第2章 恋に気づいて、世界が揺らぐ

2-1 目指せ、格好いい先輩!

 合唱部で新体制が始まってからの日々は、瞬く間に過ぎていった。

 勿論、学校は楽しいだけじゃない。授業は難しくなって頭が痛いし、進路のことを考えると胃が痛い、ただでさえ定期的に体のあちこち痛いのだ。何も考えず伸び伸びできた小学生時代は何と良かったか……いや、何も考えなさすぎてクラスで浮いてしまったのだが。


 ともかく、そうした悩ましい諸々も吹き飛んでしまうくらい、合唱部にいると幸せだった。メンバーが膨らんだことで合わせの感動は増しているし、自分が上手くなっているのも日に日に感じる。

 何より、毎日のように陽向ひなたからの好意に触れられる。先輩への敬意、仲間への尊敬、友人への愛情、それらが綯い交ぜになった「好き」の結晶。私はここで必要とされている、ここにいる理由が確かにある、その実感は底知れないエネルギーになっていた。


 *


 三年生の加藤かとう由那ゆな先輩、二年生の私とあき、一年生の陽向と沙由さゆ、この五人が今期のソプラノパートだ。今回のコンクールの自由曲ではソプラノにソロパートがあり、そこは由那先輩が担当することになっている。全員の歌唱を聴いたうえで、由那先輩が担当するべきだと先生が判断した。つまり最上級生が自動的に選ばれた訳ではなく、あくまで実力基準である。


 そしてその実力には、私だって納得していた。ソロをやるなら由那先輩、紛れもない本心である。

「由那さん……やっぱり凄いです……」


 今だって、先輩の練習の成果を前にして感動と歓喜に震えている。入ったときから綺麗なハイトーンだったけど、一年経ってさらに磨きがかかっている。

「ありがとうね、詩ちゃんに感動してもらえると私も頑張り甲斐があります」

 先輩は照れ笑いで答えた。知り合った頃は褒められても謙遜することが多かったが、最近はストレートに胸を張る姿が眩しい。中学時代は不登校だったらしいことを思えばなおさらだ。物静かなようで歌声の瞬発力はトップクラス、そんなギャップが頼もしい。


「はい、次はみんなの番ね」

 由那先輩に促され、他四人が立ち上がる。先輩がソロで抜けるため、本来のソプラノパートは下級生でしっかり守らなければいけない。私たち二年生にとっては、「先輩がいなくても立派に」歌えることを証明するという意味合いもあった。


 パートで歌うべく半円になると、陽向の横顔に目がいく。楽譜に目を落とし、これまでに教わったことを復習する表情は真剣そのもので、見ている私の気が引き締まるほどだった。練習の前後や休憩のときはあの手この手で私に甘えてくる一方、こういうときの集中力は別格だ。体と耳に神経を張り巡らせ、自信のないポイントは迷わず質問する、そのサイクルでみるみる上達していった。


 私も負けてられない――限られた座を巡って競うのは苦手な性格だけど、仲間の姿に刺激されるのは好きだ。というより、この部に入って好きになった。


「じゃあいくよ……さん、はい」

 歌い始める。心と心を通わせ、声に声を溶かしていく。気分頼りでは重ならないニュアンスや抑揚を理詰めで覚え、感情をなぞりながら歌にする。

 いい音楽には共演者への愛情が必要、とは限らないのだろう。プロの音楽家たちが常に仲良しどうしとは限らないはずだ。

 けど、私にとっては。一緒に過ごした時間の長さと濃さ、お互いの歌に真剣に向き合い賞賛を交わし合った日々こそが、美しい合唱の根底だった。

 事実。これまで以上に、パートのみんなへの愛情を感じながら歌ったテイクは。


「はいオッケー、良いじゃんみんな。これなら私も張り切ってソロ歌えるよ」

 由那先輩にとっても納得のいく出来だったらしい。最近はパートのリーダーとして気を張っていたようだったし、私も安心できる笑顔だった。


「今のところだけど、表情の付け方は詩ちゃんがお手本になれそうだから、みんな意識してみて……けど詩ちゃん、最近ほんとに急成長だよね。ぐっと先輩っぽくなってる」

 由那先輩に褒められて、顔が紅くなる。

「え、ほんとですか? じゃあ後輩のおかげですよ……こんなに可愛い二人に挟まれて」

 私の惚気じみた発言に、明が顔をしかめる。

「詩葉、急にオッサンくさくなってない?」

「お、おっさん……確かにちょっと盛り上がりすぎたけどさ……」

 言いすぼむ私の手に、きゅっと温かい感触。陽向が手をつないできた。

「私は光栄ですよ? 詩葉さんの頑張る理由になれて」

「ヒナちゃん……何か企んでる?」

「そうやって照れる顔が見たいだけです」

 言い返す言葉も浮かばす、私からも指を絡ませてぎゅっと握り、ふたり同時にパッと放した。触れてほしい瞬間だけじゃない、離れるべきタイミングまで読まれているようだった。


 にこにこと見守っていた由那先輩が、手を合わせて仕切り直す。

「それじゃあ熱い友情がお客さんにも伝わるように、私のソロも入れてもう一回!」


 *


 雪坂ゆきさか高校の部活動は、定期試験前の一週間は休止するのが原則である。あの手この手で練習時間を確保する部もあるが、合唱部では勉強に集中する方針が取られていた。


「という訳で、明日から部活はお休みです。家での自主練も勧めたいけど、まずはしっかり勉強してください! 三年生は受験勉強に直結するからね。それに一年生も、苦手を放っておくと大変なことになるからね……昔の私みたいに……うわあ黒歴史」

 激励のはずが、段々と虚ろな顔になっていく松垣まつがき先生。高校から音楽科だったというが、座学は相当嫌いだったようだ。


 ともかく、私もちゃんと勉強しないとマズイ。自習や塾通いは勿論、友人に頼りたいところもあった。

 帰り支度の途中、同期との勉強会――遊ぶ方便ではないガチの勉強会の当てを探して回る。まずは結樹ゆき、成績は申し分ないし単純に会いたい、のだが。

「ねえ結樹、明日の放課後あいてる?」

「教えてくれっていうなら悪いけどパス。物理が相当に厳しいから、学校いるときに先生に聞いときたい」

「そっか……ううん、頑張って!」

 結樹は理系で私は文系、重視する科目も違ってきてしまっている。春菜はるなも理系だが、彼女には「早く帰らないとだから、ごめんね」と断られた。明は文系だが聞かない、彼女は昔から「勉強で学校に残るのは無理」派だ。


 そして、最後にして最大の候補。

「ねえ、まれくん――ちょっと飯田いいだ先生~!」

 面倒そうな気配を察したのか、文系の希和まれかずは私に背を向ける。私がしつこく回り込んで、やっと目を合わせてくれた。

「……いいけど、二人でもいいの?」

 これまでは結樹も交えていた。また、私たちに共通の知り合いは合唱部以外にいないので、他に誘えそうな人はいない。男女二人は目立つという懸念は分かるものの、やはりメリットの方が大きい。

「まれくん、学校とか塾の先生より聞きやすいんだもん……やだ?」

 こう言われては断れまい、そもそも友達に頼られると嬉しいタイプだろう君は。

「分かった、やるからにはちゃんとね」

「当然、よろしくね!」


 交渉成立――は、いいのだが。

「え~、飯田先輩ずるいですよ、部活の外でも詩葉さんとだなんて」

 陽向である。私の隣にくっつきながら、不服そうに希和を見ている。

月野つきのさん、それは語弊だよ……大丈夫、ほんとに勉強する会だから」

 言い置いてから、今度こそ希和は背を向ける。いくら部活で女子慣れしているとはいえ、小悪魔系の後輩には太刀打ちできないのだろう。


「ほんとだからね、ヒナちゃん。勉強会と称してイチャつくリア充とは違うから、私たち」

「なら安心ですが……けど良いなあ、私も同じ学年だったらもっと一緒だったじゃないですか。そうだ、詩葉さんが先生になってくれれば」

「なれたらなりたいけどね~、私ほんっとに成績よくないし」

 卑下ではない。結樹に合わせて無理して入った、一帯でも優秀な高校だ。まずは平均越えが目標である。


 そこに、一年アルトの香永かえも話に入ってきた。

「あんまり騙されないでくださいね詩葉さん、陽向は相当にデキますよ」

「え、そうなのヒナちゃん」

 確かに頭の回転は早いし集中力も抜群だ、勉強に発揮されれば強いだろう。

「いやそんな、ちょっと得意な科目はありますけど」

「だって陽向、英語ペラペラじゃんかよ。お母さんの影響だかで」

 香永にバラされ、陽向は肩を竦めている。

「……って言われてるよ、ヒナちゃん?」

「まあ、多少は――So if you go overseas, I go along at any cost. I will be a perfect navigator and I wanna make your night sweet and lovely.」

 手を取りながら囁かれたのは、実に流暢な英語だった。先生よりネイティブらしいのでは……あまり聞き取れないなりに、意味を推測してみる。

「えっと……全然わかんなかったけど、ナビゲーターって言ってた?」

「そうです、一緒に海外旅行に行きましょうね~って話です」

「うん行く、絶対一緒に行く、ってかヒナちゃん何者!?」

「ただの先輩想いの女子高生ですよ~」


 はぐらかす陽向とじゃれつつ、音楽室を後にして。

 しばらく会えなくなるからと、玄関前でぎゅうっと抱き合った。


 柔らかい温もりに全身を預け、嬉しそうに私を呼んでくれる声を脳に刻みながら。

 欠点だらけの私なりに。この子が向けてくれる尊敬にふさわしい先輩でいようと、改めて心に決めた。

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