名前の呼び方(EP92読了推奨)


「ひかちゃんってさ、そう言えば呼び方を変えたよね?」


 Cafe Hasegawaで、お互い文芸部の原稿をしている最中に、おもむろに彩音がそんなことを言う。


「へ?」

「もぅ、ひかちゃん。ほっぺにクリームついてるよ」


 え? と自分の頬を手で拭うが、彩音はクスクス笑うのみ。


「そっちじゃないから」


 そう言って彩音は、指で頬を拭って、それからペロッと舐める。その仕草が、妙に艶めかしいと思う僕は、このパンケーキの甘さにすでにヤられているのかもしれない。


 Cafe Hasegawaの新メニュー。美樹さんと下河が共同で商品開発をしたらしい。その名も――。


 これ注文するってことは、君に恋しているに決まってんJYAN! カモン恋するパンケーキ! Fu-Fuフッフー!!


……何を言っているって、思うでしょう? でもこれ全部、正式なメニューなのだ。まずゲストがこの商品名をオーダーする。全部、一字一句言わないといけない。しかも男性客ゲストがちゃんと言わないと、店員さんアクターがわざわざ聞き返してくれるという、丁寧オニ仕様なのだ。


 そしてオーダーを受理した途端、アコースティックギターを無造作に奏でるのは冬希だ。


 女性店員アクターが「これ注文するってことは、君に恋しているに決まってんJYAN!」と声を合わせてハモる。その後も男性店員アクターが「カモン恋するパンケーキ!」と続く。最後に「Fu-Fuフッフー!!」と店員アクター、そしてこの場にいるゲストが続くのだ。ムーディーなカフェが、途端にライブハウスになる不思議。プロデュースは我らが上川冬希。そして長谷川瑛真先輩だった。


 ふざけ過ぎじゃないかと思うのだが、これが何故かお客さんのウケが良い。


 そして本命の恋するパンケーキといえば――。


 パンケーキの上にふんだんに盛られた生クリーム。片側にはバニラ。チョコソース、バニラ、フルーツの盛り合わせ。一見、アンバランス。だから、互いに食べさせ合わないと、全部食べられない仕様になっている。


 さらに生クリームが、まるでシャボン玉を彷彿させるくらいに柔らかい。何を言っているのか分からないと思うのだが、ふんわりと舞って、何故か気付くと頬についているのが毎回で。カップルじゃない僕らですら、こんな有様である。


「よ、呼び方?」


 別に誤魔化すつもおりはなかったが、このままじゃ彩音の笑顔に、呑まれてしまいそうだった。


「うん。前はさ、ゆっきのことを雪姫って呼んでたでしょ?」

「ん……。それは。だって、下河にとって名前を呼ぶことは特別って言ってたから。その名前を呼ぶのは、やっぱり冬希の役目だと思うし」

「そうだよね。一回、上にゃんを『冬君』って呼んだら、メチャクチャ怒られたし」

「何やってんのさ」


 苦笑しつつ、バニラアイスを掬う。そのバニラを彩音に差し出した。だって、仕方ない。こうしないと、均等に食べられないなのだ。


「んー。美味しい」


 そんな僕の気持ちなんかお構いなしに、彩音は微笑む。


「でも、ひかちゃんは私に対しての呼び方は変えないよね」

「今さら、変えられないでしょ、それとも黄島さんって呼べば良い?」

「絶対、イ・ヤ」


 舌を出して、ベーとしてみせる。その唇の端にやっぱり生クリームがついていた。

「私にとって、ひかちゃんって呼び方は誰よりも特別なんだけどな」


 ボソリ彩音は漏らす。その声音は、バックで流れる音楽よりか細かったけれど、彩音の声を聞き逃すほど僕は難聴じゃない。だって、彩音は本音を漏らす時ほど、声が小さくなるから。そういう時の言葉は、絶対に聞き逃してあげないんだ。

 その唇の端をそっとナプキンで拭いてあげる。


「うん。僕にとって『彩音』って、呼ぶのも特別なんだけどね」


 ニッと笑って、そう言ってあげる。

 彩音は、ぽかんと目を丸くして――。それからあっという間に、顔を朱色に染めていく。彩音らしくないその様子に、思わず首を傾げてしまう。


「ひ、ひ、ひかちゃん! いきなり、そういうこと言うのズルい! 不意打ちすぎるから!」

「普段、彩音が僕をからかうから、ちょっとしたお返しだよ」

「……か、からかってないよ。全部、本気なのに、ひかちゃんのバカ……」


 パンケーキにかぶりついた僕は、最後のその言葉だけ、聞き逃してしまったんだ。





■■■




「……ひかちゃんのバカ」

「冬希? まさかソレ、彩音の真似じゃないよね?」



「……ひかちゃんのバカ」

「ゆっき、なんでいるの? 上にゃんも! ちょっと、いい加減にしないと怒るよ?!」


「……ひかちゃんのイケズ」

「「弥生先生、そんなこと一言も言ってないからね!」」  

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