第37話 怯え




 ***


 朝目を覚ました直後からずっと大勢の人間から敵意を向けられてきて、エルリーは怯えきっていた。


 エルリーは一度にたくさんの人間を見たことも、怒鳴られたことも殴りかかられたことも蹴りかかられたこともない。全部が初めての経験で恐ろしくてたまらなかった。


 昨日出会ったばかりの少女がそれらをことごとく退けてくれたものの、小屋の外はこんなに怖いことばかり起こるのかと不安は増すばかり。

 今はアルムがいるからいいけれど、アルムがいなくなってしまったら。そうしたら、この怖い外の世界に取り残されてしまうのではないか。


 エルリーはいつも小屋の中に独りで取り残されてきた。

 小屋の中では何も起こらないから耐えられた。こんな広い世界で、怖いことばかり起こる場所で取り残されたら、独りでは耐えられない。 


 恐怖に苛まれ、アルムにすがっていたエルリーだったが、アルムはあっさりと結界を解いてマリスを招き入れてしまった。

 エルリーにとっては、マリスも村人達と同じ、外の世界の怖いものの一つだった。

 その怖いものが手を伸ばしてくるのを目にした時、恐怖の感情がエルリーを支配した。


 無意識のうちに、エルリーは小屋に帰ろうとした。怖いことの起きない、すっかり慣れてしまった孤独な場所へ。



 ***



 マリスが伸ばした手が届くより先に、アルムの膝の上に乗っていたエルリーがぱっと飛び降りて大沼に背を向けて走り出した。


「あっ。エルリー?」


 アルムは目を丸くした。ずっと自分にしがみついていたのにと思いながら目で追う。

 そのアルムの視線の先で、懸命に走っていたエルリーがこてんと転んだ。

 何かにつまずいたのかと思ったが、エルリーはそのまま起き上がらなかった。


(どうしたんだろう?)


 不思議に思ってベンチから立ち上がろうとしたアルムの横で、マリスがぐにゃりと地面に倒れ込んだ。


「マリス? ……っ」


 不意に急激な眠気に襲われて、体から力が抜けそうになった。

 アルムはとっさに結界を張り直した。


 草を踏む足音が聞こえて、木の陰からローブの男――レイクが姿を現した。その手に小さな壷のような物を持っている。


「手間をかけさせるなよ。まったく」


 舌打ちを漏らしながら、レイクはエルリーに歩み寄ってその体を担ぎ上げた。


「エ、ルリー……」


 アルムは眠気をこらえて目を開けた。おそらく、レイクの持つ壷から人を眠らせる香りのようなものが漂っているのだろう。結界を張ったものの、吸い込んでしまった分の効果は消せない。

 それでも、このままエルリーを連れて行かせるわけにはいかない。


 アルムはレイクの周りの地面から木を生やした。

 眠気で頭がはっきりしない今、レイクの手からエルリーを奪い取るような細かい操作はできない。だが、レイクを木で閉じこめて足止めするぐらいはできる。

 しかし、レイクに向かって伸びる木を、飛び出してきた何者かが叩き斬った。


「えっ……」


 アルムはぽかんと口を開けた。

 斧を手にして肩で荒い息を吐いているのはジューゼ伯爵だった。


「なんで……」

「こうするしかないんだ。私達ではもう、この子を抑えておけない……」


 ジューゼ伯爵は苦しげに呟いた。

 少し離れたところにアルムが村人から取り上げた武器が散らばっている。伯爵はそこから斧を拾い上げたらしかった。


「この子は、ここにいてはいけない存在だ」

「……っ、そんなことないっ!」


 アルムは思わず反論したが、伯爵はこちらを見向きもしなかった。


「闇の魔力を持つ仲間と生きた方が、幸せなはずだ。レーネもきっとそう望んでいる」


 ひどく疲れた顔をした伯爵は、エルリーを抱えたレイクに「行け」と促した。レイクはきびすを返し大沼に背を向ける。


(止めなきゃ……)


 事情はさっぱりわからないが、伯爵がエルリーの存在を隠そうとしていることは確かだ。そんなことを許してはいけないと思ったアルムはレイクを止めようと木を伸ばすが、伯爵に片端から斬られてしまう。眠気のせいで木を伸ばすスピードが遅いせいだ。

 レイクの背中が遠ざかる。


(駄目……エルリー……)


 アルムの目の前でレイクの姿が木々の間に消えようとしたその時、何者かがレイクの前に立ちはだかった。


「逃がさないぞ。闇の魔導師」


 レイクを見据えたヨハネスが、手にした水晶に力を込めながら言った。


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