第88話 ネイサンの部屋

 三月も半ばが過ぎた。

 大人達は、いつもアイザックに付きっ切りというわけではない。


 モーガンは外務大臣としての仕事がある。

 ハンスは事務局副長として残っている仕事を引き継がせる必要がある。

 他の貴族達は親族の学生の卒業を祝ったり、入学祝いの準備をしたりしている。


 仕事関係に使う時間が無くなり、プライベートな時間が増えるとそれはそれで困ったものとなる。

 遊びに来る友達がリサくらいしかいない。

 だが、毎日遊びに来るというわけではない。

 必然的にパトリックと過ごす時間が増えていた。


「ほら、いくぞー」


 アイザックは木製の底の浅い皿をフリスビーのように放り投げる。

 なんとなくやり始めた事だが、新鮮味があるからかパトリックも楽しそうだ。

 ボールや枝を投げるよりもノリが良い。

 尻尾を大きく振りながら「また投げて」と言いたそうに、拾ってきた皿をアイザックに差し出す。


「よーし、よしよし」


 皿を拾ってきたパトリックを撫でてやり、今度は強めに投げてやる。


「あっ」


 その時、強い風が吹き、皿が思ったよりも遠くへ飛んでしまった。

 庭の中央付近にある生け垣を越え、向こう側へ行ってしまう。

 パトリックが皿を追いかけ、アイザックはその背後を追いかける。


 庭を半分に分けるような生け垣が庭の真ん中にあるのは、ルシアとメリンダのためだ。

 世間体があるので別館を建てるような事まではしなかったが、庭を二つに分けて気楽にお茶会を開きやすいように気遣っていた。

 その生け垣の向こう側にアイザックは初めて足を踏み入れた。


(見た目は変わらないな)


 普段アイザックが使っていた庭を、鏡写しにしたような庭だった。

 おそらく、客が庭を見た時に対照的に感じさせる事で、中央の生け垣にガーデニングとして意味があるように見せるためだろう。

 アイザックの花壇があるかどうかの違いしかない。

 見た目は同じ。

 だが、アイザックには「初めて連れていかれた親戚の家」のような居心地の悪さを感じる。


(もうメリンダもネイサンもいない。誰に気兼ねする必要もないっていうのにな……)


 こちら側の庭に入っても、もう誰一人文句は言わないだろう。

 もう屋敷を二分する必要は無くなった。

 そう、アイザックは屋敷の全ての部屋を自由に使って良くなったのだ。


 ――祖父母や両親、クロードとブリジット、使用人達の部屋以外は。

 

 ……そう、アイザックは屋敷のほとんどの部屋を自由に使って良くなったのだ。

 もう気兼ねをする必要はない。

 しかし、長年の間分かれて暮らす事が続いていた。

 その生活に慣れてしまっているせいで、何とも言えない気分になる。


 そんな複雑な感情を味わっていたアイザックが足元に気配を感じる。

 皿を咥えたパトリックが「どうした?」と言いたそうな顔をしながら、アイザックの足元から見上げていた。


「大丈夫、何でもないよ。さぁ、続きをやろうか」


 パトリックには辛い時に助けられた。

 こうやって遊べる時には相手をしてやりたい。

 アイザックは誤魔化すようにパトリックを撫でてやり、先ほどまで遊んでいた場所まで戻った。




 遊び疲れたアイザックは、パトリックと一緒に軽く昼寝を済ませる。

 昼寝の後、ふと気になった事を確認しに行った。

 目的地はネイサンの部屋だ。

 確認しなくてもいい。

 むしろ、確認しない方が良いとはわかっている。

 だが、自然と足がそちらへ向かっていた。


(……ここだよな?)


 アイザックは兄弟なのに、兄の部屋に入った事などなかった。

 わざわざ部屋毎に誰の部屋か表札など書かれていないので「なんとなく出入りしていたのを見たような気がする」というあやふやな記憶を頼りにしている。

 もう誰も使う者がいない部屋なので、ノックせずにドアノブを回す。

 幸い鍵は掛かっていなかった。


「あれ、エリザは何してるの?」


 アイザックはネイサンの部屋の中にいたメイドに声を掛ける。

 ハタキを持っているので、掃除中だというのはわかったが、アイザックはついそんな言葉を掛けてしまった。


「軽く掃除をしている最中です。ランドルフ様が回復されるまでは、部屋を維持しておくようにと旦那様に命じられてますので。アイザック様はどうされたんですか?」


 死んだからといって、すぐに持ち物を処分するのは忍びないと思ったのだろう。

 ならばきっと、メリンダの部屋もそのままになってるはずだ。

 ランドルフがメリンダやネイサンの部屋を訪れた時にショックを受けないように。


「僕は……、なんでだろう。なんとなくかな……。兄上がどんな暮らしをしてたのか気になったのかもしれない……」


 アイザックの歯切れは悪い。

 自分でも本当になんでこの部屋に来ようと思ったのかわからないからだ。

 その歯切れの悪さが、エリザに「感傷に浸りに来たのだろうか?」と思わせる。


「しばらく、部屋の外に出ていましょうか?」


 彼女は気を使って、アイザックを一人にしようかと提案した。

 しかし、アイザックは首を横に振る。


「別にいいよ。軽く見て回るだけだから。仕事の邪魔になりそうだったら言ってね」

「わかりました。何か御用がありましたら何でも言ってください」

「ありがとう」


 エリザが掃除に戻ると、アイザックは部屋を見回す。


(調度品に関しては母親の影響が大きいな)


 ウェルロッド侯爵家の屋敷には三種類の調度品がある。

 屋敷全体としては大貴族として恥ずかしくない歴史の重厚さを感じさせつつも、派手過ぎず、地味になり過ぎないような雰囲気がある。


 アイザックの部屋は母の影響か、貴族としては恥ずかしくないレベルだが、やや地味といった雰囲気だった。

 それはそれで心が落ち着く雰囲気なので、アイザックは気に入っている。


 それに対して、ネイサンの部屋も母であるメリンダの影響をしっかりと受けている。

 かつて領都の別館で見たような派手な内装だった。

 一歩間違えれば「成金趣味」と馬鹿にされそうだが、アイザックのように庶民の感覚が残っている者でも「華麗だ」と思わせる絶妙なバランスが成り立っている。

 これはメリンダのセンスが良かったのだろう。


(俺の部屋がこんな感じだったら、自分の物だってわかっていても落ち着かなかっただろうな……)


 生まれ育っての貴族であれば別だろうが、アイザックは前世の記憶がある。

「調度品を傷つけたらどうしよう」と、ビクビクしながら暮らすなんて真っ平ごめんだと思った。

 これに関しては、母親が子爵家出身で控えめな性格で良かったと感謝している。


 そんな部屋の中で異質な存在がアイザックの目に付いた。

 立派な飾りも何も付いていない、少し古くなった木刀だ。

 ベッドの横にあるナイトテーブルに立て掛けられている。

 アイザックは近寄って、木刀を手に取った。


(ただの木刀か。いや、違うか)


 木刀の柄の部分にパッと見ではわからないくらい微かに色が変わっているところがある。

 その間隔がアイザックの指とちょうど合うので、ネイサンが握っていたところだろう。

 固い木刀の表面が擦り切れるくらい素振りでもしていたのだろう。


(実は努力家だったのかな?)


 アイザックは、あまりネイサンと話した事がない。

 祖父から聞いた「ネイサンはお菓子やおもちゃを欲しがる」という事や、大貴族の子供という事から「怠惰なクソガキ」というイメージを勝手に持っていた。

 木刀が磨り減るほど使い込んでいる印象など持っていなかった。

 ただ一本の木刀を見ただけでも、ネイサンの印象が変わるような気がした。

 アイザックは木刀を元の場所に戻す。


(けど、侯爵家の後継ぎを目指してたんなら、剣の修行ばっかり打ち込むってのは良くないよな)


 侯爵家の後継ぎならば、剣など嗜み程度で良いはずだ。

 争い事は本職の騎士達に任せればいい。

 個人の武勇を誇るのは、侯爵家の人間がやるべき事ではないはずだ。

 アイザックも剣の練習をしていたが、あれはネイサンを殺すためだった。

「最強の剣士になる」といった夢を持つよりは「強い剣士を使いこなせる指揮官になるべきだ」というのがアイザックの考えだった。


 次にアイザックは机の方へ向かう。

 死者の物とはいえ、机の中を漁るのは気が引けた。

 そこで、机の横にある本棚に置かれている束ねられた紙を手に取った。

 内容は詩を書き連ねた物だった。


(あー、やっぱりネイサンも詩を書いたりしてたんだな)


 貴族として芸術面もおろそかにはできない。

 アイザックも母から詩の書き方などを教わった事がある。

 詩を書くのは気恥ずかしさがあった。

 他人に見られるのはごめんだと思うくらいには。


(でも、ネイサンは死んでるし読んでもいいよな)


 ネイサンがどんな物を書いたのか知ってみたいという思いもあるが、この世界で生まれ育った貴族の子供がどんな内容を書くのかが気になった。

 今後の参考にしようと、ペラペラとめくっていく。

 そして、読んでいくうちにアイザックに罪悪感が芽生え始める。


(これって……、愛の詩だよな……)


 束ねられた紙の半分を越えた頃から「あなたは大輪の花のように咲き誇っている」というように「あなた」の存在が現れ始めた。

 ネイサンも初恋をしたのだろう。


(あっ、ブリジットの事か)


 さすがのアイザックも、ブリジットへの恋心を利用してまでネイサンを罠にハメようとは思わなかった。

 そのせいで、ネイサンがブリジットに一目惚れした事を、つい忘れがちになってしまう。

 名前を出さず「あなた」と書いているのはネイサンの奥ゆかしさを表しているのだろうか。


 詩を少し読み進めて、紙の束を本棚に戻す。

 アイザックもパメラに秘めたる思いがある。

 ネイサンの思いは隠れていなかったが、ネイサン相手でも興味本位で他人の恋心を覗き見るような真似はしたくないと思ってしまったからだ。


 アイザックは部屋を出ていこうとする。

 あまりネイサンの事を知り過ぎると辛くなりそうだった。


「もうよろしいのですか?」


 エリザが掃除の手を止めて、アイザックに聞いてくる。


「うん、この部屋に来るのはまだ早かったみたいだ。お掃除頑張って」


 アイザックはそう言い残して部屋を出ていった。

 向かう先はパトリックの部屋だ。

 またパトリックに抱き着いて、少し心を抑えたいと思っている。


(爺ちゃんや婆ちゃんの色々な事情のお陰で、辛くもあったけど助かっていた面もあるな)


 ――もっと自分とネイサンの仲を取り持つとかやってくれても良かったのではないか?


 そう思った事もある。

 だが、今は仲を取り持つような事がなくて良かったと思い始めた。

 もしも、ネイサンと仲の良い兄弟になっていたらどうだったろうか?


 一緒に素振りをしたり、庭で仲良く駆けまわったりしていただろう。

 ネイサンからブリジットへの思いを打ち明けられ、それをからかったりしていたかもしれない。


 アイザックは「身内だ」と思った人間には甘い。

 父がメリンダを二人目の妻として迎え入れた事や、ルシアとメリンダの間を上手く取り持てなかった事などを残念がってはいる。

 だが、今のように心を病んで会ってくれなくなっても、決して見捨てようとはしていない。

 色々あっても、ランドルフは自分にとってかけがえのない父親だからだ。


(もし、ネイサンと仲良くなっていたら……。多分、殺せなかっただろうな……)


 今まではあまり良い環境だとは言えなかった。

 だが、そのお陰で助かっている面もあるので、それはそれで文句を付けようがなかった。

 しかし、今だからこそどうしても考えてしまう。


 ――ネイサン達を殺さずに済む方法は無かったのか、と。


 今のアイザックは暴力的な解決方法しか思いつかない自分を恥じている。

 もっと穏便な解決方法もあったのではないかと、どうしても考えてしまうのだ。

 自分の未熟さゆえに無駄に死なせてしまったと思うと、まなじりが熱くなってくるように感じた。

 アイザックは指で目を拭う。


「涙は出ないか……」


 アイザックの呟きが口から漏れた。

 感情とは裏腹に、ネイサンのために涙は流せないようだ。

 前世の自分であれば、まだ泣いてやれただろう。


(権力を欲しがるっていうのは、人を変えるんだな……)


 アイザックは自分の変化に驚いていた。

 それが生来から持っていた自分の本性なのかはわからない。

 ただ「高橋 修」という人間とは違う「アイザック・ウェルロッド」という人間になりつつある。

 その事だけが、今の彼に理解できる事だった。

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