

 その時、ベロリとケンドラの顔を舐め始めた。


「ひっ……、びええええええ」


 突然、顔を舐められたケンドラが大きな泣き声を上げる。

 これにはアイザックがビクリとするだけではなく、顔を舐めたパトリックも驚いて数歩後ずさった。


(どうやったらこんな小さな体から、こんだけ大きな声が出るんだ) 


「大丈夫、ちょっと舐めただけだから」


 アイザックはケンドラを落ち着かせるように優しく抱きしめてやる。

 それでも、なかなか泣き止まない。

 思わずマーサに助けを求めるような視線を投げかける。

 彼女は、こんな状況なのにもかかわらず笑顔を浮かべていた。

 それはアイザックの行動によるものだった。

 アイザックぐらいの年頃なら「泣き喚く幼児など鬱陶しい」と、乳母に任せて逃げてもおかしくない。

 だが、逃げずに慰めようとしているアイザックを見て、自然と微笑みが浮かんでしまったのだ。


「パトリック、おいで」


 マーサはパトリックに手招きをする。

 パトリックは少し戸惑っていたが、大人しくマーサのもとへ向かう。

 すると、マーサがパトリックの体を撫で始めた。


「ふわふわで気持ちいいわね」

「えっ」


(ケンドラを泣き止ませないのか?)


 マーサの行動にアイザックは疑問を抱く。


「肉球もぷにぷにしてて気持ちいい」


 足の裏も触って、パトリックの体を楽しんでいるようだった。

 楽しそうな声を出している。


(こいつ、乳母として大丈夫か?)


 どうしてもアイザックは、そのように考えてしまう。

 だが、それが正しい行動だったという事がすぐにわかった。

 ケンドラが、アイザックの腕を抜け出そうとし始めたからだ。

 アイザックは腕を緩めてケンドラを自由にさせてやると、泣きながらパトリックのところへ向かっていった。

 そして、パトリックの体を撫で始める。


「……ふわふわ」

「ふわふわしてて気持ちいいでしょう?」

「うん」

「えぇ……」


 その光景に、今度はアイザックが驚かされていた。

 先ほど凄まじい泣き声を上げていたのに、今では元凶のパトリックの体を撫でているからだ。

 唖然としているアイザックに、マーサが理由を説明する。


「顔を舐められて驚いただけですよ。この年頃では、ビックリして泣くのはよくある事です。泣き止ませようとするよりも、楽しい事に気を向けさせてあげた方が効果的ですよ」

「なるほど」


 言われて見れば、赤ちゃんを泣き止ませるのにおもちゃを使ったり、楽しい歌を歌ったりするというのは聞いた事がある。

 マーサは楽しそうな声でパトリックの体を触るのが楽しいとケンドラに思わせて「自分も触りたい」という方向に気を向けさせたのだろう。

 まだ言葉をしっかりと理解していないケンドラに、行動で示すというわかりやすいやり方をしていただけだ。

 本当に自分が楽しもうとしていたわけではなかった。


(そうだよな。ちゃんとした乳母なんだから信用するべきだった)


 アイザックは己の浅はかな考えを恥じた。

 その恥ずかしさを誤魔化すように、ケンドラのために行動する。


「パトリック、伏せ」


 アイザックの言葉に従い、パトリックはその場で腹這いになった。


「ケンドラ、こうすると気持ちいいよ」


 そう言って、パトリックの体を枕に寝転がる。

 ケンドラも兄を真似して、パトリックの体を枕にする。


「ふわふわー、あったかい」


 先ほどまで泣いていたのが嘘のように、ケンドラは良い笑顔を見せてくれた。

 アイザックも妹の笑顔を見て、自然と笑みがこぼれる。

 パトリックがケンドラの涙を拭こうとしているのか、顔を舐める。

 だが、今度は泣いたりせず、ケンドラはキャッキャとくすぐったそうに笑っていた。


「これなら仲良くできそうだね」

「そのようですね」


 アイザックの言葉にマーサも同意する。

 ケンドラはまだ小さ過ぎるので友達がいない。

 周囲には大人ばかりだ。

 きっとパトリックがいい友達になってくれるだろう。

 楽しそうなケンドラの姿を見られたので、アイザックはパトリックに感謝していた。



 ----------



 王都に到着して一週間ほどしてから、アイザックは祖父に頼み事をする。


「お爺様、明日はお仕事ですよね。ドワーフ向けの新しい商品を陛下にお見せしたいので、グレイ商会の王都支店に視察に来てもらえないか聞いてみてもらえませんか?」

「聞くのはかまわん。だが、わざわざ陛下に足を運んでいただくような事はしたくない。王宮に持ち込めないのか?」

「小さい物もありますが、大きい物もありますので。それに、王宮の庭とかに荷物を持ち込んでというのも、警備の事を考えればあまりよろしくないかと」

「かもしれんな」


 モーガンとしては「エリアスをグレイ商会に呼びよせる」というのは、あまり良い考えだとは思えなかった。

 臣下として「陛下に見てもらう」と思う方が当たり前で、こちらから持っていく事が当然だったからだ。

 だが、アイザックの言うように、荷物を運び込むために不特定多数の人間が出入りするのもよろしくない。

 どれだけ多くの人間を使うかわからないが、急遽雇った人足の中に他国のスパイが紛れ込む可能性がある。

 王宮の警護が丸裸にされるのは避けなければならない。

 それならば、少しくらいはエリアスに足を運ばせてもいいかもしれないと思えた。


「だが、陛下が『王宮に持ってくるように』と言われるかもしれん。その時に備えて、身元の確かな者達を揃えさせておかねばな」

「はい、もちろんです」


 王宮に運び込むにしても、苦労するのはグレイ商会のラルフだ。

 アイザックとしては、グレイ商会に来てくれた方が色々と説明が楽だと思っていただけ。

 何が何でも呼び寄せたいと考えているわけではない。

 ここは素直に言われた通り、王宮に運び込む可能性もあると考えておくべきだった。


(まぁ、数日はあるだろうし、準備は大丈夫だろう。王宮に運び込めと言われた場合は、屋敷の騎士を動員してでも人手を確保すればいいだけだ)


 アイザックはそのように軽く考えていた。


 ――しかし、翌日。


「えっ、今日! しかも、今から!?」

「はい。ウェルロッド侯より、すぐに用意してグレイ商会に向かって出迎えるようにとのお達しです」


 どうやらエリアスは「ドワーフ向けに用意した新しい物」に非常に強く興味を持ったようだ。

 そして、おそらく時間にも余裕があったのだろう。

 すぐに確認したいとモーガンに伝えたらしい。


「わかった。すぐに用意する。グレイ商会にも使者を出して」

「すでに出しております」

「ならいい」


 そう言い残して、アイザックは着替えに向かう。

 その後ろを、連絡を伝えに来た者が従う。

 彼はグレン。

 かつてティリーヒルで鉄鉱石の入札をしていた時にアイザックの補佐をしていた者だ。

 今回、ノーマンに休みを与えたので彼がアイザックの秘書官として付く事になった。

 アイザックは着替えながら、彼と雑談をする。


「グレンは今度、アルスターに駐在するんだって?」

「そうなる予定です。今までティリーヒルでエルフ相手の折衝役を任されていましたので、その経験を活かしてドワーフの相手も頼むと言われています」


 外務大臣はモーガンだが、全ての事を現地で対応できるわけではない。

 ティリーヒルの代官であるオルグレン男爵も代官としての役目がある。

 エルフ相手の交流は村単位という事もあり、グレンが任されていた。

 今までエルフ相手に目立つ問題はなかった。

 その実績を買われて、ドワーフの相手に配置転換された。

 もちろん、今度は取引の規模が大きくなる事が予想されているので、王都から外交官を含む官僚達が派遣される。

 彼らとの顔合わせも兼ねて、エルフの折衝役を交代して王都へ呼び寄せられていた。


「今までお疲れ様。これからも忙しくなるだろうけどね」

「ありがとうございます。いやぁ、今まで私の事を忘れられているのかと思いましたよ」

「エルフ相手に重要な仕事をしてくれる人を忘れるわけないじゃないか。ハハハ」


 アイザックは笑って誤魔化すが、この間ルドルフ達との会談でティリーヒルに行くまで、完全に彼の事を忘れてしまっていた。

 入札の時に手伝ってもらっていたが、そんな彼の事を忘れてしまうほど様々な事があった。

 もっとも、忘れてしまうほど何も起きなかったという事は、折衝役としてそれだけ良い仕事をしてくれていたという事でもある。

 本人が仕事をしっかりこなしていたからこそ、今まで忘れられていたというのは皮肉なものだ。


「ドワーフとは慎重にやっていきたいと思っているんだ。上手くやっていけるよう、グレンには期待しているよ」

「精一杯頑張ります」


 グレンとしても、重要な仕事をこなすのは栄達への道だとわかっている。

 責任は重いが、それに見合った見返りもある。

 やる気は十分にあった。


「ところで、陛下が当日に行動するとかって今まであったの?」


 アイザックは気になっていた事を質問する。

 いくらなんでも、フットワークが軽すぎだ。


「そうですね……。例えば、侯爵家の当主が面会を申し込めば、当日の面会は許されます。他の者なら、予約を取って数日後に面会とかですね。陛下も気になっていた事でしょうが、当日の申し出ですぐに出向くというのは珍しいと思います。アイザック様によほど期待されているのでしょう」


 アイザックは気付いていないが、ドワーフに関する話をした際「アイザックは貴族派の子息としての認識が薄い」とエリアスに思われていた。

 しかも、アイザックはジュードの後釜として見られている。

 だから、今のうちに王党派に転向させる下地作りをしておこうと思われていた。


 当然、貴族派も王家への忠誠を持っている。

 だがそれでも、地方貴族の権限を拡大しようとする者達はエリアスにとって目障りだった。

 王党派の力が強まった方が、王族としては色々とやりやすい。

 子供のうちにアイザックを取り込むためにも良い待遇を与えてやろうと、エリアスは考えていた。

 それが今回、アイザックの申し出を即座に受けるという行動の一因となっていた。


「期待が重いなぁ……」

「陛下に期待されぬまま人生を終える者の方が多いので、贅沢な悩みですよ」

「その通りだね」


 だが、エリアスも「貴族派・・・の子息としての認識・・が薄い」という事に気付いても「貴族・・の子息として忠誠・・が薄い」という事までには気が付かなかった。

 その事に気付いていれば、重用しようなどとは思わなかったはずだ。

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