2-5 強くしてくれる、言葉たち

 六月末、夏の暑さと共にステージ本番が近づいてきた日曜日の朝。

 合唱部の休日練習は、土曜日午前のみが基本である。しかし今のような追い込み時期は日曜日も入ってくるため、毎日学校に来る週も出てくる。体力面ではハードだが、家で親と過ごしているよりは気が楽だった。


 親の目から離れたくて早めの電車で来たせいか、まだ部室には誰もいなかった。用務員さんから鍵をもらい、周りの部屋の人出を確かめてから、自主練を始める。


 こういうとき、自分だけの声が周りに聞こえていると思うと、どこか心細い。近くで仲間が聞いているときには薄い羞恥心が、部外者だらけだと思うと芽生えてしまう。しかし、恥ずかしさに負けるようでは堂々としたソロも危うい。いっそ合唱部の宣伝だと思ってしまおう、そんな勢いで自分のパートを歌っていく。

 繰り返すうちに夢中になっていたのか、人が近づく気配に全く気づかなかった。ドアを開ける音に驚き、焦って振り返ると。


「おはようございます、やっぱり詩葉うたはさんでしたか」

 陽向ひなただった。部外者じゃなくて安心したし、ここで一緒に練習するなら陽向がベストである……今の笑顔は私に会えて嬉しいって顔かな、そうじゃなくても今日も可愛い……

「良かった、ヒナちゃんか……おはよう、早いね」

「詩葉さんこそ」

 陽向はてきぱきと荷物を置き、楽譜と筆記具を携えてこちらへ歩み寄ってきた。


「みんな集まるまで、一緒に練習させてもらってもいいですか」

「もちろん!」

 練習モードの真面目な顔に切り替わる、この早さも陽向らしい。ソプラノパートを一緒に復習しようかと思ったが、陽向とならもっと濃い練習ができそうだった。

「ヒナちゃんに聴いてほしいところあって、いいかな?」

 陽向はいつも私のことを真剣に見て、聴いて、たくさん褒めてくれる。一方で彼女は、上手くなるために必要な厳しさや真摯さをちゃんと分かっている人だ。つまり、短所を指摘してもらうにもすごくいい相手である。


「アドバイスをもらうのは私の方だと思いますけど……いいですよ、どうぞ!」

「ありがとう! ドレミのここね、」

「楽器と一緒になってからラストまで……確かに難所ですね、オッケーです」


 キーボードで出だしの音を確認してから、陽向のカウントで歌いだす。陽向の神経が私に集中しているのを感じながら、あくまで本番を意識。


 ハミング、五度上ハモ、主旋律、スキャット、掛け声。

 聴き馴染んだ「ドレミの歌」を大胆にアレンジし、小節ごとに細かくパートを変えながらめまぐるしく歌いつないでいくのが、今回のコンセプトだった。ひとりひとりに多彩な表現が求められるし、特に上級生に課されたハードルは高かった。

 

「……っと、どうかな」

「やっぱり素敵です!」

 私が歌い終えると、陽向はまず笑顔で労ってくれる。やりがいがすごい。

 そして真面目な目になって、感想を述べてくれた。


「まずこの前よりは確実に良くなっていると思います、全体的に。私の耳なので厳密な判断はできないですけど、音程とか縦がブレたりはすごく少なかったはずです」

「そっか良かった、ありがとう!」

「ただ、発音はっきりしようってのがもうひと頑張りじゃないでしょうか。後、頑張ってる感がかなり滲んじゃってます」


 見込んだ通り、陽向からの指摘は的確に思えた。

 発音は前に先生にも言われた通り、子音が曖昧になる所がある。それに陽向は英語にも詳しい人だ、私よりも分かっているはず。

 そしてムード。難しい歌を難しそうに歌う……というのは自然なことだが、ステージに立つ態度としてはいただけない。そもそも、楽しんでる感を押し出そう、というのが今回の大きな目標である。


「うう、そうでした……」

 改めて壁にぶつかり、声も曇る。

「とはいえ、大幅に改善したのは確かですし……」

 陽向が申し訳なさそうな顔になったので、慌てて声のトーンを上げる。

「いや、言ってくれてよかったんだよ! 気を付けて歌おうって思うと、どうしても気にしいな顔になっちゃうからさ。やっぱり格好悪いよね」

 自分に言い聞かせるように答え、それから楽譜に目を落とす。最近は成長を実感できることが多かったとはいえ、調子に乗っていられない。

「……そういう表情も、詩葉さんは素敵です。けど」

「え?」


 陽向の声色が変わった、と思ったら。彼女はぐっと顔を近づけてきて。

 こつん、と。おでこ同士を合わせてきた。


 視界いっぱいに、陽向が広がって。瞳に映る私が見えそうなくらい、近くで見つめあって。それまでの全部忘れて、全神経が釘付けになって。

 柔らかそうな桜色の唇が動く。私の唇で触れてみたい、なんて期待を必死で打ち消す。いくら仲良しでもさすがに行きすぎだ。


「楽しんで歌ってる詩葉さんの方が……笑顔の詩葉さんが、私は好きですから」

「ヒナちゃん……」

「笑ってください」

 そして陽向は、私の頬を優しくつまんで、くいっと上に引っ張った。反射的に笑みがこみあげて、彼女なりの励ましなのだとようやく分かって、一気に力が抜ける……友愛の表現に積極的なのは知ってるけど、さすがにドキドキが止まらない。


「もーう、ヒナちゃんったら」

 仕返しとお礼に、陽向の頬をつまみ返す。指先の柔らかさに、細まる瞳の眩しさに、ずっと触れていたくなる。


 そしてお互い同時に笑いだす。私たちなら大丈夫、こんなに上手くなってきたならこれからもっと輝ける。陽向と一緒だからそう思えた。

 肌の温もりと笑顔のきらめきは、どんな言葉よりも雄弁だ。女の子どうしだけが知っている魔法である。


 陽向は照れ顔のまま、一歩引いて楽譜に目を落とす。

「けどやっぱり、詩葉さんはこういう明るい曲が似合うと思うんです」

「ありがとう、嬉しいな。そうそう、まれくんも似たことで褒めてくれたんだよ」

 幾度となく、私が歌うときの明るさに希和まれかずは触れてくれていた……そもそも、私が高校で合唱をやろうと思った最初のきっかけだって、中学での彼の言葉だったのだ。最終的には結樹を追いかけて入ったようなものだが。


 しかし陽向は、希和の名前が出たことに怪訝そうだった。

飯田いいだ先輩ですか。確かにあの方、たまに気の利いたこと言いそうですよね」

「うん。周りが気づかないことにも感性向けてるし、そうやって気づいたこと伝えてくれる優しさも持ってるし……昔から男の子と話すの苦手だったんだけど、まれくんと過ごしてるときって、そういうこと感じないからさ」

「ああ確かに、飯田先輩は男っぽさ薄いですからね」

「えっとヒナちゃん、それ褒めてるのかな」

「貶してはないですよ、私も話しやすいですし? けど詩葉さん、随分と飯田先輩のこと買ってません?」

「……そうかな?」

「少なくとも私には、欠点の方が多く思いつきます」


 やはり陽向は、希和のことをあまり快く思っていないらしい……入部したばかりで異性の先輩と仲良くなるのも難しいが、それにしてもだ。確かに最近の希和は苦戦が目立つし、そもそも合唱部女子は足を引っ張る男子に厳しめな面がある……いや、男子も厳しいか。真田さなだ先輩とかキツいこと言いがちだし。

 

「うん、それは否定できないけど……そうだ、ヒナちゃんあれ知らないでしょ」

 ともかく。希和の欠点ばかり陽向が見ているようなら、それは変えてあげたい。彼には彼で、無二の個性があるのだ。


「ほら、これ」

「学校新聞ですか……あれ、合唱部の特集」

 去年の春に出た号だ。当時はまだ合唱部員ではなかった希和が、報道編集委員として合唱部を取材。碧雪へきせつ祭とコンクールに向けた合唱部の活動模様と、歌にかける想いを記事にしてくれた。

「はい、担当者を見てみましょう」

「……飯田先輩ですか、これ書いたの」

「そうだよ。すごいでしょ、文を書いてるまれくんも、デザインやった阿達あだち先輩って方も、後このイラスト描いたの由那ゆなさんだよ」

「へえ……」

 

 陽向が感銘を受けているのに、私まで嬉しくなる。希和たち委員と、当時の部長だった和可奈先輩を中心に、みんなで作り上げた記事だ。部内の練習だけでは味わえなかったたろう、特別な思い出。


「私がね。合唱部がすごく楽しいよって話をずっとしていたら、まれくんがそれを記事にしたいって言い出して。それから部活に取材に来るようになって、記事ができていって……先輩たちが、結樹たちがじゃなくて、【わたしたち】が特別な仲間なんだって、そう思えたのが嬉しかった、誇らしかった」


 私たちの抱く大切が、誰かに届くこと。伝えようとしてくれる人のおかげで、もっと誇れること。


「それに中学の頃もね。変にこだわったり、張り切りすぎたりして……ウザがられてた私のこと、まれくんは認めてくれたし、励ましてくれたんだ。

 私は、自分のこと好きになるのが苦手な人間なんだけど。そんな私でも、人にはない取り得があるんだって感じさせてくれるから……ほんとに、いい友達だなって思います」


 やらなくてもいいことに首を突っ込む。気にしなくていいことに執着する。周りを引っ張ろうとして空回る。好きを伝えようとして引かれる。悲しみに寄り添おうとして迷惑がられる。

 私はいつも、加減が下手で。ブレーキを忘れていたことに、後から気づくばかりで。


 そんなときに、踏み出した意味を認めてくれるのが希和だった。周りが踏まなかったアクセルを踏み込んで、派手にコースアウトした私を、道の外れまで迎えに来てくれるのが彼だった。


 ともかく。陽向は私の気持ちも分かってくれたらしい。

「……ちょっと見直しましたよ、飯田先輩のこと」

「うん、良かった」


 立場は違うけど、仲良くなってくれたらいいな〜と陽向を見つめていると、他の部員もやってきた。陽子ようこ先輩と由那先輩だ。


「おっす、おはよ……何さ、朝から二人でイチャイチャしてたの?」

 獲物を見つけたかのような、不穏な笑顔の陽子先輩。突っ込まれると面倒そうなので弁解しようとすると、陽向の右腕がぐっと近づいてきて、私の左腕をがちっと絡めた。


「そうですよ陽子先輩、羨ましいんですか?」


 ……見せつけるような陽向にキュンと来てしまったあたり、そろそろ私も重症かもしれない。

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