第19話 悪魔の生活11~魔物の出現~
「ァァ…ァァァ……」
闇が具現化したとして、呻き声をあげたらこんな声なのだと思う。
その囁きがスッと耳に入ってくる。
しかしそれは決して清涼なものではなく、こびりついて人の体を呪うタールのよう。
人を快楽に誘い、そして破滅させる類のもの。
そんな言葉がピッタリな鳴き声だった。
いや、鳴き声ではないのかもしれない。
そいつは、俺が地球上で知るどんな生物の姿からも大きく逸脱していた。
真っ黒で、丸い形。
大きさはバランスボールほど。
その体は高密度の黒い霧で構成されていた。
しかも中に浮いている。
吊るされたり、何かに支えられているわけではなさそうだった。
体の中央には人間の口のようなものが存在していた。
歯が並び、舌がある。
よだれをボトボトと落としている。
それ以外の特徴は、ない。
目や鼻もない。
ただただ醜悪だった。
気持ち悪い。
気持ち悪くて気持ち悪くて、たまらない。
あれは本当に生き物なのか?
見ただけで分かった。
こいつは……魔物。
正真正銘、俺の常識外に生きる魔の怪物。
「
そうダゴラスさんは呟いた。
ダゴラスさんの息遣いが急速に早くなっていく。
過呼吸に陥ってる時の呼吸に近い程、小刻みになっている。
ああ、この反応は良くない。
やばいのだろう。
俺がそう思った瞬間、黒い霧の怪物は動き出した。
動き出したと言っても、黒い霧の怪物は最初の位置からは移動していない。
その身に纏っている黒い霧だけ、増幅したかのように膨張している。
二倍ほどの大きさに膨らんだかと思うと、次は収縮し始めた。
体中に腕を作りながら。
黒い腕が、何十にも黒い体から生えていた。
腕も黒い霧のようなもので構成されている。
異形の体は変化するらしい。
ダゴラスさんは、そいつが形状変化するのをただ黙って見ている。
さっきから大剣を構えたまま、微動だにしていない。
様子を伺っているのだろうか。
怪物も、腕を四十本くらい生やしたところで動かなくなってしまった。
数秒経過。
たったではない。
その時間は濃密だった。
両者のにらみ合いが続く中、先に動いたのは怪物の方だった。
腕が、あらゆる角度から一斉に、俺の方へ向かってきた。
「え?」
狙っていたのはダゴラスさんではなかった。
腕は異常なほど速い。
十数メートルぐらいの距離は少なくともあったはずなのに、腕が到達するのに約一秒。
俺の前方にいたダゴラスさんを左右へ避ける形で腕が伸びてきたのだ。
「……っ!」
ダゴラスさんは、大剣を右へ左へ素早く振り回し、俺に一番近づいていた驚異を払う。
右からきた腕を斬り落とし、次に真正面から来た腕を、少ししゃがんで下から切断。
一振りに腕一本では処理に間に合わないため、数本纏めて斬り落としている。
落ちた腕は霧のように周囲へ胡散した。
それでも数多の腕は止まらない。
十の方向から同時に攻撃を仕掛けてくる。
逃げられない。
俺が思った次の瞬間。
ダゴラスさんは俺を抱え、五メートルほどの高さを跳躍した。
真正面に追撃を仕掛けてくる腕が接近。
ダゴラスさんは跳びながら大剣でいなし、体を横に大剣ごと一回転。
大剣の刀身が円状に斬撃の軌跡を残し、十数本の腕が中間部分から全て刎ねとんだ。
達人の技量が成せる技だった。
人外の動き。
しかし、感嘆としている暇はない。
絶技を繰り出しても、後続の腕が容赦なく俺に迫ってくる。
数の力は強大だ。
究極の一個体であっても、圧倒的な数の力には敵わない。
真理の一つだ。
それにあの黒い霧の怪物は、他の攻撃手段を隠し持っているように思える。
俺を抱えたままのダゴラスさんに、長期戦は厳しいだろう。
本人も承知だったのか、状況を打破するかのように呪文を唱える。
「
ケナズ……あの時見た火の玉のルーンだ。
でも違う。
サルの時に見た時のものよりも、二倍ほど大きな炎の球が形成されていた。
紅蓮に輝く小さな恒星。
それをそのまま腕の本体である、黒い霧の怪物に投げつけた。
無数の腕が主を守ろうと炎の玉の行く手を阻む。
結果、密集した腕に当たり大爆発した。
「ぐっ……!」
非常に強い爆風。
ダイナマイトの比ではない。
こんなものをくらったらひとたまりもない。
至近距離なら五体がちぎれ飛ぶ。
爆発した場所を中心に、辺りが黒煙が発生し、視界がふさがれていく。
腕の攻撃は収まったようだった。
逆にこれでもまだ腕の猛襲が続くのならば、笑う他ない。
それほどの威力であった。
ダゴラスさんが地面に着地した直後、抱えていた俺を離してその場にしゃがむ。
「乗って逃げるぞ!」
大声でダゴラスさんは叫ぶ。
一刻の猶予もないことを言外で伝えるように。
考える前に俺はその大きな背中に飛び乗った。
「絶対俺から手を離すなよ!」
至近距離から鼓膜が破れそうな声量で伝えるダゴラスさん。
耳が痛いが、文句を言っているような状況ではない。
返事の代わりに強く背中にしがみつくと、ダゴラスさんは俺を乗せて疾走。
大地を蹴る鈍い衝撃音と同時に、周りの景色が全て線と化してしまう。
もの凄い脚力だ。
速すぎて、掴んでいた肩を離しそうになってしまう。
が、俺も根性を入れてしっかりつかみ直した。
ダゴラスさんの首を締め付けるぐらいに腕を絡め、足はあらん限りの力を胴体に組む。
そうでもしないと、風の力で振りほどかれてしまう。
本当に振り落とされかねん。
後ろの方を、首だけひねって見てみる。
黒い霧の怪物が、どんどん後方の方へ小さな点となって遠く離れていく。
俺達と怪物の距離があっという間に遠いものへ。
おおよそ自動車が一般車道を走るぐらいのスピードだろうか。
風が顔の部分に強く当たって痛い。
それに息も吸いづらい。
前方を見てみると、爽快感が凄まじかった。
このスピードを維持し続けること十数秒。
後ろを再度見てみると、追っ手の気配はもうないようだ。
もう安心していいはず。
俺は背中から降ろしてもらうように、ダゴラスさんに頼もうとした、その時。
視界の端に、黒いものが見えた。
横を見てみる。
……黒い霧の怪物がいた。
今度は百本ぐらいは生えているのではないかと思われる大量の細腕を体中から形成しつつ、下腹部には二本のダゴラスさん並みに大きな黒い足を生やしていた。
歪な形の黒い形となって、怪物が俺たちに並走していた。
こんなに速く走っているのに、それに追いつくのか……
戦慄によって安心感が叩き壊され、心臓が過度なストレスによって高鳴っていく。
ソイツの口は、余裕そうに笑っていた。
あの呻き声を発しながら。
風の轟音にかき消されてもいいはずなのに、やけにクリアに俺の耳にそれは届き、呪いとして精神をかき乱す。
「ァァァ……」
「ダメか」
走りながらダゴラスさんが呟く。
若干諦めが入っている声だ。
笑いながら黒い霧の怪物が数十本の腕を伸ばしてくる。
移動速度は両者とも同じなので、腕を伸ばされると距離をあっという間に詰められたも同然だった。
ダゴラスさんは移動速度に緩急をつけて腕を攻撃しやすい位置に入り、華麗に大剣で切り払う。
それでも腕は再形成され、再度襲撃。
一向に相手との距離は離れないし、こんなんじゃあこっちも大剣を振るってばかりになるだろう。
防戦一方ってやつだ。
しかもこの高速での戦闘。
体力の消費はさらに著しいはずだ。
ますます状況は悪化している。
どうすんだよ……
さらに追い討ちをかけるように、黒い霧の怪物は走りながら体を変形させた。
今まで生やしていた百本近い腕を一つに統合して、槍のようなものを作り出す。
黒い大槍だ。
ダゴラスさんの持っている大剣以上の大きさ。
明らかに胴体よりも大きなそれを持ち上げ、俺たちに矛先を向ける。
「後ろっ!!」
俺は大声で叫ぶ。
声を全力で出さないと、風に声を持っていかれてしまう。
俺の声に反応して、ダゴラスさんが後ろを振り返る。
だがその時にはもう黒い霧の怪物が、体から槍を分離させて射出していた後だった。
「なっ!!」
ダゴラスさんの顔が強張る。
先程までの腕の速度であれば、大剣で簡単に対処することも出来ただろう。
しかし、大槍はあまりにも速い速度で俺達に接近。
相手が大槍を投擲したとかそんなんじゃない。
体から分離したと思ったら、いきなり最高速度で俺達に向かってきたのだ。
この戦いにおいての最速だった。
速すぎて黒い線上の物体としか認識出来なかったぐらい。
だが、それでもダゴラスさんはそれに反応してみせる。
生物が反応することの出来る限界を超えた反射によるもの。
一瞬の中の一閃。
大剣が大槍とぶつかる。
……当てたまでは良かった。
が、逆に弾かれてしまったのはこっちだった。
ドリルのように大槍は回転していたのだ。
結果、軌道を逸らすことには成功したが、大槍はダゴラスさんの右足の大部分を抉った。
「っ!!!」
叫びはなかった。
ダゴラスさんが痛みを耐えていたからだろう。
しかし、大きく体勢を崩す。
自動車並みの速度を維持したまま、ダゴラスさんは頭から大木に激突した。
爆発したかのような激突音。
慣性の法則と衝撃で俺も別方向へ投げ出される。
ろくな体勢で着地することも出来ず、背中から大の字で地面に叩きつけられた。
「カハッ……」
衝撃と同時に呼吸が一時的に出来なくなる。
肺から空気が押し出されるような。
そんな、地獄のような苦しみが俺を襲う。
「ッ…ハッ……!!」
今の状況のことなど忘れて、無我夢中で空気を求めた。
こんなにも空気を欲しているのに、呼吸が出来ない。
体が反応してくれない。
マズイ。
そんな言葉が頭の中で連呼される。
パニック。
うまく呼吸が出来ない!
敵が来る!
殺される!
容易に想像出来る。
負傷したダゴラスさんから離れた場所で、俺が殺される様子を。
そうだ……
ふと急にある感覚を思い出す。
生前はもっと酷い目にあっていたような……
そう思った瞬間、急速に頭が冷えてきた。
呼吸も元のコンディションを取り戻していく。
覚醒した、と言うよりも元々俺が努力で獲得した能力であるような感覚。
細かい理由は分からない。
でも、俺はまだやれるようだ。
そう、まずは立ち上がることから始めよう。
全てはそこからだ。
全力を出して、腕に力を込める。
腕を支えにして、上体を起こす。
足も同様に力を込めて、立ち上がる。
さっきまで全く問題なかった筋肉が、痺れたようにうまく動かない。
倒れてしまいたい欲求に抗って、体を垂直に。
痛い……痛いが、ダゴラスさんは足が抉れてもっと痛いはずだ。
根性を出して、目の前の光景を見てみる。
目の前にアイツがいる。
怪物だ。
黒い霧の怪物は、目のない顔で俺のことをしっかりと見ていた。
……顔面がぶつかる一歩手前の位置で。
「ハハッ」
思わず少し笑ってしまった。
ズンッ。
鈍い音が聞こえる。
体が揺れたぞ、今の?
何が起こったのか分からない。
空中に赤い血が飛び散っている。
俺から見て、左の方からだ。
左を見てみる。
俺の左腕がなくなっていた。
血がすごい勢いでびしゃびしゃと。
何故か痛みは感じない。
けれども、意識の方はスーと引き抜かれていくように薄れていく。
あらら、抵抗してやろうと思った矢先にこれかい。
あまりにも相手は強すぎたようだ。
これから俺は殺されてしまうんだろうか。
あ、でも違うな。
何回も自分で指摘しただろ。
俺はもう死んでるんだって。
こんな時にこんなくだらないことを思うだなんて……
目の前がボヤけてどんどん暗くなっていく。
元々辺りは暗かったので、なおさらだった。
相手の囁くような呻き声が近づいてくる。
怪物は俺に止めをさそうとしているみたいだった。
「すいません、ダゴラスさん……」
俺、結局足手まといでした。
そして。
薄れゆく意識の中で、生前の大切な彼女……代弁者の姿を見た気がした。
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